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『ゲゲゲの謎』を巡る謎~文学部、演劇の存在意義について


『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』の興収が好調だそうで結構なことです。23年11月17日の公開から80日間で興行収入25億3000万円、累計動員177万人を記録し、上映も続いているそうで、これだけヒットしているとちょっとしたブームと言ってよいと思うのです。その年の興収トップ10のメガヒットのような売れ方ではないのに、2月19日現在も1日1回でも上映が続いている、そんなロングランはなかなか貴重です。
私が観に行った23年末池袋の上映も大入りで、隣席の若い女性(まず20代)は号泣しながら見ていましたし、知人に聞いた話でも、劇場内で泣いている人を見かけたそうです。端的に、世の中に受け入れられていることは間違いないでしょう。

ですが、私はこの映画がこれだけウケていることと、世の中の現状にある乖離を感じるのです。
そしてこれは、『ゲゲゲの謎』だけにとどまる話ではなく、同作と前後して封切られ、それぞれに大きな話題となった、『ゴジラ-1.0』と『窓際のトットちゃん』も併せて考えることではないかと考えています。
既に同じようなことを考えた人はいて、なぜ今先の大戦を扱った映画が次々封切られているのか、という記事はちらほら見かけました。ただ、「なぜ」に対する説得力のある回答を持った論評は管見の限りでは見つけられず、私自身も回答は持ち合わせておりません。そもそも、私は上記の問い自体を考えようともしていません。そうではなく、私が問題にしたいのは、『ゲゲゲの謎』のような作品を良いと思う人がそんなにたくさんいるのなら、政治に対する視線にもっと厳しさがあってしかるべきなのに、全く政治への批評性のない風潮が続いている現状です。

(以下、ストーリーには関わりませんが、根多バレを含んだ批評になります。これから見ようという人はご注意ください)

『ゲゲゲの謎』を観たとき率直に思ったのは、これはヤヴァい映画だ、ということです。長きに渡ってタブー視され続けてきた日本の暗部へのストレートな批評を打ち出した映画で、これは「荒れるなぁ」と思いながら観ていました。ところが、私の予想とは裏腹に特段目立って「荒れて」いる話も目にしません(探しにいけばいくらもあるでしょうが、本稿では、探しにいかなくても入ってくる現象を分析対象としますので、探しにはいきません)。むしろ、今も上映が続いているロングランとなっています。愛されているわけです。

となると、疑問なのが先述の問題です。この映画がそんなに愛されるなら、もう少し選挙の投票率が上がり、裏金問題に怒りの声が上がり、世襲に対する疑問が湧き、ボンクラ政治家に緊張感を持たせるくらいのことは起きても良いと思うのですが、全くそうなっていません。
となると、上映中の感動は劇場を出たら雲散霧消してしまうか、そもそも映画の批評性を現実の批評性へと落とし込めていない人が多いということが考えられます。おそらく後者でしょう。

こういう話をすると、エンターテインメント作品は政治性から切り離して楽しむことに価値があり、現実を持ち込むのは無粋という反論が予想されます。私だって、わざわざお金を使って、いじめだの汚職だの性犯罪だの人権がどうのといった内容の作品を観たいとは思いません。「馬鹿だねぇ」と笑って劇場をあとにできるものが好ましいです。しかし、どんなに荒唐無稽なようでも、全ての作品は原理的に政治性から自由ということはありえません。ノンポリなんて存在しないのです。要はその政治性が、顕在的か潜在的かの違いだけです。
たとえば、ちょいと様子のいい男女の恋愛模様を描いただけの作品や、病・老・別・死を扱えば「感動」になると思い込んでいるような偏差値皆無な、端的に言えばゴミクズにも政治性はあります。主人公の職業や、襲ってくる病気、解決策となるテクノロジー、台詞や舞台となる街にも、なぜそれが選ばれたのかと考えと、作品が暴いてしまうことや隠蔽してしまうことが見出されてきます。
アメリカのプロパガンダ丸出しのハリウッド映画であるとか、チンケなナショナリズムを煽るためだけに作られた戦記もの、古いところではプロレタリア文学。こうしたものの政治性は顕在的というより露骨ですから、わかりやすい。それに対して、作品が何かを隠蔽してしまうような例は、その危険性が見えにくいのは事実です。が、存在しないのではありません。

そこで今回取り上げる『ゲゲゲの謎』ですが、これはもう露骨でした。直球ど真ん中。もろ出し祭りです。戦時中の旧軍の愚劣さ、戦後の混乱期から復興期における欲望、世襲、ムラ社会の閉鎖性など、平たく言えば「日本の嫌な部分」が次々と描かれていきます。
あれだけ直接的だと、見たあと重く暗い気持ちを引きずりながら、「日本」について考えざるを得ないのではないか。何かしらの行動に反映されるのではないか。私はナイーヴにもそんなことを想像するのですが、現実にはそんなことは起きず、エモーショナルな映画受容ばかりが聞こえてきます。
これは大きな問題なので、本稿では雑な見立てを提示するに留めますが、おそらくプロレタリア文学の失敗がトラウマになっていることが原因の一端ではないかと思うのです。
政治的なメッセージが先行しすぎると、作品の固有性は死に、何を描いても結局は同じオチになり、観客に飽きられて衰退していく。プロ文の崩壊に、国家権力による弾圧(これは紛れもない事実です)だけでなく、そうした「自滅」の要素があったことは確かです。そのプロ文の崩壊を見て来た後世の作り手たちが、露骨な政治性、メッセージ性が表に出ることを避けるようになったということは考えられます。それが結果的に、この世界にはノンポリな作品があるという幻想を生み出したのかも知れません。
が、『ゲゲゲの謎』は違います。ストレートに政治的な色を出しています。にもかかわらず、「面白い」「泣ける」という批評性のない感想で終始してしまっている。これは、作品を受容する側に大いに問題があると考えざるを得ません。映画に限らず、批評の方法を知らな過ぎるのでしょう。強制的に「感想文」を書かされ、強制もされないのに感想をつぶやく。こんなことの繰り返しが、批評性なき観客を生んでしまっているわけです。

となると、批評性のある解釈や、作品と社会を繋ぐ実践を教えていくしかありません。文学部の存在意義はそこにこそあると私は考えます。また、大学だけでなく、遅くとも中学くらいからは、「感想」ではなく、「批評」の方法を教えるべきです。最初は、作品の問題点を指摘すること、これはおかしくないか? という点を指摘させること。そんなことから始めても良いと思います。その過程で、好きな作品が危険なものであると暴露されて傷つく子どもも出てくるかも知れません。しかし、そこから目を背けていては、永遠に批評性は身につかず、結果としては「大人」になれません。大人とは、成熟した市民として、自分以外の誰かを大人にすべく導く者のことです。選挙にも行かず、「行っても結果はかわらない」と言っている者を大人とは呼びません。

そして、演劇に関わるということも、上記のような、作品の批評性、政治性と正面から向き合う行為です。
朗読パンダは、23年~24年にかけて修了公演付き連続ワークショップを開催し、次回も11月4日の修了公演に向けた2回目が企画進行中です。そこでは、演技を向上させ、藝人として格を上げていくために、脚本読解の方法も伝えています。ひとつの台詞をどう言おうかと考えているうちは、オーディションで勝つことはできません。作品全体の中で、自分の演じる登場人物がいかなる役割を果たすべき存在なのか、作品そのものへ解釈を拡げていかなければ「正解」の演技はできてこないのです。そして、ときには作品の危険性やまずさに気づき、仕事と割り切る判断や、そうした危険な作品に関わることを降りる決断をして欲しいと願っています。エンターテインメントに携わる多くの人が、作品の政治性に意識的になれば、しょうもないものが減っていくのではないか。そんな微かな希望を持って、私はワークショップに臨んでいますし、高校・予備校・大学で文学を講じることも基本的には同じスタンスです。

24年2月12日 連続ワークショップ修了公演(於:絵空箱)より

私は、演劇や藝事をプロパガンダにしたいと言っているわけではありません。ただ、どんなノンポリを謳ったような作品も政治性と無縁でなく、そこに気が付く観衆、作り手が増えていかなければならない。そう申し上げたいだけです。
本稿をお読みになった方で、今まで自分が好きだった作品のおかしさや鋭さにハッとする経験をされる方がいたら本望です。

大塩竜也


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