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「掛け替えない」ということ

最近読んだ『ポンコツなわたしで、生きていく。』という本に、一瞬驚かされながら、考えてみれば至極当然だよなと感じたことがあります。

それは、「私の代わりなんぞ、どこにでもいる」ということ。

「どこにでも」は多少デフォルメしている感がありますが、人間なんて、社会や世界というマクロな視点で見れば、いくらでも代替可能なんですよね。

そこで挙げられていた例は、スティーブ・ジョブス。

"彼がいなくなったらapple社は終わる"などと言われながら、彼の死後も、apple社は変わらず世界の最高峰の一角で在り続けているわけです。

つまり、彼の代わりはいた、ということです。

お馴染みの引用ですが、藤井風の『帰ろう』という曲にこのような一説があります。

わたしのいない世界を
上から眺めていても
何一つ 変わらず回るから
少し背中が軽くなった

藤井風『帰ろう』

現代は「個の世界」だとか「自分らしく」などと言われることが少なくありません。

それ自体を僕は否定しているわけではないし、むしろ個々の持つ個性は尊重されてしかるべきだと思う方です。

ただ、それが時には「重さ」となることがあることも、否めません。

だからこそ、風さんは「軽くなった」と表しているのでしょう。

とはいえ、ぐるぐる戻りますが、「私の代わりはどこにでもいる」というのは、ある意味で生きる意義や価値を減らしかねない文句です。

このアンビバレンスをどのように捉えるべきなのか、今回は考えてみます。

私の代わりは、いる。

「私の代わりはいる」というのは、社会や世界というマクロでみれば至極その通りであるというのは上述の通りです。

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