第1話【二つの視点×異類婚姻譚×ピカレスク・ロマン】

 オレはあの長い戦争をなぜか生き延びて帰還した。
 結局のところ勝ったのか負けたのかよくわからない戦争だった。まったく手柄もなく気のきいた土産話もないオレは、かつて暮らしていた街へ帰り着き、奇跡的に焼け残っていた、ひとりぼっちの安アパートへ戻った。

 そこでオレを待っていたのは失業と貧困の現実だった。帰還してすでに季節は一周したが、ほかのほとんどの戦場帰りたちと同様にオレはいまだ定職を得られず、数日に一度の食料配給の列に並ぶだけの毎日が続いていた。
 その頃オレは、自分がなんで人間に生まれたんだろうと思っていた。
 戦争のうちにノラ犬やノラ猫がやたら増えた。連中はたしかにみんな痩せっぽちだが、それでもなんだかんだで生きている。昼間、飲食店が寄り添い合う路地裏で残飯をあさるノラ犬も、焼け残ったトタン屋根の上に寝そべるノラ猫も、みんなのうのうとアクビをしながら暮らしている。とくにノラ猫なんて、その日を生き延びるためのエサを探すより、ゴロ寝にうってつけの場所を見つけることに一所懸命だ。
 連中を見ていると、人間なんて結局は社会という檻のなかで生かされているだけの惨めな囚人なんじゃないかと思った。

 長い夏の果てにようやく酷暑がやわらいだある日、そんなオレにも突然うまい話が転がり込んできた。
 軍隊で同じ部隊にいた男と街中でばったり再会し、なぜかこのご時世にずいぶん身なりがいい彼の誘いで食事をごちそうになった。うまい話というのはその食事のことではない。現在なにやらあやしい仕事に手を染めているらしい彼から、儲け話を持ちかけられたのだ。
 数人のチームで食料配給のトラックを奪う計画らしい。いつも腹をすかせていたオレには、まったくお誂え向きの仕事だ。オレに与えられた役割は、奪ったトラックを運転して密輸業者の待つ場所まで届けることだった。
 男の計画通り、難なく襲撃は成功した。あとは戦場で軍用トラックのドライバーとして働いたオレの面目躍如の場だった。
 だが結果はそこまで。計画は失敗に終わった。
 一匹のノラ猫が、オレの目の前を横切ろうとしたからだ。
 その白い猫をよけた俺の運転するトラックは、道ばたで山となっていたガレキに突っ込み横転し、満載の積荷をすべて道路にぶち撒けた。

 オレはかき集められるだけの食料を服のポケットに詰め込んで逃げた。あとのことは何も考えられなかった。
 遠くで白いノラ猫がオレを見つめているのが見えた。


 街が壊されなくなってもうどれぐらい経っていたかしら。
 ひと頃は毎日のように建物が焼かれ、地上の生き物がたくさん死んだ。
 アタシは、もうあの炎と煙から幼い子どもたちを連れて逃げ回らなくてすむと思って、ずいぶんホッとしたものよ。

 でも、その後も何もよくはならなかった。なぜか人間たちは以前よりもっと飢え、人間たちのおこぼれをアテにしていたアタシたちはさらに飢えた。
 アタシの子どもたちの半分は死んでしまった。生き残ってたのは、栄養が足りなくて歩くのがやっとの兄妹だけ。あの子たちだって、あと何日生きていられるかわからなかった。
 人間が寝静まった頃に起き出して、夜明けまで街を歩き回り食べ物を探すけど、行き倒れた動物の死骸のほかは何もない。
 昼間、屋根の上に疲れ切ったカラダを横たえて通りを眺めると、長い列をなした人間たちが、なぜか同じ服を着たほかの人間たちから食べ物を分け与えられているのが見えた。静かに並ばされてる大人も子どもも、誰も幸せそうには見えないけれど、アタシにはとても羨ましく思えた。
 あの人間たちはきっと今日も明日も生きられる。アタシら猫に食べ物を恵んでくれる者なんてどこにもいないけど、人間にはいる。

 夜風を肌寒く感じ始めた頃のある日、とんでもないことが起きたの。
 よくないことなら一揃い何度も味わってきたけど、そうじゃない。
 いいことだから「とんでもないこと」。
 あの日アタシは、もうこの街で食べ物なんて見つからないとあきらめて、子どもたちを連れ街を出ることにした。
 もちろん行くあてなんてなかったけれど。
 ずいぶん遠い場所まで行ったと思う。それがどのあたりだったかは思い出せない。明け方に見知らぬ通りを渡ろうとしたとき、すごく大きな人間の乗り物がアタシたちに向かって走ってくるのが見えた。いつもなら子どもをかばって素早く逃げられたはずだけど、もう何日も食べていないせいで意識が朦朧としてたアタシは、その場に立ちすくんだまま身動きができなかった。
 そして自分たちの終わりを悟った瞬間、信じられないくらい大きな音がして、人間の乗り物は突然青い火花を放ちながら左右にうねり、最後には通りの真ん中へ放り出された。街を焼かれていたあの頃みたいに赤い炎が噴き出し、真っ黒な煙が薄明るい空へと立ち上がった。
 どれぐらいの時間が過ぎたのかしら。
 やっと正気に戻ったアタシが通りを見回してみると、なんと道の上が食べ物だらけになってるじゃない!?
 しばらくしてどこからか大勢やって来た人間がぜんぶ片付けてしまったけど、それまでのあいだにアタシはかなりたくさんの食べ物を運び出して隠すことができた。

 おかげでアタシも子どもたちも、ずいぶん長いあいだ生き延びられたわ。
 子どもたちはカラダが丈夫になるまで育つことができて、いまでは自分でエサを探せるほどになった。

 それにしても、あのときあの場所から走り去って行くのを見かけた、あの人間は誰だったんだろう?
 一瞬だけ目が合ったから、顔は覚えていたけれど。
 ひょっとして、アタシたちのために食べ物を運んでくれたのかな?
 そんなことないよね、でもあのときのアタシにはそう思えるぐらいうれしい出来事だったのです。


 オレはまた、元の生活に戻った。
 同じ部隊にいた男は当然怒り狂ったが、結局それ以上オレを追及することはなかった。
 もちろん、彼から新たな話を持ちかけられることもなかったが。

 やがて冬が来て、あらゆる社会から爪弾きにされたままのオレは、昼なお暗い部屋の片隅で飢えと寒さに縮こまっていた。
 そして、そんなオレのもとを訪れたのが、あの女だった。
 色白の肌、頼りなく痩せてはいるが獣のように滑らかなシルエット。どこか険しげな翳りのある面立ちの奥に光るまなざしが、正面からオレを見つめて微かに揺れていた。
 訪ねる部屋を間違えたのだろうと思いつつも、戸口で思わず立ちすくむオレに女は言った。
「トラックの運転手さん?」
「・・・昔のことさ。軍隊にいた頃の」
「いまは違うの?」
「運転手を探してるのか?」
「いいえ。でも会えてよかった。アナタを探してたの」

 彼女がいったい誰を探していたのかはわからなかったが、長らく話し相手すらいなかったオレは女を部屋へ入れた。女はとてもしなやかな物腰で、オレがすすめたイスに座った。
「さっき配給所で見かけたの」
「あとを追って来たんだね。残念だが食べるものはないよ。きょうも配給にありつけなかった。オレのすこし前の番で配り切ってしまったからね」
「おなかが空いてるのね」
「とても。君もそうじゃないのか?」
「もちろん。でもアタシは大丈夫よ」
 その言葉の意味がわからないまま二の句を継げないでいると、女は白いコートのポケットから銀色の包装にパックされた保存食を取り出した。
「おひとつ、いかが?」
 オレはたぶん呆気にとられたままの表情で、女の差し出す包みを受け取り、可能な限り焦る気持ちを隠しながら中身を口に押し込んだ。ノドが乾いていたせいで思わず咳き込んでしまったオレの様子を見て、女はその透き通るような手を口元に押し当て、ちいさな笑いを噛み殺していた。
 オレは込み上げてくる恥ずかしさをごまかすため視線をそらし、
「腹が減ってるなら、君も食べればいい」
と言った。女は、
「それが最後のひとつなの」
と言った。
 それが、あの女とオレが出会った日の出来事だった。

 女はなぜかそのままオレの部屋に居着き、やがてオレの妻になった。
 オレたちは依然貧しいままだったが、それでもふたりでいると冬の寒さも絶え間ない空腹も、ずいぶんと楽になった気がする。すくなくとも、戦場で味わい続けたあの底の見えない虚しさはどこかへ消え去ってしまっていた。

 やがて、遅い春が来た。
 いつものように、オレたちは薄暗い部屋で声もなく身を寄せ合って、いまだ去らぬ寒さをしのいでいた。オレが次の配給まであと何日かを数えていたとき、ふいに妻が振り返って問いかけてきた。
「アタシたち、幸せになれると思う?」
 オレは答えられなかった。
 本心を言えば、オレはいまのままでもいいと思っていた。厳しい冬も妻がいたおかげでなんとか過ごすことができた。世の中がこれから急によくなるとは思えなかったが、もう戦争は終わったのだし、すぐに何らかの重大な危機が訪れるとも思えなかった。
 そして何よりも、オレは愛すべき者とともに生きていられることのよろこびを静かに感じ取っていた。
 そんなこと、戦場では望むことすらできなかったし、この部屋へ戻ってからも一度だって望まなかったことだから。
「わからないな」
「幸せになりたくないの?」
「それも、よくわからない」
「だったら、幸せになりましょうよ。きっとその方法はあるわ。アナタがそれを望むならね」
 オレはふいに不思議な気分になった。
 本当にそんなことが実現するような気がした。それほどまでに、妻の言葉の響きが確信に満ちていたからだ。
「どうすればいいのかな」
「両手に何もないのなら、手にできるものを奪えばいいのよ」
「誰から?」
「この世界でアタシたちよりたくさんの物を持っている、誰からも」

 オレと妻は、盗賊になった。
 なぜかオレたちはやることなすこと手際がよかった。どんな盗みも強奪もあざやかにこなしてみせた。じつのところ、それには妻の働きによるところが大きかった。彼女はきっと、生まれつきその道の天才だったのだろう。
 誰にも気づかれず、どんな追跡もかわし続け、いつしかオレたち夫婦は、悪党の世界ですこしばかり名の知れた盗賊コンビになっていた。
 いや、いつの間にか妻がオレたちの手下として引き込んでいた少年と少女もいた。彼らはときに妻とも競い合うほど盗みの才覚に恵まれていた。彼らも含めて、オレたちはまるで結束の堅い家族のような「盗賊団」だった。

 とうに人の道を外れてしまったとはいえ、たしかにオレたちの暮らしは豊かになった。もうその日の食べ物に困ることもない。それどころか、暮らし向きは日増しに贅沢になっていった。
 いつしかオレは、いままで感じたことのない感覚に酔いしれていた。
 美しい妻と両手に余る富に囲まれて生きること、それが“幸せ”なのだと感じていた。


 あの人間の姿をふたたび見かけたのは、初霜が降りた日のことだったわ。
 例の長い列に並んで食べ物を求めるいくつもの人影のなかに、あの痩せっぽちの姿を見つけたの。アタシは思わずそのあとをつけて行って、彼の部屋をつきとめた。
 彼と会うことについてアタシはもう迷わなかった。ずっと彼を探し続けているうちに、アタシはずいぶん人間に詳しくなっていた。
 そしてあの日、九死に一生を得た瞬間から、アタシはなぜか人間に姿を変えることができるようになっていたから。
 彼は疑いもせずアタシを部屋へ入れた。そこは外にいるほうがまだいくらか温もりを感じるほど寒い場所だった。手土産に持っていた食べ物を差し出したら、とてもおなかを空かせていた彼は慌てて呑み込もうとして一瞬ノドに詰まらせたわ。
 思わず笑いを噛み殺すアタシを見て、彼もすこし照れ笑いした。
 それが、彼とアタシが出会った日の出来事だった。

 アタシはそのままその部屋に住み着いた。そして、いつの間にか彼はアタシの夫になっていた。
 冬が深まるにつれ部屋はどんどん冷え込んで、そしてアタシたちはずっと貧しいままだった。それでも夫はときどきアタシに、さびしげで、でもせいいっぱいやさしい笑顔を見せた。きっと夫は貧しさに慣れ切って、豊かな暮らしをあきらめてしまっていたのね。

 厳しい寒さも峠を越え、すこしだけ日差しに温もりが戻ったある日、アタシは夫に言ってみた。
「アタシたち、幸せになれると思う?」
 人間の世界には、生きるための資源がたくさんある。それはすべての人間を生かせるものではないようだけど、もしそれらの一部でも誰かから奪えれば、しばらくは不安を抱かず暮らしてゆくことができる。
 ノラ犬やノラ猫なら誰だってそれをまっすぐ求めるのに、人間の多くはそんな単純なことに気づかないでいるみたい。アタシは夫もまたそうなんじゃないかと思って、ためしに尋ねてみたの。
 夫は、わからないと答えた。そうよね、人間たちの大半が気づいていないことをこの平凡な男が知っているわけがない。
 だったらアタシが教えてあげようと思った。いつかの日、アタシとアタシの子どもたちを救ってくれたのは、ほかでもないこの夫だもの。彼がどうしてそんなことをしたのかはわからないけど、それでアタシたちが生きられたのはたしかなんだから、こんどはアタシがこの人間の姿を使って夫に本当の“幸せ”を感じてもらおうと思った。

 夫とアタシは、その日から生き方を変え、ほかの人間から奪い始めた。
 最初は肝心のところで足をすくませていた夫も、アタシたちノラ猫にとっては当たり前の生き方にすこしずつ慣れていった。アタシたちはすぐに食べ物に困らなくなり、それ以外のいろんな物にも囲まれて過ごすようになったわ。そのうち、もっとたくさんの物を奪うため、アタシと同じように人間に姿を変えられるようになっていた子どもたちにも手伝わせるようになった。

 夫は変わった。もう背中を丸めて歩くこともなくなり、痩せっぽちでもなくなった。アタシたちと同じことをする人間たちのあいだで、夫は一目置かれるようになったみたい。いつの間にか、あのやさしい笑顔を見せてくれることはすくなくなったけど、それでも前よりずっとたくましくなったとアタシは感じていた。
 そうよ、これが“幸せ”というものなの。


 雨の季節がやって来て、その日も空を黒い雲が覆っていた。
 盗賊になってからオレたちは毎日のように居場所を変えていたが、ようやく本格的なアジトを構えて落ち着き始めた頃、突然あの同じ部隊にいた男が訪れた。彼は以前オレがしでかした失敗のことになどすこしも触れず、ある大きな仕事をオレに持ちかけてきた。
 とてつもなく巨大な財宝が舞い込む貴重な情報だ。そんなことをわざわざ他人が伝えにくるほど自分たちが一流の盗賊として認められたということが、オレはなんだか誇らしかった。それに、以前の失敗の恥を彼の前で拭う機会を与えられているような気もした。
 オレは男の話す計画に惹き込まれていった。男はこの計画を成功させるには妻の助けが必要だと言った。そのときちょうど妻と若い手下たちは出かけていてオレひとりだったが、オレはふたつ返事で男の申し出を快諾した。


 降りしきる雨音だけが聴こえていたわ。
 夫はまたも失敗した。夫の昔の仲間という男が奪おうとしたのは財宝ではなく、盗賊仕事の天才といわれたアタシだった。
 男はアタシたちをだまして連れ去った。そして、夫を人質にしてアタシを自分の仕事のために操ろうとたくらんだの。
 子どもたちはアタシを救うため抵抗して殺されてしまった。そして、アタシは窓のない部屋に太い鎖で繋がれた。おそらく、夫も同じ建物のどこかに閉じ込められているのだろうとアタシは直感していた。
 夫がそうであるように、アタシも失敗した。
 彼をすこしばかり“幸せ”にするために、アタシは夫に「奪うこと」を教えた。でもアタシは「奪われること」については何も彼に教えなかった。それがとても重要なことだということを自分でも忘れていたのだと思う。
 ほかの誰かからためらわず奪うためには、奪われることの無情を知らなければならない。アタシは最初からそうやって育ったから、それが当たり前のことだった。でも人間として生まれた夫にとってはそうではなかったのだ。アタシはそのことに気づけなかった。
 いや違う。アタシはやっぱり、あの頃それを忘れていた。夫と過ごしたあの寒い部屋での日々は、けして誰にも奪われないものだとアタシ自身が錯覚していた。そう心のどこかで信じ込んでしまうほど、彼との時間はアタシにとって穏やかで、温かなものだったから。
 その時間こそ、あの日、彼が「わからない」といったものの“正体”だったのよ。あのとき、アタシは、そしてきっと夫ももう幸せだったんだから。
 それに気づいたとき、アタシも夫も囚われの身となっていた。
 もう遅いと思った。事実として、もう遅かった。

 でも、たったひとつアタシにできることが残されていた。それはとても簡単なこと。そしてきっと、ほかのどんなことより取り返しのつかないこと。
 ノラ猫へ戻ればいい。そうすれば、この鎖は解ける。そして壁の排気口を伝って、夫のいる部屋へ忍び込めばいい。
 そのとき、あの人間の男はアタシの夫ではなくなってしまうのだけれど。
 囚われた夫の前に現れるのは、一匹の猫なのだから。


 物音がして目覚めたとき、壁を伝って白い猫が降りてきた。
 猫は椅子に縛られたオレの後ろへ周り、どんな方法を使ったかわからないが、オレの両手を縛った縄を解いた。
 オレは振り返ったが、そこに猫の姿はなかった。
 逃げ出すときに、妻がいなくなったと騒いでいる者たちの声を聞いた。彼女のことだ、無事に逃げ出してどこかへ姿をくらませてしまったのだろう。

 オレは遥か遠い逃亡先でひそかに暮らし始めた。ここではささやかながらまっとうな仕事にもありつけ、なんとか日々の糧に困らず生きている。
 もう二度と会えないという予感とともに、オレは長いあいだ妻がふいにまたオレの部屋を訪れるのを待っていた。何年も、何年も。
 でもやはり、彼女は現れなかった。

 ある日、猫が部屋の扉の外で鳴いている声を聞いた。戸を開けると、年老いた白いメスのノラ猫がじっとオレの目を見つめていた。どこかで見かけたことがあったような気がしたが、たぶん思い違いだろう。
 オレは猫を部屋へ入れた。

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