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「左遷」の語源は『史記』項羽本紀であるという説は誤りである


「左遷」の語源は劉邦?

左遷」ということばがある。
『デジタル大辞泉』では、「《昔、中国で、右を尊び左を卑しんだところから》低い地位・官職におとすこと。左降。「閑職に―される」」と説明される。現代の日本語として一般に用いられる単語であり、ビジネスパーソンにとって耳馴染みの深い(そして最も聞きたくない)ことばでもある。

 さて、このことばを初めて聞いた人なら誰でも、「なぜ左なのだろうか」と思うだろう。前述の通り、『デジタル大辞泉』では「昔、中国で、右を尊び左を卑しんだ」ことに由来すると説明がある。他の辞書を見てもだいたい似たような説明である。ここまでは特に異論は無いが、すこし好奇心のある人なら、「昔」とはいつなのだろう、その出典は何なのだろう、と思うのは自然なことである。
 では、と思ってGoogleなどで「左遷 語源」などと検索すると、このような説明が検索結果のトップにずらりと並ぶ。

「左遷」という言葉は、秦の滅亡後、項羽は諸侯に領地を分配したが、劉邦には約束した関中ではなく、その西側の辺境の地が与えられ、「劉邦を左に遷す」と言ったことから、これが左遷の語源になった。

http://yain.jp/i/%E5%B7%A6%E9%81%B7

つまり劉邦は土地を与えられたといってもひどく辺境な、誰もが行きたがらない場所を与えられたのです。

巴は現在の四川省重慶、蜀は同じく四川省成都のこと。漢中とは陝西省南部の地域を表します。つまり中国大陸の中心地・中原(地図の洛陽周辺)からすれば左側、ここから「左遷」の語は生まれたと言われています。

http://chugokugo-script.net/koji/sasen.html

上記のエピソードは『史記』項羽本紀に由来するとされる。
史記』とは、中国前漢の武帝の時代に司馬遷(紀元前145/135年? – 紀元前87/86年?)によって編纂された歴史書である。

 ありていに言うと、劉邦という男(のちの漢の初代皇帝)が、功績はあるにも関わらず、西、すなわち地図で言うところの「左」に遷されたことをもって、左遷、ということばができたという説だ。高校のころ、古典の時間に「鴻門之会」をやった、という人も多いだろうが、まさにその話だ。この説明はどうやらかなり人口に膾炙しているらしく、「左遷」という単語の語源を調べようとすると必ずこれに行き着く。

 しかし、この説明は全くの誤り、と言っても差し支えない。これが本項の主張である。

古代中国の「東西」と「左右」

 前漢代に用いられた地名に、右扶風ゆうふふう 左馮翊さひょうよくというものがあった。これらは当時の都・長安を含む京兆尹けいちょういんに隣接する行政区で、この右扶風・左馮翊・京兆尹の3つはいわば首都圏とも言える、非常に重要な地域であった。現代の中華人民共和国陝西省に存在していた。

譚其驤編『中国歴史地図集』(中国地図出版社)より

上記の地図は前漢のころの長安周辺の地名を記載したものである。簡体字なので少々わかりにくいが、「右扶風」「左馮翊」の地名が見える。
お分かりの通り、「左馮翊」は「東」に、「右扶風」は「西」にあるのである。

その地名の変遷について、『漢書』地理志によると、秦代には内史ないしと呼ばれていた首都周辺の地域が、前漢の景帝前2年(紀元前155年)に左右に分割され右内史と左内史となり、さらに前漢の武帝の太初元年(紀元前104年)に右内史はまた分割され右扶風及び京兆尹となり、左内史は左馮翊と改名されたとある。左馮翊と右扶風の位置関係は遡っても変わらないことが分かる。
ちなみに、後漢代においても同じ名称が使われ続け、三国時代の魏のとき、右扶風は扶風郡と改められたらしい。
以上のことは、漢代では「左」は「東」を、「右」は「西」を意味することを示唆している。

 さて、このことは「天子南面」という当時の常識を考えれば自然な発想である。天子≒皇帝は、北に座り南を向くので、自然と左に東が、右に西がくる。中国の都城はこの考え方に沿って設計されるし、それを輸入した日本の平安京も同様である。京都の左京区が東に、右京区が西にあるのもこれが原因と考えるのが理に叶っている。
「天子南面」の思想の根源はかなり古く、また長く、『周礼』夏官司馬、『史記』夏本紀、『申鑒』時事、『礼記』曲礼などに記載があるようだ。

『周礼』夏官司馬の司士条に、
朝儀の位を正し、其の貴賤の等を辨ず。
王 南向し、三公 北面して東を上にす。
孤 東面して北を上にす。卿大夫 西面
して北を上にす。王族故士・虎士 路門
の右に在り、南面して東を上にす。大仆・
大右・大仆従者 路門の左に在り、南面
して西を上にす。

 『史記』夏本紀に「禹 是に於て遂に天子
の位に即き、南面して天下に朝し、国号を夏
后と曰う。姓は姒氏(禹於是遂即天子位、南
面朝天下、国号曰夏后、姓姒氏)」とある。
遅くとも夏王朝の最初の君主であった禹が即
位したとき、君主の朝位は「南面する」こと
は固定化された。この「南面する」君主の朝
位は世世代代継承されて帝国時代に至っても
変わらなかった。
 『申鑒』時事に「天子 南面して天下を聴
き、明に向いて治む(天子南面聴天下、向明
而治)」とあり、『礼記』曲礼に「諸侯 北面
して天子に見ゆ(諸侯北面而見天子)」とある。

秦漢時代の「朝位」空間 聶寧 著
https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/28252/files/159535

「左は東、右は西」の発想が「天子南面」の発想と結びつくとするならば、いずれの考え方も何百年、いや何千年の単位のスパンでこびりついたものであることは想像に難くない。少なくともこれが漢代特有の、数十年単位で移り変わる程度の考え方ではなく、周代から続く"常識"であったということはご納得いただけたと思う。

「左遷」はいつから使われていた?

 漢代では「左は東、右は西」が常識であった。これは「左遷」という言葉が「劉邦が西、すなわち左に遷されたという故事に由来する」という説明と明らかに矛盾している。一方で、この矛盾を説明することはできる。それは、「『左遷』ということばは、左が西で右が東という常識ができた後の人が『史記』を読んで作った単語だからだ」という可能性があるからだ。
それなら確かに、矛盾はしない。『史記』項羽本紀が出典、と言うのはいささか過言かもしれないが、語源、と言う程度には十分な説得力があるように見える。

 では次に検討すべきは、「左遷」という単語そのものが、いつから使われていたか、という点である。

 まず『漢書』周昌伝には以下のような用例がある。

是歲,戚姬子如意為趙王,年十歲,高祖憂萬歲之後不全也。趙堯為符璽御史,趙人方與公謂御史大夫周昌曰:「君之史趙堯,年雖少,然奇士,君必異之,是且代君之位。」昌笑曰:「堯年少,刀筆吏耳,何至是乎!」居頃之,堯侍高祖,高祖獨心不樂,悲歌,羣臣不知上所以然。堯進請(間)〔問〕曰:「陛下所為不樂,非以趙王年少,而戚夫人與呂后有隙,備萬歲之後而趙王不能自全乎?」高祖曰:「我私憂之,不知所出。」堯曰:「陛下獨為趙王置貴彊相,及呂后、太子、羣臣素所敬憚者乃可。」高祖曰:「然。吾念之欲如是,而羣臣誰可者?」堯曰:「御史大夫昌,其人堅忍伉直,自呂后、太子及大臣皆素嚴憚之。獨昌可。」高祖曰:「善。」於是召昌謂曰:「吾固欲煩公,公彊為我相趙。」昌泣曰:「臣初起從陛下,陛下獨奈何中道而棄之於諸侯乎?」高祖曰:「吾極知其左遷,然吾私憂趙,念非公無可者。公不得已強行!」於是徙御史大夫昌為趙相。
(解説:wikipediaより引用)
劉邦は皇太子にできなかった趙王劉如意(戚姫の子)が、自分の死後どうなるか心配した。そんな時、御史の趙堯が「呂后や大臣たちも憚る人物を趙王の丞相になさればよい」と進言した。そこで劉邦は周昌を御史大夫から趙王の丞相にした。周昌は「私は最初から陛下に付き従っていたというのに、陛下はどうして諸侯の中に私を捨ててしまうのですか」と泣いて抗議したが、劉邦は「私もこれが左遷であるとはわかっているが、趙王のためを思うとお前にしかできないのだ。強いて行ってくれ」と言った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%98%8C

漢籍をまとめたデータベースである「漢籍電子文獻資料庫(中央研究院歷史語言研究所)」を用いて「左遷」で検索すると、これ以外にも史書においてかなりの数の用例が出てくる。なお、『史記』はヒットしなかった。もっとも古い用例が『漢書』にあり、計31回用いられていた。
そのすべてが現代の「左遷」と同じ意味で用いられているとは限らないが、上記のように、かなり近い意味で用いられている例があるのは確かだ。

 『漢書』は後漢の章帝の頃に班固(32年(建武8年) - 92年(永元4年))らによって編纂された歴史書である。ここから分かるのは、古くは後漢代にはすでに「左遷」ということばが、しかも現代とかなり近い意味で用いられていたことだ。

「左遷」史記説は事実無根のでっち上げ

 ここに来て、前述の「『左遷』ということばは、左が西で右が東という常識ができた後の人が『史記』を読んで作った単語だからだ」という仮説は完全に否定されたように思う。後漢はまだ、右扶風・左馮翊といった地名が生きていた時代でもあり、これよりはるか後の時代である隋・唐の都城をまねた平安京も「左は東、右は西」思想に影響されていることからも明らかなように、彼らの中でもまた、「左は東、右は西」であったのだ。「左遷」ということばは班固より前の人が作ったが、彼らにとって、劉邦は項羽に「右」へは行かされたかもしれないが、決して「左」へ遷されたと感じたはずは無かったのである。

 つまり、「左遷」の語源が『史記』項羽本紀である、という話は、完全に後世の人がでっち上げたストーリーだという結論に至る。

おまけ:「左遷」の本当の語源は?そもそもなんでこんなお話が広まったの?

 以上ですでに結論には達しているが、では実際の「左遷」の語源は何なのだろう、誰がどうしてそんなでっち上げストーリーを作ったのだろう、という疑問は残る。 

「左遷」の本当の語源を調べたいが、これは調べてもよく分からない。
「漢籍電子文獻資料庫」では「左遷」の最古の用例が『漢書』であったことから、『史記』より後で『漢書』より前が左遷ということばの発祥時期と考えたいが、確証は無い。
 やはり、「昔、中国で、右を尊び左を卑しんだ」ことが影響してるのはほぼ間違いないと思われるので、具体的にいつ右を尊び左を卑しんだのかを調べてみると、ウィキペディアの「左右」の記事には「中国では時代によって左右の貴賎が変わり、時代順に周は左を貴び、戦国・秦・漢は右を、六朝・隋・唐・宋は左を、元は右を、明・清は左を貴んだ。」とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E5%8F%B3)。この記述の出典が無くよく分からない(新漢語林に記述がある、という記載をちらっと見かけた)が、とりあえず漢代では右を尊んでいたとすると、「左遷」発祥推定時期と矛盾はしない。
(周礼や礼記などには少なくとも周代の考え方は載っていそうではある、後で調べるかも)

 誰がこんなストーリーを作ったのかについては、さらによくわからない。最も古い「左遷」の語源についての説明は何なのだろうか。
 そもそも日本でいつから「左が西で右が東」になったのだろう。それは地図の向きの話であって、現代の地図がそうであるのはメルカトル図法などが整備された西洋の大航海時代に端を発する。それまでは古代のヨーロッパではエラトステネスやプトレマイオスの地図などから見える通り現代風に北が上であったり、キリスト教が普及したヨーロッパ世界では東が上の地図が一般的だったり、中世アラビアでは南が上だったりとバラバラである。メルカトル以降、「北が上、東が右」がワールド・スタンダードになり、南蛮貿易を通じて日本に伝わり、蘭学の影響を受けた人々が『史記』を読んで、劉邦の「左遷」エピソードを思いついた…と想像するのは、少々突飛だろうか。


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