この時代に生まれて良かった "多様性の時代" "風の時代" "女性性の時代" 外に出て女も男に並ぶ、 またはそれ以上にも平気で稼ぐ時代 体力も繊細な知能も適応能力も協調性も 女の方が長けてる? 体力の備わり方は男女(生物として)違うが なんなら家事って 結構肉体労働じゃない? スーパーへの買い出し 掃除機は足腰使うし 高いところや、重いものだって持つ お洗濯を洗濯機から取り出したり お料理だって、 プロの料理人は男性のほうが多くいるイメージ お迎えの運転だってあなた
全然子どもだった 自分の意見を押し殺すことが 大人だと思っていたのだ 口を閉ざし ただ自分の意を殺す 湧き出た生まれたものを 殺す、そして処理することもせず ただ蓋をしたら それは溜まり溢れる時が必ず来る。 伝えられない のは "自分が嫌われたくない" という弱虫と "言葉を知らない" という どちらにせよ愚かな状態だ。 冷静な出立ちと、立ち振る舞いで 私という意を先ず述べる。(挨拶は自分から。名乗るのも自分から) 適切な言葉選びと、真心で相手と向き合う。 そこ
きっと多分全ての事、ものは全て存在している、この地球のどこかにも 完全にオリジナルであるのは私という個体だけかも それでも似たり寄ったりしてる個体は沢山存在している 私にしか出来ない事 そんなことを願うことは傲慢で オリジナルな存在 それは色んなものの組重なりによって実現できると思う 私の声、体、全てを使って この世の音という音を全て使う 最先端であり、最古 だったり ルーツであり新しい どっちかに偏りすぎている それがダサいのだ という私の美学 もっと最先端を
最近よく見かける コーチングを教えるビジネス 人生を変えてしまうようなリトリート など 形は無き "自分の内に向き合う" という時間とメソッドを 教える というビジネス。 お金を払ってでも、自分と繋がりたい そもそも自分と繋がるって そんなに莫大なお金がかかることなのだろうか 方法が分からない 自分と向き合うって何? という人が溢れているということなのか そのリトリートに何万円ものお金を払う余裕があるほど、会社に勤めか、働き 結局得たお金は自分との向き合う時間と
別れはいつも美しい 輝く涙が瞳を洗い 滴り落ち 空の色と思い出の曲が良く染み 愛をまた教わる 背筋を伸ばし歩き出す自分 涙の後の笑顔 終わりは始まり 自由という無限の扉が開かれた時 0という完璧という地点 女こそ、伸ばせよ背筋 女こそ、美しいお別れを 別れは美しい
女に生まれて 1人の人間に生まれて 沢山の女に囲まれて "女"とかの向こう側にいきたくて この性を、この一生を 女として授かり 360℃ ゆるやかと激しい曲線美で この身体を愛したい この性を愛したい 貴方を愛したい 女という神秘 受容、此処に在る 沢山の女神が生きたこの星に 何故か理由も忘れて 放り出されて みんな生まれた理由を探そうと 人よりも優れようと 人よりも抜きに出ようと はたまたそんな競争を外から見てる 争いを嫌う評論家 この目に狂いはない
先日、大ファンの東京の油絵のアーティスト白井お姉さんの個展にお邪魔してきました。 確かなスキルと、作品の随所随所に出る、その時のフロウや、バイブレーション、そして真っ直ぐ等身大の白井さんのお人柄。 パンクでヒップホップ、ハングリー精神と人間味みたいのがずっしりこもった、ワイルドな作品が白井さんの作品の大好きなところ。 最高にイカしてるの。 タフでワイルドで、優しさももちろんあるし、男の子には出せないような、ヤンチャガールさも感じる。 絵のみならず作品って その人と成り
私が育った街、エリア西東京🗼 ハートフルでパワーフル、リアルストリートな最高なお兄ちゃん達のエナジーがこもったアートワークはどれもこれも超最高。 絵だったり、字だったり、曲だったり。 その"人"のバイブレーションに触れられるのが生きてる醍醐味と思ってる。 時間やお金が許す限り会いたい人には会い、観たいものは観に行く、聴きたい音は聴きに行く。ちゃんと言いたいことは言う。 家(ウチ、内)で待ってるだけじゃ、"それなり"だけ。 人に便利を!沢山の時間を!と愛がいしすぎたのか、
興味のあることが溢れるようにある。 大人になった今、 小学生の頃勉強が好きだった頃を思い出す。 テストでは割と100点、ハナマルは当たり前、勉強もそこまで嫌いではなかった私。 中学に入り、決められた校則、部活、色んな規則や先生との馬の合わなさ、 なぜこの勉強をしているのかに疑問しか浮かばなくて、だんだんとグレ始めた 大学などでたくさんのことを学べる機会にある学生さんたちを羨ましく思います。 お金が許すのであれば、学びたいこと、学校に行きたいところたくさん出てきた。 大
自分を愛する、"セルフラブ" がトレンドだと思う とってもいい兆候だと思う。 とことん自分に向き合って、自分を愛して、人を愛し続けていきたいと心から思う。 一人一人の在り方が世界平和に関わると本気で信じている。 ただ、自己愛と利己的など 混同されがちな難しい場面も感じる。 挨拶が苦手な人、接客態度などが おや?って人、街に出ると結構出会う。 "人見知りだから"とか接客を伴う現場においては "注意するとすぐ辞めてしまうから" ということで罷り通ってしまう世の中になってきた
足速に何かを運んできた夏 大好きないつものビーチに沢山のパラソルと人が彩られている 波も忙しそうにみんなを遊んでは通り抜けていく 少し濁っている 笑顔で荷物を預かるクロークも 海の家にしては贅沢すぎる美味しいビールにご飯 big familyみたいな良くも悪くも村人みたいなむさ苦しい愛に溢れた地元の人たちが集うこの最高な店にみんなの笑顔 私はこの街で育っていない ただの流れ者、余所者。 けどウェルカムしてくれるお兄ちゃんやお姉さんそのまたお兄ちゃんやお姉ちゃん達 人
季節がそこに立ち止まってはくれないように 太陽がそこに立ち止まってはくれないように 見えない何かに押されて "流動"は止まない 流れゆくものを、止めたいというエゴ 何かに依存していたいという無意識は 人間の性なのだろうか 私の元に在るもの、来てくれたもの 姿形あるものたちは 遅かれ早かれ、壊れ行き、もしくは去行くのだと思う。 きっとそれは自然の流れ、で"縁"とも呼ばれると思う。 そのフロウ、タイミング、サイクルをコントロールしようとすることすら、間違いなのではないだろうか
人生を歩む上で、許容できるものが多ければ多いほど豊かだと思う。 けどあまりにも全てを許容し吸収し適応する様は、ある人から見たら "個がない"つまらない人間とも取れる 愛とは壮大で素晴らしいものではあるが、 退屈なものでもあるのかもしれない。 癖があったって棘があったって それが"生きてる"という事なんだ。 それを持ち合わせて生まれてくる意味を 今なら分かる。排除するべきではない。 月や太陽がそこにあるように、 波がずっとそこに止まってはいてくれないように、 居たい場所に
自分の中の醜い部分 醜くて汚い自分 それは疑ってしまう自分 人や自分を信じれない自分 なかなか動けない自分 自分を卑下する自分 嫌いな全部の自分を全て認め 感じ、手放す このタイミングで湧き上がって来てくれてありがとう。全て学び、豊かさに変える 愛とはただそう在ること。 そのままの姿であること。 濁っていようが荒れていようが これが私とそのままでいること。 そんな時も自分は愛であることは忘れずに居たい 自然から学ぶことはとても多い。 自然はいつだって そのまま、あ
ただいま❤︎私の大好きな街 江戸で生まれ、少し離れた郊外で育ち、 大嫌いだった江戸を好きになれたのも この街に来てから どっかで、なんで自分がここにいるのかわからなくて、ここにいなきゃ行けない気がして いつもどこかに逃げたくて いつも大都会の渦の中にいて 自分が望む本当の幸せとは無縁なような気がしてて なんなら本当の幸せが何かさえも知らないしわからずにただ毎日がすぎて、 ごった返しで目まぐるしく街の景色も人も入れ替わる街で 常に人と自分を横目で比べて、自分をジャッジし、
どんなに自分の放つエネルギーを大切に大切に 責任持って気をつけていても 受け取る側のフィルターが ホコリだらけだったり、変な色ついてたり 曲がったりしてると 違うものになってしまう だからこそ例えば 私の存在を目の前にして "威圧" と取るか "エナジー" と取るか 最終的には向こうのフィルター次第。 ということは、 人からどう思われても仕方ない。 それに対してこっちのエゴでそれをコントロールすることも不可能。 だからこそ、自分のフィルターを出来るだけお掃除して