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事件がなくても面白い映画は出来る〜『歩いても 歩いても』

人がただ食事をしているシーンなど映画で見せるには及ばない。そのようなことをアルフレッド・ヒチコックは言っていたらしい。あらゆるカットがスリルとサスペンスを盛り上げるために撮られたといっても過言ではないヒチコックのフィルムにあっては、人が家族や来客とともに世間話をしながら食事をするなどという日常的で凡庸な光景は、非映画的なものとして斥けられたのです。仮に食事風景が映し出されることがあっても、それはたとえばナイフやフォークがいつ凶器に化けるかもしれないという緊張感を伴って描かれるものでなければなりませんでした。

是枝裕和の『歩いても 歩いても』は、そのようなサスペンス映画の巨匠のスタイルなど知ったものかといわんばかりに、冒頭、野菜を調理する女性たちの手元のクロースアップ画面があらわれ、次いで、父親が散歩に出かけるごくありふれた様子が念入りに描かれることで、その幕をあけます。ここでは、犯罪はもちろんのこと、事件らしい事件は何一つ起こらず、もっぱら実家に集まった子どもたち家族と老夫婦とのやりとりが緻密に描出されるのみです。

海辺の町のある晩夏の一日。
15年前に亡くなった長男の命日に、成人して家を離れた長女・次男家族が集まってきます。

明るい性格の長女ちなみ(YOU)は母とともに台所に入って料理の手伝いをしつつ、年老いた両親の面倒を見るために、家族とともに実家に住まう算段を持ちかけたりしています。

実家にあとからやって来た次男の良多(阿部寛)は失職中ながら、それを両親や姉たちに悟られるのがイヤで、妻(夏川結衣)とともにあくまで仕事に多忙であるふりをしようとします。その態度からは、父や出来の良かった長男への劣等感やわだかまりが垣間見えます。

元開業医の父親恭平(原田芳雄)は昔気質の偏屈者で、家長としての威厳にこだわるあまり、散歩に出る際にもコンビニで牛乳を買ってきてという娘の願いを無視するありさま。家族が揃っても会話にあまり加わらず、居場所に困って自宅とつながった医院の診療室に閉じこもったりします。
母親のとし子(樹木希林)は、子ども家族の来訪のために大根のきんぴらやとうもろこしのかき揚げといった得意の家庭料理に腕を振るうのですが、上寿司の出前をとることも忘れません。良多が先妻と死に別れ、子連れの女性と再婚したことにこだわりをもっているようでもあります。また恭平の秘め事についてもそれなりの言動を見せて、夫をたじろがます。

さらにこの映画では、死者の存在(大切な人物の不在)が、場を大きく支配しています。
長男を失った無念に未だ決着をつけられない親の気持ちが言動の端々に表面化する。夜、自宅に迷いこんできた蝶に、とし子は亡き長男の姿を見ようとして我を忘れ、家族からたしなめられる場面も。
死者の存在感は、良多の妻の連れ子・あつし(田中祥平)にもカゲを落としています。彼は、亡くなった実父への思慕を隠そうとはせず、将来なりたい仕事を問われて「ピアノの調律師」と答えます。それは実父の職業でした。
いずれも、この映画のなかでは隠然たる存在感を与えられていながら、回想シーンは無論のこと遺影さえも提示されることはなく、具体的な姿形は観客の想像にゆだねられるばかり。

家族が一堂に会することでいつにない賑わいがもたらされる一方、不在者の大きさが同時に浮き彫りになり、集まった人々にその思いが共有される。逆にいえば、失った家族がいるからこそこうして離れ離れになった家族が集う契機が生まれるともいえるのですが。
家族とは人間関係のうちで最も親密なものでありながら、いやそれ故に、厄介なつながりでもあり一筋縄ではいかないものだということが、彼らの一日、生者が死者を偲ぶ一日を通して活写されるのです。

微妙に複雑に搦みあった彼らの思いがやわらかく解きほぐされ、屈託のない雰囲気で団欒の食卓を囲む日は訪れるのでしょうか……?

それにしても、樹木希林扮する母親像は極めて古風に造形されていながら、同時に母や女としての辛辣さや恐さをも随所に表わしていて、その意味では平凡な筋立てのホームドラマでもスリルとサスペンスを表現しうるのだと呟いているかのごとき存在感を示しているのが印象的。
ラスト近く、息子家族をバス停に見送った帰り道に響くとし子の下駄の音がなんとも鮮烈に聴こえてくるのでした。

*『歩いても 歩いても』
監督:是枝裕和
出演:阿部寛、夏川結衣
映画公開:2008年6月
DVD販売元:バンダイビジュアル

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