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昔の考え方を学ぶのは人類学的観点で〜『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』

◆千葉雅也、納富信留、山内志朗、伊藤博明著、斎藤哲也編『哲学史入門Ⅰ 古代ギリシアからルネサンスまで』
出版社:NHK出版
発売時期:2024年4月

全三巻で西洋哲学史を概観するシリーズの一冊目。「聞き書き」形式を採っているのが入門書としては新しい手法といえましょう。斎藤哲也は主に人文思想系の本を手がけてきたライターです。本書では近代以降の哲学を理解するうえでも必須の古代ギリシアからルネサンスまでを論じています。

巻頭で哲学史を学ぶことの意義について語っているのは千葉雅也。本編に登場する研究者には失礼ながら、彼がどんなガイダンスをしているのかという興味から本書を手にとりました。

なぜ哲学史を学ぶことが大事なのか。それについて簡潔に述べた箇所を引用しましょう。

 結局、一人の哲学者を学ぶといっても、哲学者の間の影響関係を知らないと、十分に理解することができないからです。たとえば、二〇世紀のドゥルーズという哲学者について知ろうと思ったら、ドゥルーズが依拠しているベルクソンについてある程度知らないとわからないんですよ。さらにベルクソンを理解するためには、今度はベルクソンが誰を相手取っていたかを知らなきゃいけない。そうすると、カントをはじめ、いろいろな哲学者が関わってくるわけです。
 哲学者はそれぞれ独立で仕事をしているわけじゃなくて、歴史的な積み重ねの上に成り立っている。だから哲学の先生として言えば、一人の哲学者について学ぼうと思ったら、哲学史を勉強しないと、正直なところお話にならないんですね。(p25)

そのうえで、昔の人の考え方を現代の感覚をあてはめて理解しようとしてはダメだといいます。それは異質なものだから「むしろ人類学的な観点から捉えるべき」なのだと。

 ……たとえば中世の人々を理解するには、遠く離れた島に住む、まったく異なる社会習慣を持つ人々と同じような感覚で見る。これもやっぱり冒険なんですね。「昔はこういうことがありました」という暗記ものではなく、自分自身の脳や体の感覚までもが巻き込まれていくような冒険であり、ジャングルのなかでしばらく生活するみたいなものとして古代や中世に潜っていく。(p29)

さて本論。古代ギリシア・ローマの哲学は納富信留、中世哲学は山内志朗、ルネサンス哲学は伊藤博明がそれぞれ担当しています。

納富の話で興味深いのは、ソクラテスの哲学に関して「無知の知」という標語は誤りで「不知の自覚」とすべきだというところ。「自分が「知らない」と思うことを、確認し続けていくこと」がソクラテスの始めた哲学なのだと力説しているのが印象に残りました。

初学者向けの哲学入門だと黙殺されることの多い中世哲学に関しては、本書を読んでも今ひとつピンとこなかったのですが、この時期に顕在化した普遍論争──唯名論と実在論の対立──は、立場やカリキュラム、方法論の問題による対立とざっくり解説しているくだりは面白く読みました。

ルネサンス期の哲学もまた一般向けの哲学史入門書では軽視されがちといいますが、伊藤はそもそもルネンサンス期の思想は哲学史にはきれいに収まらないと述べています。一般的には哲学者とみなされないエラスムスやトマス・モア、モンテーニュなどの人文主義者が活躍した時代でありました。とはいえ人文主義的なものが土台になって近世の哲学的思考が生まれてきたことは伊藤も認めています。

哲学者のなかでは、ピーコ・デッラ・ミランドラの自由意志論に惹かれます。人間の尊厳の根拠を「人間が地位と本性とを自らの自由意志によって選び取るべき存在であること」に求めたのです。近代人には自明の認識だと思われますが、中世のキリスト教社会では人間がへたに自由意志で何かをしようと思ったら必ず悪を犯すことになると一般的には考えられていました。ゆえにピーコの議論は当時にあっては「かなり大胆」なものであったらしい。
ルネサンス期の人文主義や思想はもっと勉強してみたいと思った次第です。

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