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「生まれる」ということ

「生まれる」は、不思議な言葉だ。「この世に生をける」、「誕生する」と同義だが、「生まれる」の「れる」を糸口に、「生きること」について少し考えてみたい。

国語文法的には、この「れる」は受身の助動詞である。古典の受身・尊敬・自発・可能の助動詞「る」「らる」は、現代語においては、「れる」「られる」に変化した。だから、「生まれる」は古文では「生まる」と表現された。かの『方上記』にも、「あしたに死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける」と生のはかなさが述べられている。「ゆく河の流れは絶えずして…」で始まるこのあまりにも有名な冒頭文は、仏教的無常観を端的に語ったものとされ、学校の古文の授業で暗唱させられたという方も多いだろう。

それはともかく、何が言いたいのかというと、私たち人間に限らず、およそあらゆる生命いのちは、己の意志によってでなく、親の意志であったり、生命の連鎖の中であったり、あるいは訳の分からない天のはからいなどによって、いやおうなく誕生させられる。誕生とは完全に受身のできごとなのだ。

よく、「お誕生日おめでとう!」と祝うけれど、果たして本当に誕生はめでたいことなのだろうか?無論、親が望んで子をもうけ、無事に誕生し、その誕生が周囲から祝福される場合には、ある意味十分にめでたいと言えるのかもしれない。しかし、世の中には、望まれないのに誕生し、大切に養育されないケースだって少なくない。それは日々、胸の傷むニュースが伝えるところだ。

よしんば誕生を祝福されて生まれてきたとして、生きるというのは、実に大変なことだ。第一に、お釈迦様がおっしゃったとかいうように、「生老病死」という関門をくぐることを、誰も拒むことができないのだから。おまけに、世界情勢やら、地球環境やら、日本経済やら、コロナ禍やら、もろもろ厳しいことだらけの現実の中で、生まれてくることは「幸せ」なことと断言できるのだろうか?(何をもって「幸せ」とするかの議論はひとまずきたい。)

こんな発想は、ペシミスティックに過ぎるのだろうか?

少子高齢化が驚くべき勢いで加速する日本社会において、政府は、「産めよ増やせよ」としきりに旗を振り、出産や育児に優遇措置を設けるため、巨額の予算を投じている。それでも、若い世代は、例えばバブル期のような気楽さで子どもを生み育てる気にはなかなかなれないだろう。

なぜ出生率は低下し続けているのか。子育てにかかる莫大な経済的負担への懸念や保育園の問題、年金制度への不信なども大きな要因であることは間違いない。しかし、私は、もっと根源的なところに理由があるような気がしてならない。

つまり、人々は、生まれることの苦しさや過酷さに気づいてしまったのでないか、ということだ。親が子どもを欲しいと思って生んだとしても、生まれた子ども本人が、その親や家庭環境のもとで、その容姿で、その肉体条件で生まれることを望んだわけではない。「幸せ」に生きられる保証もない。

私たちは、例外なく、親を初めとする他者の意志で「生まれる」(誕生させられる)。母の身体を通して受肉する。そして、生まれた以上は、望むと望まないとにかかわらず、その生を引き受け、「生老病死」をくぐり、「生」の意味がわからないまま、やがて死ななくてはならない。

確固たる哲学や信仰心を持ち、生まれたことに感謝して前向きに生きられる人は、よい。そうでない場合、生きることは、何と過酷な行程であることか。

その苦しさを痛感するから、私は若い世代に向かって、安易に、「子どもを産みなさい、増やしなさい」とは言えない。

生きづらさをたくさん抱え、身体という魂の器の不調や痛みと共に歩む日々、感じたことである。

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