やすやすと被害者にならないで
数年前、毎号買っていた子育て雑誌がある。そこに連載されているエッセイに表題のメッセージがあって、つと胸をつかれた。
「やすやすと被害者にならないで」
それは、子供に向けたメッセージだったが暗に保護者に向けられている。つまり、「子供を簡単に被害者にするな」という意味だ。
最初は、事件に巻き込まれないようにしようという意味かと思った。今は子供が被害者になる事件が多い。登録している地域の安全メールには週に数度、不審者出没のメールが来る。それが住んでいる地区に近いときは背筋がゾクリとする。子供の生命に関わりがない事件は報道されないけれど、「いたずら」とされる事件は日常茶飯事なのだ。
でも、そのメッセージにはもっと大きな意味が含まれていたと後ろの文章を読んで私は気づく。
仙人にでもならない限り、人間関係のトラブルに巻き込まれないで生きることは難しい。例え、相手の方に非があり、相手がファイティングポーズをとり続けても「被害者」になるな、ということだ。
深いところで納得している自分がいた。私も今日まで人間関係のトラブルはいくつもあった。修復した関係もあれば、相手以上に感情的になり、罵声を浴びせてひどい喧嘩になったり、離れてしまったものもある。
二十代の頃までは、そんな時友達に「聞いてきいて!こんなひどい目にあったの!」と飲みながらぶちまけていた。つまり「被害者」の立場だ。すると相手も「私もこんな目にあったの」とぶちまける。盛り上がる。それはそれで楽しい夜だし、ウサも晴らせるし友情が深まる場合もある。
そういう時は大抵、こんな会話をしている。
「私は悪くないよね?」「うんうん、仁香ちゃんちっとも悪くない。私も悪くないよね?」「もちろん、あなたも悪くないよ!」
でも、ある時気づいた。それでは何も解決しない。
「私は悪くない!」
この言葉を呪文のように自分に言い聞かせて、全ての自分の言動を「よし」としていると成長がないし人生が前に進まない。そしてなぜか、同じことが繰り返される。登場人物や場面が変わっても、よく見ると同じパターン、同じドラマ。私、いつまでこんなことやってるの?
何か「コト」が起きた時、「私は悪くない!」と、被害者の立場をとると(傷ついた、傷つけられた!相手が悪い!)結局、自分から吐き出される言葉は全て愚痴になってしまう。そこからは、何も生まれない。
結構やりがちなのは、ドラマ作りだ。
「あんなに親切にしてあげたのに、あの人は私を裏切った。私ってなんて可哀想なの。私って人がいいから、いつも利用されちゃうの」「私のこと好きって言ったけど、最初から遊びのつもりだったんだ」「私が雇ってあげたおかげで、あの人はあんなに成長できて、成功したのに私に感謝もしない。なんて恩知らずなの」「あの人が私に近づいたのは、私から恋人を盗もうとしたからよ」などなど。
そういうドラマは大抵、自分を「お人好しの被害者」に設定する。無意識のうちにそうしなければ、起きたこと自体の辻褄が合わなくなるからだ。
そして、被害感情は加害感情を肯定する。直接加害していない人に向かってすら「こんなに傷ついたんだから優しくしてよ」と、優しさを要求する。ひたすら愚痴を聞かされる方はたまったものではないから、そんなドラマ作りを続けていると、人は離れていってしまう。
じゃあ、明らかに傷ついた時、どうすればいいのか。
これは本当に難しい。傷にも色々あるし。
私個人は最近、自分の感情を「解釈」しないようにしている。怒りを感じているときは、怒りをただ、感じる。悲しい時は、ただ、悲しむ。だって、それ以外にどうにもならない。感情をコントロールできるほど、私は人間ができていないし悟ってもいない。
ただ、それを誰かに悲しみや怒りの感情を丸ごとぶちまけたら、それは連鎖を生むし自分が孤独になるのを知っているので、感じるしか手がない。
反応しない。人にもぶちまけない。ただ、感情を感じて自分の内側を見つめている感じ。「内観」とか「瞑想」「祈り」人によって表現は違うだろうが、これに近い。私自身は瞑想もするけれど、マントラを使うのがあまり好きではなく、あちこち思考が飛ぶので、ヶ月前から毎朝、走り始めた。走っている間は、ずっと自分の感情を見つめている。イライラはどこから来るのか?この怒りは、どこから来るのか?ただの責任転嫁になってないか。よくよく、見つめる。
すると、やがて「こういうコトだったのだ」と輪郭が見えてくる。
その時に現れている事象の背景も、だんだんわかってくる。それまでに起きていた、「ちょっと疑問に思ったこと」「おかしいと思ったけれど、大騒ぎするのも大人気ないから声を上げなかったこと」「和を乱したくないから、我慢していたこと」などの小さなカケラが、輪郭と背景を当てはめた時、大きな絵図となって私の前に顕れる。
そうだったのか……!
この時の驚きは、例えどんな酷い物だったとしても、なぜか解放をもたらす。自分を縛ってきた、たくさんの小さな思い込みが一気に外れて身体が軽くなる感じ。
それは、被害者の立場にいて小さなドラマを作ることに没頭していたら、決して見ることができない大きな絵だ。
今はワイドショーをはじめとするマスコミも、「小さな絵」の、さらにアラをつついて、それがさも時代の最先端の現象のように取り扱ったりする。全否定はしない。私は脚本を書いていたから、そんな風に簡単に物語を作りたい気持ちも求められているのもわかる。それを瞬間的に「面白い!いいね!」という反応が、ある層から返ってくるのも知っている。「神は細部に宿る」から、小さな現象にも、時代が反映されている一片を見出すことは可能だし誰しも思い当たるからだ。だからそれを「嘘」とは言わない。でも、「小さな作り話」だ。
そんなことよりも、もっと大切なことが、そのすぐそばに溢れているのに見ようとしない人は、いつまでも見ようとしない。
ドラマ作りを、やめたくないから。
ぬるま湯の蛙になっていることに、気付きたくないから。
第一、大きな絵が見えて全てがわかったとしても、悲しみの感情はすぐには消えない。むしろ、もっと繊細にもっと痛烈になる時もある。早く楽になりたい人には、苦行にしか思えないかもしれない。
でも、時間をかけて大きな絵を探すことは、私を成長させてきた。前に進ませてくれるし未来に光がある、と思わせてくれる。無闇に相手を攻撃したり、ぶちまけたり暴力的な行動に走ったりすることも、(夢想したとしても)行動に移さずに済む。被害者にならないことで、加害者にならずに済むのだ。
私たちは時折、考えられないような理不尽で悲劇的な事件の被害者になったご家族が、むやみやたらに相手の人格を攻撃するのではなく、もちろん復讐もせず、真摯に戦う姿を見ることがある。
その度に私は、共鳴する。どうか、光が注がれますように、と祈るしかない無力な自分を感じつつ、祈る。
「あいつは悪いやつだ」というのは簡単だ。共感してくれる人もたくさんいるだろう。
「こんな酷い目に遭いました。夜も眠れません」と泣きつけば、慰めてくれる人に必ず会えるだろう。
でも、そうではなくて。起きた現実をただひたすらに受け止めて、感じて。ただ沈黙する方法もある。冷静に時間をかけて、何が起きたのかを整理してからその時の出来事を分かち合うことだって可能だ。
その動機は、同情や憐れが欲しいわけじゃない。
「自分にも他者にも、同じドラマを2度と繰り返さないために」
「大切な人とわかりあうために」
そのためだ。そこに至る行為の全てを、私は尊ぶ。
被害者であることをよしとせず、加害者にもならず、相手のことすらただの「悪者」にせず、何が起きたのか、を検証して真摯に戦う人たち。
私はその列に、並ぶ。
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