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どんな子供に育てたい?〜親なんか、はみ出して

子供が授かった時、不安と同時にもちろん、ワクワクする気持ちもあった。どんな赤ちゃんがやってくるんだろう?妄想癖のある私は、色々と思い巡らせ、子育てを想像した。

どんな子供になって欲しい?とか、何になって欲しい?と聞かれることも多かった。その度に私は一瞬、ポカン、とした。

え?それって私が決めること?

違うよね。どんな人間になるか。何を職業とするかは本人が決めること。私は、本人がなりたい自分になってくれればそれでいいと思っていた。綺麗事でなく、本気でそう思っていた。

それには理由があった。私自身が、親から与えられた枠組みを超えることにひどく苦労したからだ。10代、20代前半の学生時代はそれでも良かった。親の扶養範囲に入っているわけだから、もしも自由に生きたいのであれば自立すればだけのいい話。けれど、社会人になって「これからは自由に」と思っていても思いの外、幼少期から埋め込まれた「親のしばり」は無意識のうちに私のものとなって刷り込まれていた。

気づいたのは、シナリオのプロット書きをアルバイトで始めた頃だ。やっと憧れの仕事に近づいたというのに、「君の書く話は、いい人ばかりだ」「ストーリーが予定調和的」「既視感がある」と言われ続けた。はみ出せないことが、壁になった。親の期待を裏切り、当てのない夢を描きながら、創造の世界で親の期待に応えようとしてしまう。

「親が見たら、どう思うだろう」という、いまだに「良い子でありたい」と思う自分が作る縛り。あるいは親から与えられた「従順な女性であれ」「素直であれ」「生意気な女は嫌われる」という縛りが、いつの間にか私自身のものになっていたのだ。それを破ることは、とても難しかった。

わざと破天荒なものを描こうとすると、どうしても自分が影響を受けた作品の色が濃く出てしまい、自分でもつまらない。「等身大」の、自分が共感できる人物を描けばそれなりに評価はされるけれど、「ありきたり」。そこから一歩、はみ出さなければプロにはなれない。

今も、私はその枠組みをいかに取っ払うか、いかに自由に創造するかに苦労しているところがある。

だからこそ、自分の子どもたちには自由でいて欲しいと思う。本当の意味の、自由で。

何を考えてもいい。何を目指してもいい。そこに、忖度がないことを願う。そこに「いい子でありたい」という思いがないことを願う。

ただ、「真実」を生きて欲しい。ただ、真剣に生きて欲しい。

親だから、欲を数えればキリがない。幸せになって欲しい。十二分に自分の才能を生かしきって欲しい。心の底からそう思うけれど、多くを望んじゃいけないよね、と思っている。

昔、鉢植えの花を育てていた頃、葉っぱの下にいっぱい蕾がついているのを見つけて、「葉っぱを全部取れば、もっと蕾がつくのでは」と思ってしまい、葉っぱをとってしまったことがある。植物に詳しい方ならわかると思うが、以後、その苗に花はつかなかった。

「やってしまった……」自分の浅はかさに、なんとも申し訳ない気持ちになった。人間も同じなのではないかと思う。良かれと思って細かく刈り込むよりは、のびのびと根を張らせた方が、大木に育つ気がするのだ。

親の期待に応えようとしたならば、小さくまとまってしまう。それが身にしみて分かっているからこそ、今は植えられた庭さえはみ出してしまうくらい、大きく根をはって欲しい。刈り込むことは、いつでもできるから。




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