誰のこどもでもなくなるということ

約三年前、父親が亡くなった。家の垣根の剪定をしようとして、脚立に上ったら、頭から落ちて頭蓋骨骨折、脳挫傷、クモ膜下出血で救急車で運ばれて。でも頭の中の触れないところだからそのまま出血が引くまで様子を見ていくしかなかった。

九死に一生は得たが、高次機能性障害が残り、ぼんやりとした父になってしまった。急性期の病院からリハビリ病院にうつり、そこではいろいろ働きかけてくれて、歩く練習をしたり、塗り絵をしたり、回復に向けて頑張っていたが、やはり一度傷んだ脳は少しずつ悪くなっていき、座っていてもそれを保つことができなくなってしまった。と同時に胃の中にガンが見つかった。

まだ初期だったので手術もできたのであろうが、主治医をはじめ、みながあまり積極的ではなく、年齢、脳の状態などを合わせて考えてみてもきっと手術に耐えられる状況ではなかったのかもしれない。伯父が高齢なのにガンの手術をして退院したのを知っていたのでもしかして父も大丈夫なのではないかと思ったりもした。

母はもうおろおろするばかりで何の役にも立たず、私にすべて任せるという。私には年がかなり離れた兄がいるが、諸事情によりもうかかわっておらず、すべての決定を私がしなければならない状況にかなり苦しんでいた。

家族の中では一番下の立場の私が、親の命の期限を決めなければならない。母が決めればいいのに、なんで私に押し付けるんだと腹が立ったのだが、手術をしても本人が苦しむだけだし、そのまま命が終わる可能性があると言われればもう手術をしない方向で行くことを選択するしかなかった。

その後、療養型の病院にうつり、三年ちかくは過ごせたのでそれはそれでよかったのかもしれない。

当たり前のことだけど、脳は全身のいろんな機能をつかさどるので、例えば痛めたところによっては息をする機能が落ちたり、飲み込む力に影響したり、もちろん認知機能が落ちてしまったりとあらゆる症状が出てくる。

父は嚥下が難しくなり、どろどろのごはんしか飲み込めなくなっていた。四肢も思うように動かせなくなっていたので、看護師さんがそのどろどろのごはんを食べさせてくれる。面会に行って、まずそうだなと思わずにはいられなかったが、それしか食べれないからしょうがない。

一度父に何が食べたいか聞いたことがある。「まんじゅう」と答えが返ってきた。「ビールは?」「焼酎がいいなあ」

まんじゅうも焼酎も摂らせてあげることはできないけど、「じゃあ、今度持ってくるね」っていうと、少しだけうれしそうな顔をしていた。

もともと寡黙な父は、さらに言葉を話さなくなっていった。それも高次機能のせいかもしれない。嫌なことがあって父に会いに行って、我慢できずに大泣きしてしまったことが何度もあった。そのたびに何も言わず私のことをじっと見ていた。ついつい涙のはけ口にしていたところもある。きっと心配だったろうと申し訳なく思う。

母は骨折をして、人工関節を入れてからあまりアクティブではなくなり、父の面会もほとんど行かなくなってしまった。

この夫婦はラブラブでずっと二人で仕事もしてきて、離れた時などないのになぜ面会に行かないのだろうと思っていた。たまにしかいかないせいか、母がうつらうつらしている父に「来たよ。誰かわかる?」ってきいたら、答えず黙っていたのが許せなかったのかもしれない。無理やり自分の名前を言わせて落ち着いたように思えたが、プライドはズタズタになってたのだろう。

父は少しずつ悪くなっていき、吐血をはじめるようになっていた。面会に行ったときに血まみれになってるのをみてびっくりしたことがある。それでも残された時間はとか言われなかったし、父がなくなるとは現実に思えなくて、入院生活が当たり前のことになっていた。

真夏のある日。その日は出かけなければいけなくて、車を走らせていた。病院から電話があり、かなり危ない状況だと知らされた。慌ててUターンをして、戻るも道が混んでいてあとちょっとというところでうごかない。私は車を置いて、真夏の日差しの中走って病院に向かった。(その前に母を迎えに行ったのか、タクシーで病院に来させたのか忘れてしまってるが)とにかく走ると長い距離をずっと走っていった。喉が痛くて血の味がしたけど。

それからあっという間に逝った。何も話せずに。

2018年8月25日に私は父親がいなくなった。1/2しかだれかのこどもではなくなってしまった。


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