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共感と共有の行方(ネタバレ含む感想)

 雲一つない快晴の日にミッドサマーを観た。正直ヘレディタリーの監督が撮った映画で、あの予告編で、しかも不穏な感想が溢れていたので戦々恐々と観に行ったのだが、監督の言う通りホラーでは無かった。割とハッピーエンドだし、セラピー映画だった。

 妹が両親と無理心中をし、家族を一気に失ったことで精神疾患とトラウマを抱えるダニー。そんなダニーのことを面倒に思いながらも、流石に現在のダニーの状態では別れられない恋人のクリスチャンは大学の友人たちと行くスウェーデン旅行へダニーを誘う。このスウェーデン旅行はクリスチャンの友人の1人であるペレの故郷の村ホルガで行われる夏至祭へ参加するというものだった。ところが、この夏至祭はただの村のお祭りでは無かったのだ…というのがミッドサマーのストーリーだ。

 この物語の主人公であるダニーは家族を失ったトラウマと以前からの精神疾患でかなり不安定な状態であり、酷く傷ついている。しかし、本来は自分を支えてほしいはずの彼氏クリスチャンは彼女を疎ましく思っており、一応別れはしないが彼の中で彼女の優先順位は低く、支えたりなどはしない。そして彼はダニーが当初妹のことを相談していても、深刻に取り合わず「考えすぎではないのか」と彼女へ共感も特にしない。
 そんな状態なのでホルガ村に来る前まで彼女は孤独である。1人で泣くシーンが多く、クリスチャンの家のトイレで泣いた後に飛行機のトイレで泣くシーンに飛ぶが、その後も家族を思い出すたびに何度も1人で泣いたのだと思う。

 そのようにホルガ村へ来る前まで孤独のなかにいたダニーだったが、村へ来てからは彼女は村人たちからの共感と繋がりを得るようになる。ペレの故郷であるホルガ村においては共感は重要視されるものだ。彼らは村の誰かが傷つけば他の村人揃って苦しむ真似をし、快感だって何だって分け合い、共感しようとする。それはダニーが求めていたものだ。
 しかも村人たちはダニーを否定しない。夏至祭2日目でお爺さんとお婆さんが崖から身投げして顔面が割れるというショッキングな光景を見たダニーがパニックになり、ペレに対して「あんなもの私は理解できない!」と明確に拒絶を示すシーンがあるが、それに対してペレは「衝撃的だったんだよね、それについては配慮が足りなかったかも。ごめん。」ということを言い、村のしきたりを否定したダニーへ怒ったりすることはせず、むしろ気遣う素振りさえ見せる。メイクイーンとなったダニーへ村人たちがしきたりだからとニシンを丸呑みさせようとして、ダニーが結局食べきれなかったときも同様だ。彼らは笑うだけで彼女を否定しない。
 そして終盤でクリスチャンとマヤの情事(儀式的でシュールすぎて情事とは言えないかもしれないが)を目撃し泣き喚くダニーを村の女性たちは抱きしめ、共に泣く。彼女は1人で泣くこともなくなったのだ。周りに自分に共感を示し、否定をしない人々がいるから。それは傷ついた彼女にとって最大の救いだったのだろう。まあ、ダニーが泣く原因を作ったのは村の奴らなのだが。

 そして最後、夏至祭のクライマックスでメイクイーンたるダニーは最後の生贄を選んでくれと言われる。ホルガ村の人物か、彼氏であるクリスチャンか。共感を示し支えてくれようとした者か、蔑ろにして孤独に追いやった者か。当然ダニーの答えは後者である。彼女は自分の意思で外部との繋がりを断ち切ったのだ。燃え盛る生贄を見ながら微笑んだことからも分かるようにダニーはあの村へ残るのだろう。彼女は自分にとっての居場所を見つけたのだ。

 ここまで書くと、この物語はダニーにとってハッピーエンドだったように思える(生贄たちにとっては普通にバッドエンドだが)。
 でも本当にそうだろうか?確かにダニーはホルガ村で癒され、幸福を感じるようになったのだと思う。しかし、村人はそれまでの過程であるズルをしている。そう、薬物だ。

 この映画の中では驚くほど薬物が出てくる。村に入る前も飲まされるし、基本的に村で提供される飲み物には薬物が入っているみたいだし、ダニーがパニックになっているときにペレが勧めてくるのも薬物だ。ペレとのやりとりなんて正に「いけない!早くこの粉を鼻から吸うんだ!」みたいな感じである。村人たちは基本ガンギマリ状態。今すぐマトリへ通報しないと。
 そんな常時薬物を摂取した状態で正常な判断は下せない。冷静であればダニーを悲しませた光景を作ったのが共感を示している村人たちだと気づけるし、村人たちが異様であることも分かると思う。実際、薬の影響が少ない初日のほうではダニーも村の様子を気にしていた。同じように薬を飲ませていたクリスチャンが途中の段階でも可笑しいことに気づけたのにダニーがそれに気づけなくなっていった違いは、村へ求めていたものがあるかないかだろう。薬物で判断力が低下し、理性というブレーキが壊れた状態のダニーは単純に渇望していたものがあるほうを選んだのだ。

 それと話は少し逸れるが、ホルガ村の在り方について少し書きたい。ホルガ村は村人同士の共感を重視し、村人全てが家族であるとしている。家族だからこそ子どもは村人全員で育てる。しかし、それは言い換えれば子どもが村で「共有」されていると云える。そう、この村では村人たちが共有されている。「個」が排除されているのだ。
 そのため村の様子を見ると、それが分かるような光景がある。村人の寝床は年齢ごとに分かれているのだが、ベットが均等に並んでプライバシー皆無状態である。劇中で「こんなお互い見える状態ならsexはどこでしてんだよ」とぼやく台詞があるが、それも終盤で分かる。マヤがそうであったようにsexは長老たちから許可されて出来るようになり、定められた場所で村人たちに見られながらするのだ。もう書いている時点で目眩がする。現代の一般的な感覚からすると「個」が排除される環境は悪夢だと思うし、私も絶対に嫌だ。

 話を戻すが、ダニーにとってはヤク漬けではあっても、不安から解放され、新たな家族を得られたこの物語はハッピーエンドだろう。しかし傷ついた人へ薬物というズルをしながら幻想の「共感」を与えるやり方は卑劣だ。また、過ぎた「共感」でまるで1つになったような感覚から全てを「共有」しようとする段階に入ってしまったホルガ村のような状態も危険である。だってどれだけ1つになろうと思っても結局別の人間なのだ。痛みはその人だけのもので、全く同じ痛みを感じることはできない。だからこそラストの燃え盛る生贄たちの悲鳴を真似して共感しようとする村人たちが寒々しいものに感じる。

 「共感」と「共有」が行き過ぎ「個」の消滅した社会とは、共同体を成り立たせるためのシステムにリスペクトがあるだけの、個人に対してのリスペクトがない社会になるのだと思う。私はそんな社会は嫌だ。私は私なのだ。そしてクスリ、駄目絶対。

 

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