ARIAの時間表現~日常系アニメとしての斬新さ~【執筆:花園靖】

アニメ『ARIA』シリーズにおける「時間」の表現は特別だ。その時間はゆったりと流れており、この「ゆったりとした時間」は作中に漂う雰囲気だけに留まらず、設定や演出においても意識的に表現されている。この時間についての表現を分析することにより、『ARIA』シリーズの魅力をお伝えすると共に、「日常系アニメ」の愛好家同志へ考察の糧となる考えを提供しようと思う。


『ARIA』とは

『ARIA』は天野こずえの漫画であり、それを原作としたアニメーション作品を指す。ここではアニメーション作品を『ARIA』と呼称し、漫画版については言及しない。『ARIA』は地上波において第1~3期まであり、OVAが二作、劇場版が二作品と非常に人気のある作品だ。

舞台はテラフォーミングによって水資源の豊かな「水の星・アクア」と生まれ変わった火星で、ヴェネツィアそっくりの街「ネオ・ヴェネツィア」で暮らす水先案内人(以下ウンディーネ)として働く少女たちの日常を描いた物語だ。地球は「マンホーム」と呼ばれ、海面上昇によって水没しかけたヴェネツィアの街を移設したのがネオ・ヴェネツィアである。ウンディーネは現実のゴンドリエーレに当たり、水上の移動手段としてのゴンドラの漕ぎ手として観光者向けに働いている。実際のゴンドリエーレは男性の花形職業であるが、本作では女性の職業として存在している。

主人公の水無灯里は「ARIA COMPANY」で見習いウンディーネとして日々訓練を積んでいる。彼女は同じく見習いである二人と仲が良い。歴史ある老舗「姫屋」社長の娘、藍華・S・グランチェスタと大会社「オレンジぷらねっと」の期待の新人、アリス・キャロルの二人だ。また、それぞれの先輩ウンディーネや、アクアに生活する人々との出会いがあり、物語は彼女たちの成長と出会いで満ちた日常を軸としている。

また、本作の特徴としては独特のOPが挙げられる。ARIAのOPには、曲調に溶け合うような登場人物のセリフが含まれている。また、OP映像もその回ごとに変更されており、その回のストーリーに沿った風景や登場人物たちが描写される。もしかすると、「OP映像集」のようなまとめ動画で一度は目にしたことはあるのではないだろうか? 印象的な作りになっているので、OP映像だけでもぜひ観ていただきたい。


アニメ全体の雰囲気

『ARIA』の大まかな話の筋は主にゆっくり流れる日常と、不思議な世界との出会いで構成されている。主人公たちが漕ぐゴンドラは本来的にゆっくりと進むものであり、そのオールが水を漕ぐ音はリラックス効果を生み出している。そしてそんな彼女たちの時間はやさしく流れていく。また、主人公水無灯里は「不思議なもの」を引き寄せやすい体質のため、アクア(火星)の開拓期にタイムスリップしたり、ネオ・ヴェネツィアの猫の王様であるキャット・シー(彼はおとぎ話の登場人物として紹介されており、普通は会えない大きな体格の猫)と出会ったりする。この二つの組み合わせから、作中には落ち着いた雰囲気が漂い、同時に「ゆったりとした時間」という世界観が浮かび上がってくる。

この二つの組み合わせは、離反することなく統一感を持っている。つまり、日常の中に不思議があり、不思議の中に日常があるのだ。これに類することは作中でも何度か言及されている。そして作中における日常と不思議を繋ぐ存在こそ、主人公の水無灯里だ。

まず、彼女たちの過ごす日常とはどういったものだろうか。それは我々の感覚でいえば、現在のヴェネツィアとそっくりの街を舞台とするウンディーネ達の生活だ。そこに近未来的な要素は主題とならず、文字通り背景として存在するに留まる。このことから、視聴者としては、彼女たちの日常は想像に容易く、リアルに、より世界観に入り込みやすい。

その一方で、灯里は不思議な世界とも出会うのだが、それは前述の想像しやすいリアルな世界観と対立しない。そこには灯里という主人公が大きな役割を果たしている。彼女は性格、性質、語り手として日常と非日常を繋ぐ架け橋となっている。

水無灯里はおっとりしており、夢見がちでロマンティックな性格を持つ。この性格は日常と不思議な非日常を繋ぐきっかけの一つとなっている。その一方で、ARIA COMPANYに努める社員としてネオ・ヴェネツィアに生きるウンディーネの一人であり、視聴者にとって親しみを感じる人物でもある。

灯里はネオ・ヴェネツィアの不思議な出来事に出会いやすい性質を持っている。そこで灯里が出会うものはネオ・ヴェネツィアの起源に迫るものや、アクアに人類が住み始めた最初期に関係するものが多い。テラフォーミングによって「水の星・アクア」と呼ばれるようになった火星、火星にありながらヴェネツィアそのままの景観を持つちぐはぐな街としてのネオ・ヴェネツィアは特殊空間として機能する。マンホーム(地球)から来た灯里の存在は、アクアやネオ・ヴェネツィアの特殊性を相対化させ、客観的な視点からその特殊空間を顕在化させている。ここから、彼女が日常と非日常の越境が可能な性質も説明がつく。

最後に、語り手としての水無灯里の在り方について説明する。灯里は物語の語り手としてメタ的な役割も持っている。作中に語られる「アイちゃんとのメール」がその重要な役割を果たす。そこでは作中に語られた出来事について、灯里なりの解釈と共にメールの内容が述べられている。当然、マンホーム(地球)で生活しているアイちゃんは、このメールからそれまで私たちが視聴したストーリーを知ることになる。ちなみに、このメールには、火星と地球の距離による時差があると考えられる。この時差によって、メールの内容は「手紙」調で語られている。そのため、このメールは火星と地球を繋ぐツールであると同時に時間差を内包している。これは微弱ながら、メタ的だ。なぜなら、メール(手紙)が超越する距離と距離に伴う時差を拡大解釈すると、「アイちゃんとのメール」は近未来の火星と現在の地球の関係、つまり作中の灯里から届く視聴者への手紙という示唆となるのだ。

このメタ要素が灯里に存在することにより、上記の日常の世界観と不思議な非日常の出来事は見事な親和性をもって物語に溶け込み、落ち着いた雰囲気が作中を通して漂わせることに貢献している。その結果、「ゆったりとした時間」という雰囲気が形作られているのではないだろうか。


設定から考える「ゆったりとした時間」

さて、「ゆったりとした時間」という雰囲気をより掘り下げて考えていく。ここでは、どういった設定がその時間を裏付けしているのかを述べていく。

この雰囲気を形作る上で重要と考えられるのが、主人公たちが住むアクアの設定だ。これによって間接的に作中における時間感覚を操作している。先述の通り、主人公たちはアクアと呼ばれる火星に住んでいる。このアクアの特徴として、重力や気温は地球と同じに設定されている。しかし、アクアの四季が巡る一年は、地球の時間の二年分に相当する。この設定が生み出す効果は、一点に集約されると考えるそれは「アクアとマンホームの時間性の差異化」だ。

「アクアとマンホームの時間性の差異化」を述べるには、まず作中でのマンホームの描き方について考える必要がある。未視聴の方からすると驚きかもしれないが、『ARIA』においてマンホームは直接的に描かれない。また、SF設定は全面的に押し出されず、あくまでも背景に収められている。ただし、飛行船や浮島といったSF的存在は頻繁に背景に登場し、視聴者のネオ・ヴェネツィア像を未来的に彩っているのは注目すべきだ。また、マンホームの存在もこの飛行船のように、各話挿入される「アイちゃんとのメール」において、あくまで背景的に語られるに留まる。では、そんな中マンホームはどう描かれているのか。参考となるのが、第一期『ARIA The ANIMATION』の第一話「その 素敵な軌跡を...」だろう。そこではアクアにやってきたアイと灯里の出会いが描かれるが、そこでの「じゃがバター」の食事のシーンは象徴的だ。

じゃがバターの出店を見つけた灯里はアイに食べようと勧める。しかし、アイは「好きじゃないですし」と乗り気ではない。灯里はアクアのじゃがバターは「マンホームで食べるのとは全然違うよ」と説得する。実際食べてみると、アイはじゃがいもが丸々一個使ったじゃがバターに困惑する。それに灯里は「マンホームだと…カットして売られているのが普通だから」と理由を述べる。

ここから分かるのは、マンホームは経済活動と自動化がかなり進歩しており、じゃがいも一つでも生産と消費の関係が今以上に遠ざかっているということだ。加えてマンホームの描写が少ないからこそ、私たちが直面している将来に関する問題意識とマンホームの想像しうる環境はつながりやすい。この生産と消費の距離は、現在「食育」として重視されている。また、ネオ・ヴェネツィアができるきっかけとなった海面上昇は地球温暖化が身に迫って問題となる今、ありうべき未来として想像に容易い。

では、マンホーム(近未来の地球)の時間はどうだろう。自動化が進み、人が触れる仕事が減る一方で必要とする情報は増えるだろう。その世界にどういった印象を受けるのは人によって異なるだろうが、我々の日常が情報化によって絶えず変動するように、進歩へと突き進むせわしなさが感じられるのは確かだろう。と同時に、今以上に過去への郷愁というのは強くなると考えられる。恐らく、この郷愁故に、海に沈む古の街ヴェネツィアはアクアへ移されたのだろう。こう考えると、マンホームから見たアクアには、効率化の過程で失われた「大切なもの」とそこへの郷愁の思いが込められていると言える。これが「ゆったりとした時間」の一部として、現代の我々からしても共感に容易い感傷として理解されることだろう。

また、アクアにおける日常生活においても、「アクアとマンホームの時間の差異化」は表れている。それは見習いである灯里たちが一人前になるまでの期間が視聴者に知らされないことに代表される。これはどういうことかというと、主人公たちの成長を描く上で、基準となる明確な期間が存在しないことを意味する。例えば高校を舞台にした日常系アニメであれば、アニメで描かないにしても、設定上はいずれ卒業してしまう。しかし、『ARIA』において「見習いの期間」は昇格試験で終わるものの、昇格試験を受けるタイミングは指導員のウンディーネの判断による。さらに、昇格試験に合格しなかった場合は「来年」を待つこととなる。ここで注意していただきたいのが、先述したアクアとマンホームの一年の違いだ。ウンディーネの昇格試験はマンホームの時間感覚でいえば二年に当たる。ここから、アクアに住む住民の時間感覚とのんびりとした生活がうかがえる。

これらのことから、『ARIA』が他の日常系アニメ、特に高校を舞台にしたものとは絶対的に異なる時間感覚を持っていることは明らかだ。つまり『ARIA』は一年、引いては高校生活の三年間を通した成長物語を意識させないことに成功している。このことから、『ARIA』は日常系アニメというジャンルにおいて異化の機能を働かせ、作品内により強力な時間の冗長さを描き出していると言えるだろう。


【執筆者情報】

名前:花園靖
日常系アニメと女児向けアニメで情操教育を終えた文学部生。小説をちょくちょく書く(予定)ので、そちらもよろしくお願いします。

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