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優しい人

 人の気持ちが分からないやつは死ねばいい。
 木々の生い茂る景色。中古の軽自動車を飛ばしながら思う。
 思えば小さい頃から「人の気持ちが分かる人間になりなさい」と厳しく言われて育ってきた。
 母は毎日のように「私が今どんな気持ちか分かる?」と質問し、私に答えることを強いた。
「すごく悲しい気持ち?」などと答え、
 ばきっ。と頭蓋骨に鈍い音が響いたのは、次の瞬間には顔をグーで殴られていたからだ。
 回答が間違っていると、暴力で罰を受ける。それが私の日常だった。
 おかげで人の顔色をうかがい、心の機微を読めるようになったので、母にはとても感謝している。
 人の気持ちが分かることこそ、人間の生きる価値である。
 共感力至上主義。それが私の価値観だ。
 繰り返しになるが、それができないやつは死ぬべきだ。
 あの日もその信条に従った。

***

 夜の学校。教室の窓から漏れ出ていた光は消え去り、青白い常夜灯だけが、かろうじて私たちの輪郭を浮かび上がらせている。
「お前ら、座れ」
 坊主頭の先輩は低い声で命令した。私たち下級生は、冷たい地面に腰を下ろす。
「体育座りじゃねえよ!」
 突然の大声に何人かの身体がびくついた。
「正座しろ」
 数秒前の声とはうってかわり、聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりの音量だった。
 砂利だらけの地面に膝を付ける。小石が肉の薄い脚の皮膚にめり込み、折り曲げた下半身に体重を乗せることを許した分だけ、鋭い刺激に顔を歪めたくなる。
「お前ら、なんで怒られているか分かるか?」
 答える者はいない。しかし誰もがその質問の答えを知っていた。
「なんで黙ってるんだ?加藤」
 前方に座っていた加藤が重い口を開く。
「・・・練習中の動きが鈍かったからです」
「分かってるならなんで答えないんだよっ」
 ごっ。
 ノーモーションから放たれた坊主頭の蹴りが、加藤の頭部にクリーンヒットする。
「お前ら、これ以上俺を怒らせないでくれよ」
 まるで怒りたくないかのような発言だ。
「こうなるって分かっていて練習中に気を抜いているんだろ・・・?」
「いえ、あそこまで激しい練習だと、途中でペースを落とすしかなー」
 ごっ、ごっ。
 反論しようとした加藤の頭部にまたもや蹴りが入る。衝撃に耐えきれず、体ごと後方にのけぞった。
 暗くて見えないが、おそらく彼の頭部では内出血が起き、顔には青痣が浮かんでいることだろう。
「なに言ってんだよ・・・?全国で一番になるんだろ?あれくらいでへこたれてどうするんだよ!」
 スイッチの入る音が聞こえた気がした。先輩の中で何かが始まったようだ。
「インターハイで優勝するんだろ?あれしきの練習で集中力切らしてる場合じゃないだろ!
 俺だって本当は怒りたくないんだよ!でも、インターハイで優勝するためには、これだけのことをやらなくちゃいけないんだよ!
 お前ら、いい加減分かってくれよ!」
 一通り聞く前から分かっていた。先輩は間違いなく、怒りたくて怒っている。
 今の状況を利用し、社会的に非難されるような行動を正当化しているだけだ。
 インターハイ優勝という部の目標を、自分のストレス解消を正当に行うための真っ当な理由に仕立て上げている。
 いかにも仕方なくやっている風でいて、その内面では強烈な自己陶酔と自我が混ざり合い、渦を巻いている。
 そもそもやりたくないことをやっている人間と言うのは少ない。
 怒りたい人間は大概、怒りたくて怒っている。目の前の嗜虐好き男も例に漏れない。いかにもそれっぽいことを言っているけれど、ただ背伸びして自分の行為を正当化しているだけだ。
「はあ・・・」
 人の愚かさが哀しすぎて、思わずため息が出てしまった。
「おい、お前」
 坊主男がどすどすと大股で歩み寄ってくる。
「なんだよそのため息は!」
 怒声とともに足が飛んできた。

***

 先輩からありがたいご指導を受けた次の日、緊急の全校朝礼があった。
「ーさんが死んだらしい」「え、嘘やろ?」「ーさんってテニス部の?」
 生徒たちが詰め込まれた体育館の箱の中には、ものものしい空気と物騒な会話が充満している。
「おーい、静かにしろ~」
 マイク越しにつぶやかれた角刈り頭の先生の言葉は、館内に深い静寂をもたらした。
「ええ、皆さん。おはようございます」
 校長が壇上で話し始める。
「実は皆さんに、悲しいお知らせがあります。
 二年三組の柳原小太郎君が亡くなりました」
 柳原小太郎。昨夜、指導と称して私たちを痛めつけたハゲ頭の名前だった。

***

 彼が死んだ原因は、彼が人の気持ちを理解できなかったからだ。
 人の気持ちが分からないやつは、死ななきゃならない。
 私にとってその信条は、命と引き換えにしてでも守るべきものだった。だから、そう。
 まあ、ストレートに言ってしまえば、私が彼を殺したのだ。
 誰にもばれないように人を殺めるというのは、やってしまえば意外と簡単なものである。
 闇夜に道路で追いかけっこをしていれば、いつかは車に引かれるというものだ。私は先輩からご指導を受けた後、先輩を挑発して夜の道路まで走った。
 追いかけてきた先輩は、私に怒りをぶつけることばかりに気を取られ、走ってくる車に気が付かなかった。
 夜中は車どおりが少なく、暴走族並みにに飛ばしている車もよくいる。
 クソ坊主先輩はまさに、その暴走車に引かれた。
 人の気持ちが分からないクズ野郎として、ふさわしい姿で地獄に落ちてくれた。
 私は暴走車の運転手が車から降りて、あわあわとしている光景をただただ眺めていた。

***

 ああ、あの時の光景は、今、私の目の前に広がる広大な樹海にも勝るとも劣らない、素晴らしい光景だった。
 とてもこの森の中に沢山の死体があるとは思えない。
 自殺の名所らしからぬ場所だ。
 あの日までも、あの日からも、私は信条を守り続けた。
 私の信条を守るために沢山の人が犠牲になった。
 進級してハゲ頭先輩と同じような「指導」を下級生に施した加藤も。
 入部してきて身分もわきまえずに無礼なことばかりやっていた下級生も。
 人の気持ちが分からないやつは、みんな死んだ。
 死んだ、とはいっても、間接的に私が殺したのだけど。
 まっ、私が関わっているだなんて知っているのは私だけだから、死んだという表現で差し支えない。
 それに、どんなに人の気持ちが分からない屑でも、私の信条を守るために死んでいくのなら、美しい最後と言えるだろう。
 それはともかく、なぜこんな自殺の名所まで来ているかと言うと、柳原や加藤の葬式で、遺族の表情を見たからだ。
 子息を亡くした彼らが、どんな気持ちになるのか。
 彼らの表情を目の当たりにするまで、私にはそれが分からなかった。
 そういう訳で、人の気持ちが分からないやつを、きりのいいところで殺しに来たのだ。
 今やそいつが死ぬことで悲しむ人間もいないし、死体処理に困る人間もいない。ああ、なんでいないのかは気にしないで欲しい。
 長話に付き合ってくれて、どうもありがとう。どうか私を、見なかったことにしてくれ。

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