『白銀の墟 玄の月』感想  泰麒が高里要に戻る時

『白銀の墟 玄の月』を初めて読んだ時の感想を書き留めておきたくてnoteを使い始めてみました。最初に自分が思った・感じたことを残しておきたい。そういう文章です。


『黄昏の岸 暁の天』で泰麒が帰ってきた時、泰麒の一人称は「僕」で、あの時はまだ自分が泰麒であることを思い出した「高里要」でした。『白銀の墟 玄の月』では最初の登場シーンからずっと一人称が「私」になっている。それは李斎と一緒に戴に戻ってきて、泰麒が人間の「高里要」ではなく麒麟の「泰麒」として生きているからだと思います。

その泰麒が一瞬「高里要」に戻った、そう思った瞬間がありました。それが『白銀の墟 玄の月』3巻の15章、泰麒が正頼を助けるために鍵を手に入れようとするシーンです。そこは『白銀の墟 玄の月』を読んで私が一番最初にべそべそに泣いたところでもあります。

追い詰められた泰麒が「……先生」とつぶやいた時、泰麒は泰麒じゃなくて「高里要」だったんだな、と読み返していて思いました。
ずっと気丈に冷静に官吏達と戦ってきた泰麒が遂に進退極まって「誰か助けて」「勇気をください」そんな気持ちになって呟いた、助けを求めた先が広瀬先生だった。この一瞬だけは、泰麒は国を背負う奇跡の存在の麒麟でなく、17歳の高校生の男の子だったように思えます。今は台輔として高価な着物を身にまとっているけど、半袖のワイシャツと黒いズボンの制服姿の泰麒がうずくまっているような、そんな情景が浮かんでくる。広瀬先生の部屋で膝を抱えていた姿を思い出してしまいます。


泰麒は麒麟だけども本当に見た目通りの年数しか生きていない、まだ17歳の子供なんだとたった一言で思い知らされれました。1・2巻ではこんな弱々しい泰麒の姿なんて一度もなかったので衝撃で言葉にならなかったです。3巻までの過酷な戴の国を旅してきたのは、物静かで厭世的な優しい高校生の男の子なんだ....そう思うと泣けて泣けて。


蓬莱で犠牲にしてきたものを思うと立ち止まってはいられない、先に進まなければ、と自分を奮い立たせる意味もあると思います。でも、先生…泰麒にとっては唯一の味方の、大切な存在なんですね...


正直なところ広瀬のことはあまり好きではないのですが(嫌いなわけでもない)『魔性の子』の最後に見捨てるように置き去りにしてしまった広瀬のことを、それでも泰麒は大切な人だと思っている、という事実に泣けました。魔性の子の最後泰麒ちょっと冷たかったから...読み返したばかりだったのもあって一番最初に広瀬良かったね…という気持ちが湧きました。泰麒がこちらの世界のことを思い出してくれたことも嬉しかったです。広瀬のことがあまり好きじゃないのは彼にちょっと痛いと感じるところがあるからで、それが全くもって他人事ではないから...オタクなので...泰麒が廣瀬のことを大切に思ってくれていて良かった...という安堵感もありました。


『魔性の子』は91年に発表された作品だから28年も前の出来事(作中では数ヶ月前にすぎないけど)を泰麒が大事に覚えているんだなあと思ってしまって、そこも泣けました。私が初めて魔性の子を読んだのも15年は前のことなので、長い年月続きを待っていた十二国記でしか味わえない感覚で、これもこのシーンを読んで泣いた理由の一つです。作品内での時間と現実の時間が交錯した不思議な感慨が沸きました。


子供のころはあんなに天使だった泰麒が魔性の子を経てこんな大人になって...という泰麒の生い立ちにも思いを馳せてしまいます。
蓬莱では居場所がなく自分が何かをすると誰かを傷つけてしまうため、自分の存在を消すように静かにしていた泰麒が、十二国の世界では苛烈な血を持っていて、激しさを持って大胆に行動している、その対比もまた美しく面白いですね。


初めて読んだ時は勢いで読んだので泰麒が広瀬に縋っているように読めたのですが、落ち着いて読み返してみると犠牲にしたものを思い出し、前に進まなければいけないんだと自らを奮い立たせ、その中で一番最後に会った一番大事な「先生」のことを思い出し心配している、そんな感じもしますね。「……どうか……」って言葉があるから、「どうか助けて」「どうか無事で」「どうか 力をください」など色々混じった感じでしょうか。



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下書きのまま放置していたのを2年経ってやっと公開しました。

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