自分の声

自分の容姿が世間から見て、自分が望んだよりは可愛くないあるいは美しくないことに気付いたのは30代半ばになってからだ。

それ以前も薄々気づいてはいたが、残念な現実を受け入れることができなかった。その残念な現実に薄々気づいていた私は思春期では写真を撮られることを酷く嫌がった。結果、私が写っている写真は数えるほどしか無い。

残念な容姿の現実を受け入れた後、こざっぱりして、太っていなくて、痩せすぎても居なくて、突飛な洋服や奇抜な髪型をしていなければ、大抵の人には好印象を与えることを知った。それを知った私は、容姿について昔ほど気を張らなくなった。目が二重で無くとも、鼻が高くなくとも、可愛らしい唇で無くとも、好印象を与えれたらそれで充分だと知った。二度見するような美人で無くとも幸せに楽しく生きれる。自分らしいことのほうが美人であることよりも重要なのだ。

容姿を受け入れた次にやってきたのは自分の声の残念さだった。これに関しては、自分の声の残念さを認めつつもまだ完全に受け入れられない。受け入れる=自分で認めてこれで良いとおもえること、だと考えているので、まだそこの境地に達してない。理想の声より、現実の声はやや高く、声が通らなく、馬鹿っぽい。私は落ち着いたよく通る声を理想とする。

こうやって自分自身を受け入れる作業が完了したら、今よりもっと自由に生きていけると思ってる

現に容姿や服装の現実を受け入れれたら、そこに囚われることなく、違うことに目を向けられて、楽しみが増えたし自信もついてきた。

今、私は圧倒的な自信の無さを、こうやって順番に克服して自信をつけているところ。一般的な自信の付け方とはかけ離れているが、これが今の私に必要な自信の付け方である

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