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自分のために、周りのために、痛みを引き受けられるか。


そうだ痛かったな

痛い。

ふと気づいて左腕に目を向ける。

前腕の一部分が赤黒く変色し、少し皮膚が膨れている。

きっと昨日、仕事中にドライアイスを触ったからだろう。
一気に大量のドライアイスを運ぼうとしたせいで、無理な姿勢を取る中で長時間触れていた部分があったことを思い出す。

あの時は確かに痛かった。

正確に言えば、「痛いと思って」いた。


蹴りも殴りもしないのに喧嘩が強いと言われる

昔から自分は痛みに対して反応が鈍いような気がしている。

幼年期から少年期にかけては、特に暴力を振るうこともなかったのに喧嘩が強いという評判だった。
特別体格がよかったわけではないと思うが、その理由はおそらく殴られようが蹴られようが血を流そうがまったく怯まない、その動じなさにあったのかもしれない。

特にこの年頃の無垢な少年少女たちは、攻撃を仕掛ける際にはなにかしらの相手からの反応を前提としてパンチなりキックなりしていたのだと思う。ただその手ごたえとは裏腹に、それらは空に消えてしまったのではないかと感じてしまうほどの無反応の相手にアイアンクローをされたり、ゴミ箱に押し込まれるのは恐怖だったのだろう。


武闘派の父親からの鉄拳教育

今思えば父の教育がこのような冷酷な不動の精神を築きあげてしまっているような気がする。父のその大きく堅い拳に多くのことを教わったが、その拳によって殴られたせいかすべての教えは消し飛んでしまったようで、なにを教わったか記憶はあまりない。

父は武術を嗜み、普段見るのは格闘番組とアクションものの洋画。スズメバチが飛んでいれば鉈で一刀両断にする。仕事は特に珍しくもない公務員だが、世間一般のイメージと異なりハードワーカーだったように思う。帰りは遅いので寝る前に会うことは稀だった気がするが、帰ってくるなり隙があれば(なくても)酒臭い息をまき散らしながらヘッドロックや多様な固め技をかましながら無精ひげを擦り付けてくる。

そんな父親の教育方針は「言ってわからなければ殴る」だ。
その方針に虚偽はなく、まさに有言実行であったと言える。

しかし、ここに大きな問題が一つある。
それは父親の言語能力の乏しさだ。

基本的にこちらの言ったことに対しての反応は、口ごもりながら顔を赤くして言葉にならない言葉を並べていくだけだ。もちろん何を言っているのかわからない。

そう、彼からすれば「言ってもわからない」のだ。
よって僕は殴られる。

それでも納得などできるはずはない。力では勝てないので、論破を試みる。
家を追い出すと言われれば、民法を持ち出し、20歳以下のこどもに対しての親権の放棄の不可能性を説く。

論理的な対話など端からないのだから、もちろん殴られる。こうして頭にたんこぶが増えていくのである。こんな繰り返しで頭が固くなったわけではないだろうが、そろばんで殴られた時はそろばんが割れた。

ちなみにこのような父親だから母も姉も武闘家に染まっている。彼女たちは打撃攻撃だけではなく、中距離攻撃である硬質せんべいカッターや、母が頭を踏んで抑えている間に姉が掃除機で殴るなどの連携技も身に着けていた。もちろん口も強いので、完膚なきまでに叩きのめされていた。

今思えば、さながら現実版大乱闘スマッシュブラザーズであるが、一通りバトルが済むと全員あっけらかんと笑っているのだ。熱しやすく冷めやすい家庭内の喧嘩やいざこざが日をまたいだことはない。

こんな環境だったから、きっと同級生の攻撃などは眼中になかったのだろう。


痛いけど、痛くない。

さてこのような家庭環境であったため、痛いことはもちろんよくあった。
よくあることに対して人は対処を施すようになる。

戦闘の最中痛みを感じた時にしてはいけないことは怯むことだ。ここで目を閉じたり、逃げ腰になれば更なる追い打ちを喰らい、一方的に攻撃を受け続けることになる。

もちろん攻撃を受ければ痛い。それは変えようのない事実だ。それでも前を見据え続けるには痛みを括弧にいれるしかない。肉体と自我を切り離す。「ああ、肉体が痛いんだな。」と眺める。この瞬間に一つだったのものは二つに分かれ「自分」になる。

ある種これは自己防衛の手段だともいえるだろう。しかし、そもそも痛みの役割はなんだろうか。それは身体を破壊してしまうような過度な刺激や状況の危険を知らせるものだ。すなわちそれこそ自己防衛だ。

痛みを無視することはある特定の環境では、生存に有利なこともあるかもしれない。ただ通常においてはそれは感じるべきものであり、無視してはいけないのだ。それは自らを危険にさらし続けることを意味する。

ずれ始める自我、崩壊する私

痛みを肉体側に押し付けることを覚えた自分は、気づかないうちにそれを精神にも適用したのだと思う。
精神面で辛いことがあってもそれは精神が辛いのだと。
今辛いと感じているのは自分なのだと自分が考えるようなる。

こうしてその痛みを引き受けたくないために、暫定の自分に痛みを押し付けて、無限に分割した自我が立ち現れてくる。
ただその自分は当然のことながら私だ。

自分の痛みを、無数の自分を、受け入れないことで自我を保つ虚構としての私。

そこに私はない。

痛みを受け止める

感情に素直な人を見ると羨ましく思うときがある。
時に傷ついたり、喜んだりする姿を見るとそこに本当にその人を見る気がするからだ。
痛ければ泣いて、嬉しければ笑って。
そこに本当の強さとやさしさがあるような気がするから。

強くなるために痛みを捨てた自分は本当は弱かったのかもしれない。それどころか自分を失ってしまっていたのかもしれない。そして誰とも繋がれなくなっていくのかもしれない。

痛みを置いていけば、見たことのない景色をみることもできる。本来行くことのできなかった場所まで行くことができる。それを無意識に行っていると、ついて来られない仲間になぜその程度で弱音を吐くのかと、きつく当たってしまうこともある。

ちゃんと自分に向き合って、無数の自分を抱きしめて、それは相手にやさしくあることと同じで、それでも遠くの見たことのない景色を見たくて。

どうすればいいのかは分からない。できることは痛いことをしっかりと受け止める。負の感情や否定したい自分を受け止める。そして一歩ずつ進んでいく。
きっと簡単なことではないと思う。
ただそうしないと私はなくなってしまう気がするし、存在することに耐えられなくなってしまうような直感がある。

生きることはきっと痛くて、痛いことは生きている証拠なんだと思う。

きっとその分喜びもあると信じて。













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