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ハードが無いのにソフトを持つということ

私が育った家は小さな古い借家で、家族は父と母、一つ年上の兄の4人暮らしだった。その暮らしは今思うとありふれた日常と、少し変わった非日常が入り混じっていた。


※どなたもどうかおはいりください。けっしてごえんりょはありません。
但し、当記事は一見真面目に思えますが、実は何の役にも立たない記事となっております。何卒ご理解の程お願い申し上げます。



私が小学生の時、「ファミコン」が流行っていた。スーパーマリオブラザーズを筆頭とした、あのファミリーコンピュータである。諸々の事情があった我が家では、ファミコンを持つことは「目に悪いから」という一片の曇りもない理由で親から却下されていたため、スーパーマリオをプレイした事が一切無かった。だから、友達の家での初めてプレイした際には、感動と緊張の狭間で心と手元が揺れ動き、最初のクリボーに幾度となく激突死したものである。

ところで、私の兄は何故かファミコンのソフトを幾つか持っていた。一体どこからどうやって入手したかは全く不明だったし、持っていてもプレイ出来ないことは誰の目にも明らかだったにも関わらずである。当時の私は、せめてソフトだけでも眺めてファミコンを持っている雰囲気を楽しんでいるのか、程度にしか考えていなかったし、ことさらその理由を追求することもなかった。

しかし、ある日兄がソフトを持って友達の家に出かけるのを見た時、霧が晴れるように全ての謎が解けたのである。

そう、彼はそのソフトを使って友達んちで遊んでいたのだ。

「なんということだ・・・そんな方法があったなんて・・・」

私はその発想にただただ驚くばかりであった。
本体を持っていないなら、本体がある場所へ行く。
改めて思い返すと大変理にかなった手段であったように思う。

ファミコン本体は無い→ソフトは手に入れた→友達んちで使う
 
なるほど、自然の摂理である。ファミコン本体を持たぬ者にとって、この方程式以外にはあり得ないと言っても過言ではない。

しかし、私は敢えて問いたい。
何かにつけ自分に無いものを羨ましがり、妬み、攻撃することが蔓延する昨今、持っている僅かな武器を最大限に活かし最高のパフォーマンスを生み出す前向きさを、一体どれだけの人が持っているだろう。
本体を持っていない者がファミコンを楽しむため、限られたソフトを使って友達んちでゲームをすることこそ、弱者が出来うる一発逆転の方法なのではないだろうか。

ハードが無いのにソフトを持つということ・・・

それはファミコンのレアソフトを持ち、ハードのある場所へ自ら赴くこと。
即ちそれは、己の置かれた状況を正しく認識し、他者に無い強みを持つことに他ならない。
そして、自ら行動を起こすことこそが全ての始まりであり、そこではじめて両者の需要が合致し安定が保たれることを兄は子供ながらに感じ取っていたに違いない。

そこに至るまで兄が辿ってきたであろう道のりを想像すると、私は目頭が熱くならずにはいられない。

「兄ちゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!」



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