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和歌山県 神社巡り(6月17日)➂ 伊太祁曾神社 切り通しからの一考


とにかく
この、ときわ山の切り通しに関して
ネットには
ほとんど上がっていない

あまりに
ごちゃごちゃしたので
まとめます

つまりは

●最初
日前神宮の遷座地は
伊太祁曾神社が鎮座していた

山東盆地
山東地区 亥の森に鎮座

奈良時代、和銅6年、713年
現在地に鎮座する

●五十猛命

●『日本書紀』で
素戔嗚尊の子とされる
五十猛神と同神とする説がある。

●この神が
「木国」の神として出てくることは、
大国主神の神話中の
この段が
「大き樹を切り伏せ」
「矢を茹めて其の木に打ち立て」
「其の木を析きて取り出して活け」と
木が題材に取られていることに
関わると考えられる

●大国主神の根堅州国の訪問の段の
「木国の大屋毘古神」
キ(乙類)が
オクツキ(墓)やアラキ(殯)の
キ(乙類)への連想を伴う
という見方により、
根の国への入り口が
木国の大屋毘古神と
結びついているとする説がある

●木の繁茂する
紀伊国の土着の信仰神
と想定する説がある

●古事記編纂 712年

●日本書紀編纂 720年
日本書紀のほうに
五十猛命の話が
書かれている
「我が国に樹木を植えて廻り
緑豊かな国土を形成した神様である」

●熊野参詣の目的
黄泉の国
黄泉がえり
蘇り

●熊野古道 紀伊路
布施屋駅~海南駅
この切り通しは
この区間の一部である


熊野古道とは、
熊野三山
(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)
へと通じる参詣道の総称のことであり、
また、霊場・山岳修行の道でもある。

平安期には、
貴族や上皇など身分の高い人々の
ものだった熊野詣は、
浄土信仰の広がりに伴い、

中世期以降には
「蟻の熊野詣」と言われるほど、
庶民や病人にいたる多くの人々が
行列を作り、
魚、肉、葱、韮などを絶つ
潔斎をしながら、
長く険しい祈りへの道を歩いた。

一口に熊野古道といっても、
ルートはいくつもある。

平安期の貴族は
京の都から紀伊路を経て
本宮を目指したが、

熊野詣が一般庶民にまで広がった
江戸期に入ると、
東国からのお伊勢参りを
終えた人々が、
伊勢路を通って詣でることが多かった。

●皇室で
熊野三山を参拝したのは
宇多法皇
平安時代中期
延喜7年、908年が最初

●熊野古道
熊野三山参詣が
頻繁に
行われるようになったのは
平安時代、1090年の
白河上皇の熊野御幸から
と言われている

●切り通しは
仮説として
908年以前に造られた可能性もある

●江戸時代後期の
伊太祁曾神社の絵図には
すでに切り通しが描かれている

●紀ノ川は
中央構造線を
掘り込んで流れている


和泉山脈南縁の
奈良県五條市から
和歌山市付近に至る区間では、
7世紀以後、
9世紀以前に最新活動があったと推定され、

1回の活動に伴う
右横ずれ量は
4m程度であった可能性があります。

また平均的なずれの速度と
1回のずれの量から求められる
平均的な活動間隔は、
約1千1百−2千3百年であった
可能性があります。

西暦601~900年までの間に
4メートルもズレていた!!



和歌山あたり、白亜紀だ
その頃、中央構造線に大きなズレが起きて

白雲母!

三波川変成帯の一部だとすれば
変成岩である

紀伊半島の結晶片岩中の
白雲母のK-Ar放射年代は
70-110Maを示し、
これらは何れも
三波川変成作用が
白亜紀後期であることを示している

約1億2000万年前~6000万年前に
地下深くのやや強い圧力で
形成された泥岩起源の三波川変成岩類

しかし
古事記、日本書紀を
編纂するにあたり

「古事記」は
和歌の母体である古代歌謡
(記紀歌謡)などの民間伝承の歌謡や、
古代神話・伝説などの
素材や記録を取り込んだ
日本文学の発生や源流を見る上でも
重要な素材の宝庫となっている
神話重視

「日本書紀」
歴史の記録には、
書記官の存在が不可欠である。
日本における文字の使用が
渡来人によってもたらされたことも含めて、
日本の修史事業は
朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。

日本では
5世紀後半から6世紀にかけて、
倭王権の下に
史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる
書記官が登場する。

彼ら、フミヒトの多くは
渡来人によって構成され、
人的紐帯に基づいて
倭王権に仕える形態から
やがて欽明朝期の百済からの
フミヒトの到来を経て制度化されて行った。

「帝紀」「旧辞」がまとめられていったと
される時期が
この欽明朝にあたると考えられ、
同時期には
朝鮮半島において
百済と競合する新羅でも
修史事業が進められていた


素戔嗚尊、五十猛命の
話、ですわね

この、ときわ山古墳(鎌倉時代、盗掘)
その一帯の山の地層が
三波川変成帯で

「木」の地層のように見えているので

五十猛命が
出雲ではなく
なぜ
和歌山に定住する
ということになったのか

地元の神話と
紐づけできたのではないかと考える

そして
なぜ、伊太祁曾神社は
日前神宮の鎮座地から移ったのか

その地よりも
現在の場所の地層で

「木の神様」は
「木のように見える
地層の場所」に収まることが
一番なのではないか

と考えたのではないだろうか

より、神気も
強まるのではないかと
考えたのではないだろうか


中央構造線は
大阪と和歌山の境から
三重県の伊勢を通過している

中央構造線の抜ける
茨城県、鹿島神宮に「要石」がある

それと同様に
紀伊半島の西端に
日前神宮ー日像鏡
國懸神宮ー日矛鏡
東端に
伊勢神宮ー八咫鏡
「要石」の如く

地震による中央構造線のズレを抑える
霊鏡と考えていたのではないか

だから
伊太祁曾神社は
移動したのではないだろうか

こんな仮説、
歴史的にも書かれていないし、
アホみたいな考えかもしれない

五行論を習った者の考えとすれば

中央構造線の
東ー八咫鏡
西ー日像鏡、日矛鏡

1対2

陰陽、なんですよ。

明治神宮に行かれた方なら
ピンとくると思います

御神木、右が1本、左は2本
これで、陰陽を表しているんですよ。

紀ノ川沿いに中央構造線があり
その両端に、1対2 にあるならば
陰陽を考えてしまう。

まあ、これに関して
ある方からは、
「歴史的にもそんなことは書かれていない」
と断罪されました。🤣

でも、仮説として
捨てられない考えじゃないかとも
思うんですよ。

ここに直に来て
妄想が
とめどもなく溢れ出てきた!!

そうか
今回、橋本市から
直線的に、十津川を通って
熊野本宮へ行く予定だった

それが
土砂崩れによって遠回りしたのだが
考えてみれば
わたしは、
紀伊路から、中辺路を通って、
本宮へ行ったのだ
これも
神の成せる業ということか


まるで、「木」のようだ
これも
変成岩なのだろうか。
白亜紀に、なにがし、大木が倒れ
そのまま、地層になり、
中央構造線のズレによって現れたというのか。

どうして、ネット上に
これを出す人が、ほとんどいないなんて
考えられない。


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