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和歌山県 神社巡り(6月17日)⑦ 狩場明神 白黒犬 彦星牽牛

丹生都比売神社から、
本来ならば、109号線を使えば、近くですが、
6月17日時点で、土砂崩れがあり、通行止め。
結局、大幅に大回りして行くことになりました。

和歌山県は、「木の国」と言われるほど
山続き、山合いの土地です。
山道が、いかに大事であるか。
土砂崩れがあれば、
遠回りして行くよりほかはないのです。

ですから、この先、
天変地異、つまりは、大震災、大雨洪水などが
ありますと、
行きたくても行けない、
ある意味、
「黄泉の国」とも言えます。

ですから、

和歌山県を

走行する際は


必ず、
道路状況の下調べが、

まずは必要不可欠です。


これは、レンタカー会社からも
言われました。


狩場明神

狩場明神は

紀州高野山の地主神にして、

丹生都比女神社の異名なり。


弘法大師高野を開く時、

此神出現して犬となり

大師を導き給うという。

今昔物語に曰く、

「今は昔、大師老に臨み給ふ程に、

我唐にて擲げし所の

三鈷落たらん所を尋ねんと思いて、

弘仁七年

大和国宇智郡に至り

一人の猟師に会ぬ。

形面赤くして長八尺許なり、

青色の小袖を着せり、

骨高く筋太し、弓箭を以て身に帯し、

大小二つの黒き犬を具せり。

此人大師を見て曰く、

我は是南山の犬飼なり、

三鈷の所を知れりとて、

犬を放ち走らしむるの間、

犬も人も忽失せぬ。


大師

それより紀伊国大河の辺に宿しぬ、

此に一人の山人に会い、問い給う程に、

此より南に平原沢あり是此所也と、

相具して行く間密に語て曰く、

我は此山の主也、

速に此領地奉る可しと

山の中百町計入ぬ、

山の中は正しく鉢を伏せたる如くにて

廻に峯々立登り、

檜の謂む方なく大なる竹の様に生並たり、

其中の檜の上に三鈷被打立、

是即大師禅定の霊峯と知れぬ。


彼山人丹生明神となむ申す、

犬飼をば高野明神となむ申ず云々。」


之を画けるもの

高野山金剛峯寺所蔵一点、

同龍光院所蔵一点あり、

何れも国宝なり。


(『画題辞典』斎藤隆三)


絹本著色狩場明神像

和歌山県文化財


狩場明神から、すぐに

通行止めの表示

ここまで、倍以上の時間が、かかりました

狩場明神矢根研石は、

和歌山県かつらぎ町にある史蹟である。


狩場明神は、

丹生都比売神社の祭神で、

二匹の犬とともに

空海を高野山に案内したといわれている。

狩場明神は、

現在のかつらぎ町大字宮本辺りを

根據として、

四方に遊猟し、

この地で矢の根を研いだといわれる。


紀伊続風土記の高野山の項に、

次のように記されている。


「八幡の森又は御社の森は

教良寺村の南に在り 

内に狩場明神矢根研石と云あり
 方一尺許りにて

矢の根を研ぎたるやうの跡あり」



この石は、

昭和57年9月

県道新設の工事で掘り出され、

昭和59年1月に現在地に移された。

昔からの言い伝えでは、

婦人がこの石に触れると

安産の霊験があるといわれる。


そばには、清らかな水が

流れていました


蛯原春比古さまから

シェアさせていただきました

ありがとうございます

『7年7月と五色の短冊(五色の糸)』

〜牛宿はニュウ・織姫と牽牛と空海


西安市の青龍寺と高野山奥之院は

同じ緯度


弘法大師空海が入定された高野山は、

弘仁7年(816)に

金剛峯寺を建立した時から始まります。


【弘仁7年7月のこと】

弘法大師は

自身が唐から投げた

三鈷の落下地を尋ねて、

大和国宇智郡(奈良県五條市)を

歩いていました。

すると、向こうから

1人の猟師がやってきました。

顔は赤く、

背丈は8尺(2.4メートル)ばかりで、

弓矢を持ち青い色の小袖を着ています。

白黒2匹の犬をひきいた姿は、

筋骨隆々で見るからにたくましい狩人でした。


大師は

この猟師に呼び止められて、

旅の目的を話しました。

すると猟師は、

「私は“南山の犬飼”だが、

その場所を知っている、教えてあげよう」

と言い、

連れていた2匹の犬に

大師を先導するように言いました。


道中でまた一人の山人と出会いました。

その山人は大師にこう言いました。


「ここから南に行くと平原の沢がある。

そこがそなたの求める地だ。

……じつは、私はこの山の王なのだ。

あなたに私の領地を差し上げよう」


さらに山を分け入ると、

大師は

8つの峰に囲まれた平原に至りました。


平原の中の一本の木に

三鈷が輝くのを見て、

長らく求めた禅定の地が

ここであることを知って

大師は感涙にむせんだといいます。


大師は山人に

「いったいあなたはどなたなのですか」

と尋ねました。


山人は

「丹生明神(丹生都比売大神)」

と名乗り、

白黒2犬を遣わせたのは

「高野御子大神(狩場明神)」である

と名乗られたそうです。


~『今昔物語集』より~


この説話で

大事な意味があるのは

「色」だと思います。


赤い顔、青い小袖、白い犬、黒い犬、

物語に登場していて、

唯一、色が入っていないのは

空海自身です。

おそらく黄色なんだと思います。



黄色(おうじき)の意味は

「堅固な徳を現す色」で

空海の存在そのものなんです。


また、この五色(ごしき)は、

仏教において

如来の精神や智慧を

5つの色で表していますから、

物語と宗教がちゃんと成立していますね。


もう一つ、大事なことは

弘仁7年の7月に

空海は自分自身が唐から投げた

「三鈷」を探していたという部分です。


7と7、これは七夕ですね。


紀ノ川を天の川に見立て、

丹生都比売を織姫(稚日霊女)とし、

狩場明神(南山の犬飼、

牽牛星の和名は犬飼星、

犬飼星には二つの伴星があり、

この伴星を二匹の犬としている)を

牽牛としていて、


丹生(拼音ニウ)を牛(拼音ニウ)、

宿曜にはない「牛宿」

(牛宿には織姫星や牽牛星が含まれる)を

見本にした

高野山の場所選び、


長安と同じ緯度でもあり、

空海は

同じ夜空を見ていたんでしょうね。


星神が

土地神である事が

ここでもわかりますね。



川の南の地は「陰の地」、

これは陰陽も意識していた。

(天の川の牽牛と織姫、

長安(西安)の渭水がモデル)


だから高野山は

女人禁制、

陰と陰(女性)が重ならないように、


代わり丹生都比売を祀った。



宿曜にはない「牛宿」は

午前0時に毎日存在するため、

始まりと終わり、


つまり「阿・吽」、

高野山は

空海で始まり弥勒菩薩で終わる

ことになるんですね 。



五色(ごしき)は、

仏教において

如来の精神や智慧を5つの色で表す。


青・黄・赤・白・黒が

基本となる五色だが、


青の代用に緑、

黒の代用に樺色や紫を

使うことがある。



『文殊菩薩と空海』


空海は

高野山の地を得るのに

天の川の牽牛と織姫にお願いしたはずです。

つまり牛宿にですね。


しかし、

空海が持ち帰った宿曜では

牛宿は

唯一はずされた星宿です。



七夕は

奈良時代に

すでに伝わっていましたから、

師の勤操らが

特別に文殊会でお祀りしていた

文殊菩薩と宿曜を研究していた

自分自身を合わせたかった

のではないでしょうか。


(文殊会は一般的に

7月8日に行われるようになっている)



空海が

今でも弘法大師廟にいるのは

未来仏である

弥勒菩薩の通訳をするために

日々勉強しているからです。



文殊菩薩は

「答」の仏と言われるように、

いかなる質問にも答えれる

知恵を持っています。


大師廟への参道に

たくさんの墓碑が並んでいるのは

弥勒菩薩の口から出る言葉を

文殊菩薩の化身である空海が

答えてくれ、

その話を聞くために

墓碑が建立されているのです。





『阿・吽〜初まりと終わり』

空海と牛宿

〜始まりと終わりの場所「高野山」



『牛宿」が何故?

宿曜27星宿に無いのか?


(本来は28宿)


それは

「始まりであり、

終わりでもあるから」


つまり、「牛宿」は

他の星宿と違い、

27星宿それぞれの正午の時間に

必ず存在する星宿だったからです。


(宿曜経に於いて

本命宿は「二十七宿」によって

定めることになっています。

本命宿が「牛宿」になるのは、

毎日の正午に生まれた人である

としています。)


1日の始まりの正午、

1日の終わりでもある正午。


だから『阿吽』

だったんです!


高野山は

牛宿に見立てられていたんですね。



宿曜占星術では

正午の生まれを牛宿とします。


インドの占星術では

1日の切れ目はお昼の12時なのです。


お昼をすぎたら次の日となる。


例えば初夜とは、

お昼をすぎた最初の夜をいいます。


午前零時過ぎの夜を後夜、

正午までが日中です。


初夜・後夜・日中の三座修法する。


加行などでも初夜から入って日中で終わる。


これはインドの一日の概念が

伝わっているものなのです。


インド風にいえば

午後生まれは、次の日の生まれとなる。



普通東洋系の占術では

子の刻(午後11時)から一日が始まりますが、


宿曜占星術の場合は

午前零時を始まりとします。




〜真言宗智山派 

総本山智積院ホームページ参考




空海が始まりで、

弥勒菩薩降臨で

その役目が終わる

高野山。



サンスクリット語のアルファベットの

最初の字音である「ア」と

最後の字音である「フーム」をさす言葉。


密教では、

この2字が

万有の始原と究極を象徴するとし、

それぞれ万有の原理、

それらの帰着する智徳を示すとする。



また、前者を悟りを求める心 (菩提心) 、

後者をその結果としての涅槃 (ねはん) に

あてることもある。


〜ブリタニカ国際百科事典 参考




「牛」の字は

牛の頭を象った

(かたどった)象形文字で、


古典漢語の呉音ではグ、

漢音ではギウと発音していたようですが、


現代の中国語では

「ニウNiú」となっています。


Niúの発音が

いつから漢語の発音となったかは、

今のところ詳しくはわかりませんが、


Niúの正確な発音を

日本語であらわすと

「ニォウ」となり、

ニォウは

やや語尾の音が高くなります。




*画像は 犬飼山『轉法輪寺』

文、蛯原春比古さま


奈良県五條市です

ここも行きたかった〜!!

五條西インター下車

画像お借りいたしました

蛯原さま!ありがとうございます!


わたしは直に、この地を訪れ

蛯原さまの仮説に身震いしております!

素晴らしいです!!


五行論を習った者

宿曜を習った者には

このお話はピンとくると思います


三波川変成帯の青石でしょうか!

三本の松が

取り放題って、わかりますでしょう!!

枯葉を踏んでしまうと
折れます!
手前から、取ってください!
中には、4枚葉があり
たまたま、わたし、採取できましたよ

(*'∀'人)♥*+

欲張らず

ほかの皆様の幸せのために

譲り合いの精神で

お願いいたします

山崎 榧の木神社

標高477m「大日山」の中腹にある

「山崎榧の木神社」の里宮的な社。

創建は2011年、

地元名士の手によるもの。

伝承では

空海などという僧侶が

高野山を開山しようと、

九度山から雨引山頂を目指していた時に、

大日山「町石道」で大石を発見。

石上から麓を見下ろすと

困窮した村が見えたので、

持参していた榧の実を撒いた。

その榧の木から

搾取する油でこの村は潤ったというもの。

そもそも山崎村は「山幸」を地名由来とし、

それは山の幸が豊富に採れた

ということから。


だそうです

17時を回りました

さて、レンタカーを返しに

ホテルのある、橋本市まで

実質稼動3日間

走行距離

680キロ


まだまだ、調査は続くようです

また、来ます!

ありがとう~!!和歌山県!


令和6年(2024)4月13日(土)~6月9日(日)
空海 KUKAI
―密教のルーツとマンダラ世界

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