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【ルーツ】わたしの姓 「森」について

母方祖母の実家、「山司」、
祖母の嫁ぎ先、「松木」

母の嫁ぎ先、「木村」、
そして、わたしの嫁ぎ先、「森」

「森」という名字には、
どんな由来があるのでしょうか。

「日本姓氏語源辞典」より

全国 約457600人 愛知県、大阪府、神奈川県

①地形。森から。富山県高岡市伏木矢田、長崎県長崎市琴海尾戸町では、明治新姓と伝える。石川県金沢市大場町で伝承あり。富山県魚津市稗畠では草分けと伝える。江戸時代にあった門割制度の森門から。門の位置の例。鹿児島県薩摩川内市上甑町江石、鹿児島県南さつま市加世田武田、鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南、宮崎県北諸県郡三股町蓼池。鹿児島県の奄美群島の一字姓。鹿児島県大島郡伊仙町伊仙に分布あり。善隣。埼玉県入間郡毛呂山町長瀬、埼玉県川越市下広谷に分布あり。善隣。大阪府池田市古江町に江戸時代にあった、同地では、熊本県の出と伝える。

②神奈川県厚木市付近(旧、毛利荘)から発祥。平安時代から記録のある地名。地名は、「森」とも表記して、モリの発音もあった。長野県長野市松代町松代が、藩庁の川中島藩主に、安土桃山時代、江戸時代、岡山県津山市山下が、藩庁の津山藩主、津山新田藩主、岡山県井原市西江原町が藩庁の西江原藩主、兵庫県赤穂市上仮屋が藩庁の三日月藩主に江戸時代にあった。

➂大分県玖珠郡玖珠町森、発祥。鎌倉時代から記録ある地名。

④静岡県周智郡森町、発祥。室町時代から記録のある地名。静岡県静岡市清水区草薙神社の神主による伝承。

➄東京都町田市森野、発祥。戦国時代に「森」と呼称した地名。

⑥群馬県藤岡市森、発祥。戦国時代から記録ある地名。

⑦神奈川県横浜市磯子区森、発祥。江戸時代から記録ある地名。

⑧大分県大分市森、森町、発祥。江戸時代から記録ある地名。同地に分布あり。

➈滋賀県長浜市森町、発祥。江戸時代から記録ある地名。同地に分布あり。

➉青森県八戸市南郷大字大森人形森、発祥。同地に分布あり。

⑪合略。森川の略。茨城県下妻市下妻甲が、藩庁の下妻藩士に江戸時代にあった。同藩士は江戸時代に、森川姓から改姓したと伝える。

⑫合略。小迎森の略。鹿児島県鹿児島市で、1950年に改姓。

⑬杜の異形。大阪府大阪市で、1951年に改姓。高知県土佐郡土佐町柚ノ木付近(旧、森)は、経由地。戦国時代から記録ある地名。地名は、滋賀県から森氏が来住して永磯から改称したと伝える。茂利、杜は異形。


森といえば、

鎮守の森を思い浮かべますが、

仙台は、杜の都と、
「杜」という漢字を使っています。

「杜」という名字は、
どのような語源なのか。

全国 約400人 鹿児島県奄美市、神奈川県、兵庫県

①地形。森の異形。鹿児島県の奄美群島の一字姓。鹿児島県奄美市名瀬平田町が本拠。

②事物。杠(ゆずりは)の異形。山口県下関市で、ユズリハあり。推定では、誤記による変化。

➂シナ系。中華人民共和国 陝西省西安市、発祥。シナ音は、トー。兵庫県神戸市中央区山本通に分布あり。森は異形。


と、あります。

名字由来で、調べてみます。

①戦国江戸時代の大名家のひとつ森氏は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)義家流がある。義家流は現神奈川県である相模国愛甲郡森庄発祥。
②宇多天皇の皇子敦実親王を祖とする源氏(宇多源氏)。
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)
④清原氏(天武天皇の皇子舎人親王の子孫)。
など様々な流派がみられる。

語源は、
森の意味や、神社森に関連して守るという
意味がある。
ほかにも朝鮮語の首(かしら)の意味がある。
家紋は舞鶴、桐、根笹など。

林や小林という地名には
人が住み着いて集落ができるが、
森は神域そのもんだ。
森は神霊が寄りつく高い樹木が
生い茂っている場所だから、
普段人は足を踏み入れない。
唯一、
その森を守る森さんだけが
出入りを許されていたわけだ。
森は守に通じている。
また神社をモリということもあった。
その場合、
森さんは神社を守る神主というわけだ。
しかし、七一三年に元明天皇の勅命で
地名は縁起の良い二文字に
書き改めることになった。
好字二字令だ。
これが世の中に広まると
森から毛利(もうり)や母里(もり)という
地名や名字ができた。
毛利氏は
相模国愛甲郡毛利庄(神奈川県厚木市)から
発祥したが、
毛利は森をおめでたい二字に
書き換えたものといわれている。
また同じく森の変化といわれる
母里からは母里太兵衛が出た。
黒田官兵衛の家臣で
福島正則のもとへ使いに行ったとき、
大杯の酒を飲み干して、
天下一の槍日本号を持ち帰った豪傑だ。
この話は黒田(くろだ)節(ぶし)
という歌にもなった。

と、あります。

もともと、嫁ぎ先の、「森」は、

山形県の出羽三山の出で、
仙台にあった本家、渡辺家が、
お金を使い果たし、一大事となって、
山形の屋敷を売り払い、
仙台の、その屋敷に移り住んだという話を
聞いています。
移り住んで、わたしたち夫婦で、
四代目です。

墓所は、森家の墓所敷地内に
一緒にしております。
それは、お金がなくなり、墓をそのままに
どうも、新潟県のほうへ行ってしまった、と
聞いています。
以来、その本家の渡辺家の子孫は、
墓参りもしていないようで、
無縁墓になるのも忍びないと、
舅が、新しくする際に、
一緒の敷地内に移設しました。

本当は、反対したのですけどね。
敷地は別に、隣同士がいいのでは、と
進言したのですが、
言い出したら、聞かない舅でしたので、
そのようにしました。

反対した理由は、
本家といえども、衰退した家の墓所を
同一の場所にするのは、
風水的に言えば、
自分の家も、衰退させるからです。


やはり、信仰心というのは、
何も団体に、入信することではなく、
「敬う」「畏れ」をどれだけ、芯に置いて
神仏さま、ご先祖さまとともに、
地域で生きるか、ですから。

風水は、そのこころあっての、です。

だから、第三者の目からみて、
厳しく言えば、
「救われなかった」家だと思います。

しかも、三代目で。


親戚には、
山形県の出羽三山、羽黒山山伏
となった
男性もおりました。

家紋は、左三つ巴です。
出羽三山神社のご神紋と同じです。

しかしながら、わたしたち夫婦には、
子どもはおりませんので、
代としては絶えます。

三代目である、主人の父親は、
信仰のこころ薄く、
自宅の神棚、仏壇、墓所に、
自ら進んで、手を合わせる人では
ありませんでした。
損壊している墓所にも、こころがなく、
2年かけて説得し、
新しくしていただきました。

わたしが嫁入りして、
主人も父親と同じように、
信仰のこころが薄かったのですが、
年数かけて教育しました。

両親も亡くなり、同居先を離れましたが、
出勤していくときは、
必ず、神棚に柏手を打ち、
仏壇はありませんが、
寺院の御札を両親に見立て、
手を合わせて行きます。

わたしたち夫婦は、
羽黒山山伏がいたことを知り、
同居していた時から、毎年、
秋彼岸には、羽黒山の出羽三山神社の
祖霊社に出向き、
ご先祖さまのお塔婆を供え、
祝詞を奏上していただいております。

と、言いますのも、

初代から伝え聞いていたであろう、
山形県のご先祖さまの菩提寺を、
三代目で、すっかり記憶が
残念ながら、途絶えてしまっていたのです。

ですので、親族に、
羽黒山山伏がいましたから、
祖霊社にて、
お塔婆をお供えすることによって、
心が届くであろうと、
そのようにしております。

出羽三山の出、ということで、

「森」も、

ご神域に住んでいたから、
だったのではないかと推測します。

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