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短編小説No.8「団欒」

この小説は、金史良「光の中に」のトリビュート作品です。

 息子の秋吉はもう10歳で、幼時のかわいらしさをすべて取りこぼして成長した。暗澹たるその事実は、母親の私に特別な苦痛をもたらした。同じ屋根の下で、このようなふてぶてしい「誤った子供」と、あと何年耐え暮らさなければならないのか? 家族として?
 夫は勤勉で堅実で、私だけを愛してくれるはずだった。交友が広く、地元の友人から慕われ、人気者のはずだった。私はそのような夫のみを知っていた。
「準備してないだ? なんで?」
 それが夫の口癖になったのはいつからだろう。その言葉に怯えるように生活するようになったのはいつからだろう。
「母さんは何もできないな、いつも失敗してるよ。お前はこんなふうにはなるなよ」
 と、夫が息子に言う。私に聞こえるささやき声で。
 4、5歳のころ、幼時の秋吉は幼子らしく困惑して、姑息な微笑を繰り出すだけでまだかわいらしかった。今では夫に便乗して「さっさとしろよ。なんでそんなこともできないの?」などと軽口か冗談のつもりで言っているらしいが私はその言葉が心底憎い。

 夫に養われているという状況が私を卑屈にしているのだと思った。私は家事をしながら働ける場所を探した。秋吉が6歳のころのことだ。だが、妊娠のため一度辞めた職場に復職できるほど、私は重要な人材ではなかったようだった。新しくパートの募集を探しては、時給を皮算用してまた卑屈な気持ちになりかかる。未来のことを考えるのを止めよう。容易に算出できてしまう生涯収入の額ではなく、現在の、一瞬一瞬の生活に幸せを見出そう。
「家事もろくにしないで、小遣い稼ぎか。こっちは家に入れてるのに、自分は全部へそくりか」
 15になった息子の身長は私を超えると、母親へのひとつまみの遠慮すら無くなった。
「邪魔」
 と、息子は私に言う。黒々とした光のない目で見下ろし、私とすれ違うたび、私が視界に入るたび、そう言うのだ。そして私がもたついていると、私の体を腕で押し、肩ではじく。夫は何も言わない。息子の横暴が、男としての立派な成長の兆しであると信じている。家の中で平穏を得るために、私は私という存在を消さなければならかった。

 息子が産まれて間もなく、夫は私を殴った。暴力として触られたことは、今まで一度もなかった。けれどその日夫は、はっきりと私を殴るためだけに、私に触れた。何かが決壊したと思った。その日を境に、夫は暴力を振るうことへのいっさいの抵抗を失い、暴力はすぐに習慣になった。
 息子の夜泣きに耐えられなかった夫は、息子が黙るまで一人で暮らすと言った。そうしなければ仕事に支障が出る、そうすることが合理的判断なのだ、と夫はつらつら語り、その日のうちに家を出た。息子がようやく「人間らしく」なると家に戻ってきて、それまで我慢していたのだと言わんばかりに、我が子へ愛情を注ぎだした。
 夫がいないあいだ、私の両親が育児を手伝ってくれていた。
 私が戻り、生活していくだけのゆとりは実家にはない。もし離婚すれば、そのことによって私は不幸になるだろう、と私の両親は考えていた。私の不満は、ほとんど子供のわがままとして片付けられた。私が受けた仕打ちをすべて話してみても、一時的な問題にすぎないと一蹴した。

 時間というのは、残酷なほど平等に経過する。夫は60を前にして血管を詰まらせ、顔全体を赤黒く変色させて死んだ。私は数年ぶりに秋吉に会うことになった。秋吉が大学に入り一人暮らしを始め家を出た日の夜、自分の心が軽くなるのを私は感じていた。
 葬儀が終わり、秋吉は実家――私の家に泊まった。私は夕食を用意したが、秋吉は口を付けようとせず、コンビニで買ったものを一人で食べていた。
「ご飯食べな」
 私は義理でそう言った。自分の息子を肥えさせることに、嫌悪感すら覚えた。
「母さんは父さんが嫌いだった?」
 秋吉が不意に口を開いた。私は戸惑いながら、しかし迷わず嘘をついた。言い慣れた嘘だ。
「そう。なら、いい」
 秋吉はまだ口の中に何か言い残したものがあるらしかった。少しの沈黙の後、恐る恐るといった様子で続けた。
「俺のことは? 俺のことをどう思ってる?」
 そんな秋吉のことを、私はいぢらしいとは思わなかったし、何一つ感じるところがなかった。私はもう一度、嘘をついた。
「……うん。この歳になって気づいたんだ。人っていうのは必ず裏切る。結局、頼れるのは血のつがった家族だけだ」
 そう言うと、秋吉はコンビニ袋を手放し、テーブルに座って私の作った簡素な食事を摂った。「最愛の息子」が私の作った料理を、数年ぶりに食べている。それは一度私の体内から取り除かれた器官が、不意に返品されてきたかのようだった。
 ただ、もう私はすでに自分の空洞の体に、慣れ親しんでしまっていた。かつての一部が、私に復帰するための余地はもはやない。私の一部であったことが疑わしいほど、まったく親しみを覚えない。ただ、貧相で覇気のない、私のよく知らない男が一人いるだけで、次第にこの食卓、団欒すら、不自然に感じ始める。

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