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人間の人生って長いの? それとも短いの?

2017/3/7 過去投稿

比較対象って重要じゃね? っていう話

あるあるな話として、よく人間の人生って長いのか短いのかっていう不毛な論議ありますよね。ちなみに、私は長いか短いかはどうでもよくて、色んなことを詰め込んで長いなって思える人生が素敵やんって思ってる中二病です。

では、本題。タイトルを具体例に出していこう。Aさんは人生の長さについてこう語る

A「人生って長い。だって、僕とあなたが話している時間は1時間程度だとして、人生80年として1年が365.25日、1日は24時間。つまりあなたは80×365×24だけの時間を過ごす。僕との会話をその回数分繰り返せるぐらい長いんだ」

次にBさんはこう言う。

B「地球が誕生したのが45億年前。生物が誕生したのはその数億年後、そして人類が誕生したのなんてここ数百年万年くらい。人間の人生なんてそれに比べればちっぽけでくだらないもの。だから短い人生に何を残せるが重要なんだ」

こういうことを言うのがいるけど、掘り下〼

何が言いたいのか? 比較対象が可笑しい。Aさんの話には活動時間という要素や何についての自由度が記載されていない。実際に活動できるのは寝ていない時・飯を食ってない時・糞便をしていない時とかだ。さらには、運動についての自由度の話をすれば、年をとっていたり体が未発達だったりすれば結局自由に動けない。

つまりは比較対象が実際の比べるべき、1人の人生の時間が間違っている。

次にBさんの意見。これもちゃんちゃら可笑しい。一言で言えば比較対象が大きすぎてピン来ない。そりゃ、たかが平均寿命80年を地球と比べてしまえば、短いに決まってる。ただ地球がどれくらい生きてるの? って言われてなにか答えられる人はいるか? 現実味がない比較対象は幻想を生む。

つまりは比較する相手のスケールが間違っている。

二つの意見への批判をまとめれば、まず比較する対象の大きさや目的を調整しなくてはならない。次に比較相手の大きさや目的を調整しなくてはならない。

やはり先人は素晴らしく「対照実験」への考えにはまさにこれに則った考えが組み込まれている。

比較する対象と比較されるものをほとんど一緒にする。そして、知りたい目的の部分のみを変える。こうすることで、意味のある比較を得る。実に正しい。

では、この世には対照実験をできる事例など少ない上に、そんなことをするいとまがない場合も多く存在する。だからこそ、我々は比較対象を見つけてデータに意味を持たせなくてはならない。

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ではここで希哲学者流の比較対象の見つけ方を教えよう。

私の考えにおいては、人生に客観性を見出すのは無理、という意見(今後ネタになるかも)を下敷きにしているために、仮定を沢山用いることを良しとしている。それ頭に入れて読んでいただきたい。

ハッキリ言ってこの世の事例同士で、比較できるほど似ている事例など少ない。ならば、シュミレーションで解決する。但し、シュミレーションをするときは大きく分けて二つの方法のみを採用する。

1つ目は現実で起こったまたは起こりうるシチュエーションの一部のみを変えてみて、それを自信に問い直す。これはいわゆる失敗学の基礎にも似たような部分があり、一度の事例から数度の試行回数を得られるため非常によろしい。さっき言った仮定を変えるパターン。

2つ目は現実で起こったまたは起こりうるシチュエーションを誰かほかの人物に与えて考えてもらう。こうすることで、自分の主観と他人の主観を比較することができる。これもまた一度の事例から数度の試行回数を得られるため非常によろしい。今度は仮定を他人に与えるパターンだ。

この二つのパターンないしは組み合わせたパターンは比較対象にしやすい。ただ重要なのはどこにも客観性がないという事実である。1つ目のパターンはあくまで独り相撲なので視野は広がらない。2つ目のパターンを繰り返せば、それは大衆性は帯びるかもしれないが例外の可能性は排除できない。

どちらも同じ弱点を抱えているが、私は客観性などこの世には存在しえないと考えているので、これが比較対象を作り出すうえで完璧に近いのではとは思っている。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:黄梅

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