領域展開とかいうかっこいい文字列

自分の干渉できる部分ってどこからどこまでなんだろって話。

最近、既視感を覚えることがありました。それは「領域展開」と言う言葉とその言葉が出てくる呪術廻戦という漫画です。まあたまにいる「その設定、先に思いついてた!」「パクリだパクリ!」とかを言いたいわけではなく、その世界観が自身の考え方の一部と似通ってて、同じ言葉が使われているからです。

ここでは超面白い漫画である呪術廻戦という漫画にはほとんど触れず、自身の考えを書くだけの痛い記事となりますので、気になる方はご自分で手に取って、お読みになることをお勧めします。

話を戻します。私は日常生活で相談された際に「領域」という言葉を使用します。一応、この言葉を使うようになったのは割かし前で、その前もうまく自分の考え方を表現できず、「干渉できる範囲」とか言ってたのを思います。

ところで私の言う「領域」って言うのはなんぞや? という話ですが、これは別の言葉で言い換えるなら、「自分が干渉する範囲」ということをです。本当は「自分が干渉すると決めた範囲」と書きたいのですが、後述の理由でここで止めておきます。

私の言う領域はあくまで、現実的な世界に当てはめたルールや概念であって、面白い漫画の設定や中学校二年生の脳内ではないです。領域と言う名称にしたのは私自身の中二センスがあることは否めませんが……。

何度も書くように領域は自身が干渉する範囲のことで、具体的な一例を示せば、男性であれば男性用トイレが領域であり、女性であれば女性トイレが領域である感じで、自身の性別や特性、肩書などによって影響を及ぼせる場所ということになります。

但し、ここでの場所は決して、世の中に存在する地点と言うわけではなく、権利や権力の範囲とも言えます。18歳未満には投票権がない、逆に18歳以上であれば投票権があるなどの権利もこれに含まれます。

何が言いたいんだ、と考える方も多いと思います。領域ってつまりは自分が出来ることや侵入可能な場所のことだろ! なにを難しく言っているの?

そこで「自分が干渉する範囲」と初めに表現したことが重要になります。「自分が干渉することができる範囲」ではないということが重要になります。

世の中のルール、憲法にしても法律にしても条例にしても、校則・業務規程などそれらのすべてには実は自主性が必ず存在しています。実際は守らなくても良い、ただ守らなかったらこういう処罰や社会的制裁を受けますという関係がある。ルール違反や犯罪をしてはならないのは法律がそうだからではない、ズルや悪いことはしてはいけないから。

これは倫理の話を説いたわけではなく、もっと日常的な部分にこのこういう考え方を持った方がイイのではという考えです。

ではここで私が実際にされた相談とその返答を文章化して解説したいと思います。(大学在学中の知り合いからの相談)

相談内容は、「最近、他大学の友人の飲み会を断りすぎて人付き合いの悪い奴だと思われていないか心配。今はテスト前だから断っているだけで、行きたくないわけじゃない。自分は留年も経験しているし、勉強にはシビアでありたいと思っている」というものだった。

私は「ルールを作って、領域を決めてそれを開示するといい。具体的にはテスト1週間前は飲み会行きませんというルールを作って、1週間というラインを自分干渉し得る領域に設定する。そしてそれを遵守したうえで、他人にも必要であれば告知する。もしも例外が発生すると面倒なので、予めどういう時を例外とするか決めておく」という答えを言いました。

これは何を言いたいかと言えば、ルールが公なものになれば、テスト前は誘わないのが普通になり、そこには「行きたくない」という「意欲のなさ」とかではなく、ただ決めたルールに従っているだけという事実にすり替わる。相手側が「仲良くしたくない」とかいう考えを持つ可能性のある隙を埋めることが出来る。

他にも友人間での金貸しなどへはこの考え方がうまく転用できる。金を貸さないというルールを設けたり、いくらまでの上限額を定めたり、他にもいくらまでは貸すではなく奢ると決めるなど、その汎用性は富む。それを決めて、それを開示することで、友人関係では金銭トラブルが減らすことを期待できる。

また今までは「ルールを決める」→「開示する」という流れがありましたが、これは「開示する」ことをしなくてもいいのが面白いとこです。

飲み会の話にしても金銭の話にしても、ルールを開示するのは関係性を続けたい人に対してすればよいことで、それ以外の人にはしなくてもいいと私は考えている。このことの本質はそこを人間関係の切れ目として設定することが出来るということです。

人間関係とはある程度の交流があれば、切りたくてもズルズル長引いて行くもので、それは人間の怠惰に甘える特性が依拠していると私は考えています。それによって、得することもあるかもしれませんが損失となることが多いと思います。

ただ開示して無くてもこのルールを決めて置けば、それを自分自身への理由として関係性を切るキッカケを作ることが出来る。つまり、ルールを決めるメリットは自分の中に「ターニングポイント」になりうるかもしれない部分を「自分で」作ることができるということです。

そして、そのルールで決められた自分が主役の空間や自己決定権がある概念を「領域」と私は呼んでいるのです。だから、領域というものは重要だと私は考えています。

ただ実は領域とは無意識下で実はひっそり決まっているものだと考えています。それがいわゆる生理的な嫌悪感(「生理的に受け付けない」という表現)を生んでいると思っています。ただし、その領域は無意識下でぼんやりと決まってだけなので、その領域のフチまで言ってしまえばゆっくり浸食できるものだと思います。

これに似ていると個人的に思う概念として、「フット・イン・ザ・ドア」という行動経済学の概念があり、一度要求が通ると、関連する次の要求が通りやすいというものです。詳しくは別の機会に解説かもしれないです(詳しく知りたい場合には自分で調べるのがベストです)

つまりは相手の領域のフチでこの方法を行うことで、本来なら入れない領域の内側の要求を通すことができます。これは無意識下でぼんやりと決まっているからこそできることであり、逆に言えば領域をキッチリと意識して持っている人はこれらの心理的効果を受けず、冷静な判断が出来ます。

だから、この領域という考え方を自分にも他人にも持つことで、人間関係を優位に進められると思います。

だからこそ、領域は「自分が干渉することができる範囲」ではなく、「自分が干渉すると決めた範囲」と定義していることが重要なのです。

自分で領域を決めれば、本来ない部分に自分のターニングポイントを作ることができ、よくわからない侵入者を拒むことが出来る、ということです。

最後にまとめます。

自分自身で「領域」を設定して開示すれば、続けたい人間関係に対して「誠実性」が担保でき、開示せずに隠しておけば自分で関係を継続するか否か選べる「優位性」(ターニングポイントの設定を含む)が担保できる。
他人の「領域」(及びその「領域のフチ」)を意識すれば、相手の地雷を踏むことを「回避」できると同時に、他の人間が許されない要求をフット・イン・ザ・ドアなどを駆使して「許容」させることができる。

ということですね。

最後になりますが、こういう領域を開示するかしないかで生まれるハンデが変わるっていう部分も呪術廻戦に似ている部分がありますよね笑

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?