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いらない感謝と欲しい感謝

感謝って2つの成分を孕んでる話。

突然だが、私は「ありがとうございます!」と「ごめんなさい!」が嫌いだ。厳密に言えば、心のこもっていないそれらが嫌いだ。

でも、わかりやすく心がこもっていないモノもあれば、あーよく考えると全く心がこもっていないなーってなることもある。まあ発する際に、心がこもってなくても演技をするか否かの違いなのだろう。

人間は建前でもいい、習慣でもいい、とりあえず「感謝」や「謝罪」を求める。実際にはその考えは間違っていないし、とても立派だ。但し、その本質を理解するにはある程度の経験を積む必要があると思う。今日はそんな話をしていきたい。

まず、習慣的な「感謝」や「謝罪」とはなんだろうか? 具体例を出すなら、コンビニの店員の「ありがとうございました」や会社でミスした際の「申し訳ありませんでした」とかだろうか。後者に関しては、実際には誰が見ても仕方がないミスや本人に実質的な責任がなくとも、枕言葉として言っているような例をさしている。

とりあえず言うことで印象を良くする、とりあえず言うことで聞き耳を持ってもらう。そういう意味で、習慣的な感謝や謝罪とはとても重要だ。相手が常に冷静とは限らないし、相手が人間であるからだ。

但し、習慣的なモノはそこに感情が乗っていない、本気ではないのだ。それでは意味がない時も多分にある。

特に信頼関係が強くなった友人や家族、恋人関係についてそれは良く起こる。実際の感謝や謝罪の気持ちがなくとも習慣的に言ってしまっていると、その習慣が信頼関係の構築のせいでなくなる時がある。すると、手元には何も残らない。もしも心からの感謝を言っていれば、そこには感謝の念が残るし、そもそも習慣的な感謝ではないため、感謝を表現するということがなくなることがない。

ここで私の考えをまとめる。感謝とは習慣的な感謝と心からの感謝の2つがあり、人間はその2つの成分を持つ感謝を言うが、比率はその時その時によって大きく異なる。

習慣的な側面が強い限り、そこには心からの感謝はない。であるからして、印象は良いかもしれないが、何も残らない。心からの側面が強い場合には、次への意識改革などの特典があるが、重く言う方も言われる方も気負いする。

決して、習慣的な感謝<心からの感謝ではないと私は思うが、感謝に2つの側面があるのを把握することは重要だと思う。もちろん、謝罪にも言えることだが。

今、自分は感謝されているが、それは「感謝すべきだから」感謝されているのか、「感謝したいから」感謝されているのか、それは天と地ほどの差があると私は思う。

ちなみに、先ほど書いたが、習慣的な感謝でも(心がこもっていない感謝でも)、そうでないように見せる方法がある。それが「演技」である。

私は「演技」とはとても良いものだと思っている。いや、本来ならば自身の感情を正しく伝えるために学ぶ技術なような気がするが、処世術としては気持ちと違うことを表現するのも良いだろう。

心からじゃなくても心からのように見せる。それによって、相手を気持ちよくさせたり、説教の時間を短くできる(場合もある)。心からでも心からじゃないように見せることで。それによって、相手を図に乗せない、大きな気負いをさせないこともできる。

処世術として、「演技」をするうえでの重要な点は、自分にとって最も利益をもたらすようにすることだと思う。同時に演技に心が引っ張られないようにすることも重要だが、蛇足が過ぎるのでここで今日はおしまい。

私は「より多くの人」に「より大きな感謝」を「心から」されたいと思っている。それって本当に難しいなーと常々思います。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:生まれ変わったらペンギンもわるくない

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