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小ネタ集を書きたい

過去投稿:2017/8/16

小咄をちょっといくつかしたいなって話。

内容は以下です


1.下を見るのは悪くない

2.「一度」と「何度」の意味

3.「許さない」という選択肢


さくっと行きましょう

1.下を見るのは悪くない

人生って疲れることがあります。向上心を捨てるな、なんてよくある処世術ですが、僕もそれ自体には反対しませんが、お休みはしてもいいじゃないかな? って思います。確かに上をみない人間には成長はありませんし、成長なき人生とは価値がないと思います。ただ疲れた時に死にたいときに、ふと下を見て、自分よりも不幸な人間を嘲笑ってみたり、自分よりも能力のない人間を馬鹿にしたりするのはいいじゃないでしょうか?

ずっと飛び続けていたら疲れてしまいます。遊びとはどこかにあるべきであります。趣味や娯楽では癒えない傷もあります。逆に、嘲笑や罵倒にしか癒せない傷もあるでしょう。そういう時はオープンにやる必要はありませんが、してみるのもいいでしょう。ただ注意しなくてはいけないのは、それは上を行くためにするのであって、下を見るのを中心にしてはいけません。

2.「一度」と「何度」の意味

機会があって受けたり断ったりした時にそれ以上のその機会がない場合、どう解釈するかの話です。何度も機会があったのに突然終わった。突然一度の機会があって、それっきり。そこには意味がない訳ないです。

何度も合ったのになくなったのなら、最後の一回とその前の機会の間に「何かがあった」ということです。突然の一度の誘いとは「意味を詰め込んだ一度」か「気付かない何度かがあった」のどちらかだと解釈するべきです。

人間の行動には突発的はないです。本人の気付かないところでも確実に動機は存在します。機会をチャンスに変えるのは、または機会をピンチに変えないようにするには、その機会が自分に巡ってきた背景を精査する必要があるかもしれません。自分が終わらせたくない関係・提携・関連、そこに終止符を打つのは常に自分であるのです。

3.「許さない」という選択肢

性悪説と性善説、どちらが正しいのでしょうか? ちなみに私は性悪説派です。ただそれ以上に正しいのは人間とは「主観的利己主義」なのです。一般的に自分にとって利益がある、自分の思想では有益であることをする生物です。まあ客観的ではないので常に冷静ではないのは面白いですが。

それはさておき、人間は「主観的利己主義」であるがゆえにか、何か問題が生じると基本的には「許す」選択肢を取ります。なぜなら楽だから。許さないと心に残り、自分に遺恨が発生します。また相手との関係も崩れます。ただそれは本意ですか?

時に人生とは許さなくてもいいんじゃないでしょうか? 自分とかかわりがなくせる人間に対して、口では言い表せない怒りを感じれば、関係を切る気持ちで「許さない」のもいいじゃないでしょうか? だって、自分に損益がないのだから。「許すことであるかもしれない利益」という不確実性ではなく、「許さないことで許すことによりストレスの排斥」という確実性、というのもアリなのでは?

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

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