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アメとムチって概念を考えた人って頭いいなー

昔から感銘を受けている概念について書きたい話。

少し前の刑事ドラマだと、取り調べのシーンの時に、めっちゃ切れ気味で犯人を追い詰める刑事と優しく寄り添って犯人に同情する刑事がいてセットで取り調べると、犯人が自白する的なのがよくありました。まあありがちなのは高圧的な方(ムチ)が追い詰めて、甘い方(アメ)がなき落とすっていう展開ですかね。これってとてもすごい概念だと思うんです。

少し違いますが、北風と太陽もこれに似たところがあるような気がします。北風と太陽では、北風は風邪による物理的な力で旅人の上着を飛ばそうとするのに対して、太陽は暑くすることで旅人に上着を脱がせたいと思わて勝利する。

この2つの話の類似点は、1つの概念に対して2つの角度から攻めてみる、ことの重要性がわかることです。アメとムチは懐柔策と強硬策、北風と太陽は物理的と心理的。

北風と太陽は太陽が勝ったことが記憶に残りがちで、無理矢理は良くないね、みたいなころを教訓として学びましたが、実際には北風のアプローチは間違っていない。例えば、上着を羽織っているだけで風が吹けば吹っ飛ぶことは十二分に考えられる。あの話の大事なところは、方法論とは複数あって正解に対してまっすぐでない場合の方が正解を得られる可能性がある、または複数の正解があると教えてくれる話だと大人になって思います。

っていうか、北風と太陽のすばらしさを語りたいのではなく、アメとムチの素晴らしさを語るべきですね。では、この2つの異なる点を話したいと思います。

相違点はまさに存在軸です。北風と太陽では北風が旅人に対して挑み、太陽が旅人に対して挑む。あくまで対抗戦であり、それぞれが対旅人に対してどうするかを考えている。対して、アメとムチはチーム戦であり、容疑者に対して協力して挑むという構造なんですね。

つまりはアメとムチという2つの異なる道具を刑事のチームと言う大きな枠組みの1つと言える存在として使う。ようするに下の図の形です。

あめむち

チームなのか競っているかは大きな違いがあり、チームでは相互作用を狙って起こしています。ムチが精神的に追い詰めて、アメがそこに付け入る形で落とすのも良い。アメが甘やかして油断させて、ムチで心を割ることで落とすのも良い。アメとムチは相互に作用することで単体使用よりもより大きな作用をもたらしている。

物書きのはしくれとしては、小説なので言う、「緊張と緩和」というような意味合いもあるのでしょうね。心の動揺を誘うことでスキを作る、そんな感じ。

いやー、方法論がいくつかあるとわからせてくれるし、チームの重要性も教えてくれるいい話だな―、で終わるわけではなく、私はうーん、ちょっともったいないのかなとも思います。

取り調べで成立するかどうかはさておき、2つの方法論を同じ概念に行うのはよろしいが、違うタイミングで行うのはちょっともったいない気がします。わかりやすい例を出します

それは支配・服従の方法です。一般的には支配・服従を考えてると、強硬策で恐怖で従わせる感じですが、実際には懐柔によって支配されている場合があります。良くしてもらっているから、御恩があるから服従を選ぶような感じですかね。

ただ単純に恐怖や懐柔の単体で支配・服従をするととても柔いです。恐怖であれば、支配されている側が支配している側を倒すほどの力や死をもろともしない決意をしたら終わり。懐柔では支配者への恩義や忠義を失われたら終わり。単一で弱い。まあここまで言えば、わかると思いますが、2重支配できればそれ以上の概念を使って多重に支配することが重要となります。

取り調べも一種の人心掌握術と考えれば、これに似た概念が使えそうな気がします。緊張と緩和を連続的に行うのではなく、同時に行う。これを同時にやっている例が一つあります。あまり良くない例ですが、それはDVです。

DV、家庭内暴力が成立しているのにも関わらず、カップルまたは夫婦関係が成立しているのは、この2重支配を受けているからだと思います。一般にDVをする側は精神的肉体的暴力する以外には、謝罪をしたり関係ない時は優しかったりします。する側は同時に行うことはできなくとも、それを高度に連続して行うことで、相手の中では恐怖と懐柔の同時支配がはじまる。そうなれば、逃げれなくなる。

また興味深いことに、一概に同時または連続的にやることで効果があがるわけはない。つまり、いたずらに多重または複数の道具を使うべきではないときがある。例えば、北風と太陽に関しては同時彼らが力を使ったどうなるでしょうか? 着こみたくなるほどの北風と脱ぎたくなるような日照り、結局現状維持でよくねってなることもあると思います。他にもカレーなどでスパイスを使う際は使いすぎればいいわけではない。たくさん入れることで味が複雑になるが、逆に何の味をさせたいが不明になるようです。

つまりには効果がある方法を効果のある形で足し算または掛け算をすることに意味があって、一概に複数の道具を使うのがいいわけではない。

まとめると、複数の道具があることを自覚すること。複数の道具を1つの目的に対して使用すること。複数の道具を連続又は同時に使うこと。複数の道具を全部使えばいいというわけではないこと。

これらを1つのたとえ話から、派生できるってやっぱりアメとムチってすげぇいいたとえ話なんだなーと、私は思います。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:のどかな風景と駐車場(軽井沢)

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