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プライドは代償を伴う武器

気付いたらできたプライドは弱いけど、作ったプライドは強い話。

皆さんにはこだわりとかプライドはありますか? 私はありますね。しょーもないと言われるようなこだわりが多いですが、まあそんなもんですよね。人によってはルーティンのような感じで、出掛ける前に寝る前にあんまり意味ないけど行うことがあるでしょうか?

そんなこだわりやプライドが災いして、トラブルを起こしたことはありませんか? まあある程度の人生を生きれば、なんであんなことに拘ってしまったのだろうか? あのプライドは邪魔だったなーと反省や後悔する局面もあるんではないでしょうか?

こうなる人は、「ああこだわりなんてなければいいのに」「高いプライドは邪魔だなー」と思う訳で、それは自然なことです。ただそれは負の側面を切り取ったからであって、良い側面もたくさんある。

良い側面はこだわりやプライドという領域を出て、信念と言われたり成功者になってしまえばそれが「成功の秘訣」なんて呼ばれたりします。

一概に悪くなるとは限らないし、良くなるとも言えない。こだわりやプライドという概念。私はふと思いました、世の中にどうやら良いこだわりやプライド、そして悪いこだわりやプライドがあると。その差はなんなのか?

答えが、タイトルの次の文章にあります。気付いたらできてたプライドと意識して作るプライドがそれだと思います。あ、もちろん1つの観点から出会って、すべての気付いたら出来てたプライドはあーだこーだとかその逆がどうとかではなく、私の中での傾向です。では砕いていきます。

そもそも作られたプライドとは何か、気付いたらできてたプライドとはなんぞやってとこですよね。まあ差は結構簡単で、「こうしよう」って決めたことに拘ることが作られたプライド、なんかこうしたいっていうことに拘るのが気付いたら出来てたプライドです。

書いてて思いましたがこれでもピンとこないですね笑 では簡単な一例を出すと、ある1つのボールペンで勉強する人が2人います。一方の人はなんとなくそれを使い続けてるのに対して、一方はなんかの願掛けとしてそれを使い切るまで使い続けると思っている。そして、2人ともなんとなく筆箱から1つの筆記具を出すときはそのボールペンを用いる。

結構こういう人いるんじゃないでしょうか? なんとなくこの道具を使い続けたいと思ってる人みたいな。別にそれ自体は悪くはないんですが、そこに意図があるかないかが、作られたこだわりやプライドとそうでないものの違いです。

この意図の有無は私として大きな差があると思っていて、意図がある場合その意図にそぐわない場合にはそのこだわりを無視して行動できる。対して、意図がない場合はただこだわりがあるだけだから、なんとなくそれに固執してしまう。

人間は変化を嫌います。だから、こだわりがあればそれに従ってしまう。でも、そのこだわりに意図があれば、「あ、これは意図に反するな」と思い理由をつけて変化を起こすことが出来る。

つまり何が言いたいかと言えば、作られたこだわりは汎用性が聞きやすい。また作るタイミングで意図やルールを自分で作れるため、あとあとのことを想像すれば生きづらくなくむしろ楽が出来る設定にすることが出来るってことです。

対して、気付いたら出来ていたこだわりというのはそこには何もない。だから、それに抗うことも難しく変えることも難しい。抗うことや変えることに値する理由がないからですね。なので、弊害がでやすい。

だから、プライドやこだわりを持つ際には、それを正当化するちゃんとした意図を持って作った方が、おいおい弊害が出にくいのではという話です。

しかし、これは非常に難しい話であり、決して気付いたら出来てたプライドが悪いわけではない。気付いたら出来てたプライドはもはや自分を象徴する1部分であり、アイデンティティと言える個性とも言えるでしょう。それのせいで出た負の感情を、そのプライドのせいにするのは自己否定である危険ともいえる。

またその個性ともいえるプライドは幼少期に親や教師が良い物だと思って使わせてくれたものとも考えられて、それに無思考で従うことはロスがなくてかつ失敗にしにくいともいえる。

私が言いたいのは、これからこだわりやプライドになっていくのかもしれないことには意図や理由を設ける。別にこれまでのことはこだわりやプライドはまあ否定するほどではないかなと思います。

だめだ、なんかかつてないほどに文章がまとまらない笑

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:はっしー

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