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「好き」の反対は「嫌い」じゃない、でも「無関心」でもない

そういう理想論は嫌いって言う話。

なんか凄い思わせぶりな作品とかで、なにかに嫌われているキャラクターをこうやって励ましませんか?

「『好き』の反対は『嫌い』じゃない、『無関心』だ。嫌いだということは意識されていること。無関心よりいいじゃないか?」

こういう類のセリフ。私は嫌いなんですよねー、こういう言い回しは……笑

さてさて掘り下げますか

なんかたまにあるこういう理論を私は絶対値理論って勝手に呼んでるんですが、わかってくれる人いませんか?

数学の絶対値は、数字の横に縦棒を1つずつ足して表記して、そこにはプラスやマイナスはなくて、大きさのみがある。ある意味で、ベクトルをスカラーに変換しているともいえるのかもしれないですが、そういうことです。

「好き」も「嫌い」も感情がそこには伴っている、つまり感情という因子がプラスマイナスに限らず乗っているから、好きの反対は嫌いではない。0つまりは無関心なんだっていう考え方なんでしょうね。

意味が不明じゃないですか? 0と1は反対の関係なんですかね? 確かに好きの反対は嫌いじゃない。ただ0と1は反対の関係にあるんでしょうか?

じゃあ次に、0と1を「ある」と「なし」に置き換えます。言わば、そこに感情があるかないかですね。さて、ここで反対になっているように思えますが、じゃあ「めっちゃ好き」の反対と「少し好き」の反対は両方とも一緒で無関心ということでいいのでしょうか?

0と1が反対関係で、0と100も反対関係。じゃあ、1と100の関係はどうなるんでしょうか? まあ数字の考え方を文学的な表現に持ち込んでいるから起きる誤認であるとは思うんですが、やっぱり直感的に理解できません。

まあ何が言いたいかと言えば、「『好き』の反対は『嫌い』じゃない、『無関心』だ」という理論は気休めということです。だからどうなの? という話なんですね。

だって、「無関心」だったら自分に害にも益にもならないけど、「嫌い」は害になりうるべきで。利害という意味では「好き」と「嫌い」は逆とも言えるかもしれないレベルですね。

また考え方を変えれば、「嫌い」の方が挽回のチャンスがあるという考え方も出来ます。テレビとか今ならYouTubeとかを考えてればわかりやすいんですが、嫌いな人(アンチ)は攻撃や批判をするためにその対象の動画を見る。対して無関心な人は見もしない。となれば、見てもらえる機会がある嫌いな人の方が好きな人(ファン)になる可能性がある。これが、無関心が好きの逆理論の立証でもあるかもしれないですね。

それはそうかもしれないけど、嫌いな人にはそう思うに足る理由、場合によっては先入観があるわけで、それを取り去る作業またそれを転換する作業をしないとファンになってくれない。対して、無関心は白いキャンバスなわけでそういう作業なくてファンになりうる。

まあここまで長ったらしく書いたうえで言いたいことは実際は単純で、タイトル通り、
「『好き』の反対は『嫌い』じゃない、でも『無関心』でもない」
ということなんですね。

じゃあ、君(著者)は「好き」の反対はなんだと思ってるのか? これは知識(対義語)としてではなく、思考としての話ですが、そもそも「好き」に反対など存在しないというの考えです。

何かに対して、2つのパラメータを持っていて、そのパラメータは「好き」と「嫌い」で、「好き」のパラメータが大きければ「好き」で、嫌いなパラメータのほうが大きければ「嫌い」で、どちらも同じくらいなら「どちらでもない」で、どちらもほとんどなければ「無関心」なだけ。

まとめ

人が言う漠然とした好きと嫌いは「好き」と「嫌い」のパラメータを相互に比べて全体的に考えたやんわりな「状態」にすぎない。その状態は他にも「無関心」だったり「好きでも嫌いでもない」だったりもあるし、もちろん「ちょっと好き」とか「かなり嫌い」だってある。

ここで大事なのは人が言うそれらが「状態」であることと同時に、好きな人にも嫌いな部分があること、その逆があることです。

どんなにファンであっても、どんなに親友であっても、嫌いな部分がないはずがない。ないんだったら正しく評価していないか全部を見ていないだけ、だと思います。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:yokohama

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