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子供を楔に使うな

2017/7/12 過去投稿

たまにかなり限定的なシチュエーションに論議を重ねたいって言う話。

某映画のシチュエーションで、こんなのがありました。

両親は若くして結婚。理由は授かり婚と宗教上の理由。そのために、相手に対する愛は薄く2人の間にあった子供だけが夫婦を繋ぐ楔だった。愛が薄いなりに夫婦の営みがあって、子供は三人なった。一番下の子供が高校生になり、家族全員がそれなりの大人になった時に父親の失業と母親の浮気が理由に家族は崩壊する。

正直、よくあるシチュエーションですね。今回はこれに着目したい。なぜこんなことが起きるのか。そして、それが起こりやすい環境とは。という話に持ち込もう。

タイトルに書いたように、夫婦が繋がっていたのは幼い子の「子育て」という夫婦間の協力が必要な仕事があるから二人はあんまり相手を思っていないのに、一緒にいれたのだ。子供を媒介して相手への愛を感じることもできたのだろう。ただ放任でよくなれば、それがなくなり相手への希薄な思いが浮き彫りになる。

では、「子育て」だけがこの関係を持続させてしまった原因なのか? 実はそうではない。ここにあるのは実は人間の惰性という本質である。人間は大きな変化を嫌う。家族がいて、生活が安定していればベストな解答じゃなくても、ベターな解答として安定させようとする。

裏を取ろう。まずはこのシチュエーションになるまでの過程だ。まず、二人に子ができたということはそこには「性行為」が存在する。しかし、性行為とは子作りの手法であると同時に、性的快楽を得るための手法でもある。つまりは彼らはどちらを目的にしたのか? はっきり言って後者だろう。世界的にも見て、結婚した状態での子作りの方が、国から援助を受けやすい。それをしなかったのはきっと後者であるから。

また若く結婚した→例えば大学生の時ないしは大学卒後すぐに、とすれば、四六時中一緒にいる事つまり結婚生活、忙しすぎる子供の世話が生む相手へのブラインド。それを理解しているほど人生を経験しているのか? となる。

いわば私は若気の至りによって、このシチュエーションは始まったのだと思う。

では次にこのシチュエーションがしばらくの間、続いてしまったことについて考察しよう。

先ほど書いたように、世話が必要な幼い子がいると、その子の子育てがミスディレクションとなり相手をみなくなる。自分が本当に相手が好きかどうかを判断しなくなる。

また同時に継続した原因は先ほど書いたような変化を嫌う人間の性と、収入の安定だろう。基本、このようなシチュエーションが低取得者で起こりかけると、子を堕ろしたり夫が逃げたりする。ある程度の取得者であるがゆえに倫理観や宗教観がしっかりしていれば、子を殺すという選択はなく生まれてきても育てるほどの余裕がある。

最後にはなるが、このシチュエーションが始まりと継続を話したのだから、終わりについても話そう。

簡単に済ませようと思えば、夫の失業や妻の浮気だ。と言えるが、ここにも裏がある。失業しても復職をすぐにしようとしないのは、子供はもう育てる必要がなく、養うべきは夫婦だけになり愛がない妻に対してやる気が起きず、妻も復職がいつでもできる(家事や子育ての軽減による)からである。また、逆も然りで、夫に頼らずとも子は育つし、夫への執着がなくなったから他への走ったと考えられる。

これが私の考察の概要である。私がここで話したいのは、この話がどうこうではない、実は。この話の要旨はじつはナニカが継続することには意味や原因があるということだ。今回の話で出てきた2つについて言及しようではないか。

①出来事のミスディレクション

同じ系列の複数の批判されうる事実に対して、最も反感が強い方が批判され他は批判されない。また、もしもその強い事実が消えると、次に強い批判されうる事実が批判される。

比喩的に言えば、大きな問題の裏に隠れる、他の問題ということでしょうか? 私の高校時代の話をさせてもらうならば、部活をサボりつくしていて、行事ごとにも毎回家族の危篤を理由に欠席する人の裏に、練習は来るのに自分の出ない行事は病院を理由に休みまくる人が隠れる。といったことがありました。

厄介なのは実は隠れてる側には罪の意識がないことが多いことです。自分よりも悪い人間を見て、それよりはましだと思うことで、自分の罪悪感を薄くする。また自分の悪を指摘されそうになると、その巨悪の指摘をすることで常に逃げ道があるというのも特色である。

②安定への執着と変化への怠惰

人間の安定意識を利用した一種の依存と変化を食わず嫌いする特性の産物である。自分の問題への意識改善の阻害をするため、私のような考えるタイプの人間にはすごく邪魔な意識である。

変化には順応が必要であり、その順応にはエネルギーを多分に使う。対して、現環境での問題対処は処理方法さえ知っていれば、特に問題なくある程度のエネルギー使用でいつも通り処理できる。

これだけ聞けば、「大きなストレス1回」と「小さなストレス複数回」の天秤で、どちらを選ぶかで後者を選ぶ人が多い。のように聞こえるが、ここには大きな差がある。医療系のワードを用いるならば、前者は原因療法。後者は対処療法といえる。(※医療系のワードといったが、実際にこのような言葉はないらしい)

後者の対処療法は原因が勝手に除去される。つまりは風邪などの身体の免疫システムが自分が何もしなくてもなおしてくれる場合に使われるわけだが、今回のケースのように表面的に生じる歪を一旦処理しても、原因がある限りはそれが消えることはなく、いつか大きな病みとしてなる場合はどう考えても、前者である原因療法が必要である。

決して、現状維持が悪いわけでは無い。大事なのはその問題はほっぽいて置いて、勝手に消えるものなのか? それとも治す必要があるのか? そこを分析する必要がある。

では最後に応用の話をしたいと思う。これら2つは認識することで使えるようになる。本ブログではよく「認識する」ことへの重要性を説いているつもりだが、これもそうである。

例えば、Aというサボり魔が仕事場いるとしよう。その時に無意識にミスディレクションしている同僚BがいてBは上司に文句を言われていない。とすれば、B程度に頑張れば文句は言われないということになり、自身もミスディレクションを使って楽ができる。

※実際はBが上司に印象が良くて、過保護されているなど他の要素を考える必要がある。

ミスディレクションによって、自分の仕事を少なくしても責められなくしたり、人の現状への執着心を利用して、物や人に依存させて自分はそこを出し抜くなど応用はいくらでも可能である。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:梅

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