見出し画像

いろいろ考えたけど、人を器に例えるのは良い比喩だと思う

人間とは○○だ、っていう話をしたくなったけど結局月並みになった話。

古代ギリシア人の哲学者たちは万物とは○○から出来ているみたいなことを言いました。水だったり数だったり炎だったりいろいろあった気がします。人間もまた色んなものに例えられますが、最近いろいろ考えたら、「器」に例えるのがいいなーって思いました。

前後の流れは忘れましたが、漫画の「仁」という作品がドラマ化されて、その時に主人公の南方先生が「あなたの器は大きくはないが、美しいのでしょう」と言われるシーンがあった気がします。私はずばりここからパク……着想を得ました。

人間を器として考え、単純なパラメータで評価したときに、美しさと大きさの2つのベクトルで計る、がこの考えの根底にあると私は思います。(まあそういうセリフですしね)

ただ大きさはわかります。受け止めることができる物事のサイズといいますか、俗にいうデッカイ人間はきっとおおらかな人なのかなって思います。じゃあ、美しさとは一体なんなのでしょうか?

美しさとは恐らく完成された思考・美学を持っているということなのではないしょうか? 器の大きさと同様に、しっかりとした思考や美学を持つ人間は求心力を持ちます。人を魅了し愛される。

つまりはこの例えでの「器」とは「人間の魅力」を例えているのでしょう。

つまり、この理論で行けば、美しく大きな器のような人間になる、しっかりしていておおらかな心を持つ、それが一番の理想ということでしょうか?

うーん、簡潔でいい比喩ですね。私も美しく大きな器を持った人間になりたい……

ということで、今日の記事はここで終わりになります

とはなりません。私はこの理論に石を投げたいです。私は大きな器を手に入れたいとは思いますが、美しい器には全く持って憧れません。いや、正しくは自身が完成された美しい器になった瞬間にその人間の魅力は打ち止めになってしまう気がする。

本当の美しさとはなんなのでしょうか? そこに私は完成しない器こそ、無限に広がり続け、無限に絵柄が足されていく、そんな器こそが、最も美しく器だと思います。

南方先生は迷いながらも良い人柄で魅力のある人物のように感じましたが、私はこの迷い続ける、考え続けることこそが本当の美しさがある、と思うのです。

自分の器を形成していく上で、コンセプトは重要だ。平皿にするのか丸皿にするのか、はたまた茶碗か湯のみか。材質を木にするのか陶器にするのか、ガラスもいいですし、現代ぽくプラスチックもいいかもしれない。そうやって悩んでコンセプトを決めることは重要だけど、自分の器を完成することだけは避けなくてはいけないことなんだと思います。

皆さんはどんな器になりたいでしょうか? 私は、ろくろの上で回り続け、色んな人の手に触れてもらい、完成しなくとも回り広がり続けるそんな器でありたいです。

一応、言うと器は一人一つずつとは限らないので、複数持つことも出来るんだと思います。ただそれは全力で避けた方が良いと思います。器は複数持つということは、人と複数持つということ、それは……。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:異郷訪問譚みたいな世界観が好きなのでそんなの

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?