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「あばた」が「えくぼ」に見えたら終わり
「えくぼ」に見える「あばた」を愛するのと、「あばた」を愛するのは違うっていう話。
そういえば、そもそも論、「痘痕(アバタ)も靨(エクボ)」という諺(?)はご存知ですか? 最近ではあんまり聞かない言葉な気がします。痘痕とはかつて世界的に流行した天然痘という病気の症状が改善した後に、残る皮膚の後遺症で、皮膚が陥没したように見えるようです。靨はそのままで笑ったときに出来る顔のしわですね。
意味は単純で、アバタもエクボ、つまりは人の欠点さえもよく見えてくる。主には、恋する人に対して使われる人で、恋焦がれる人の欠点さえもよく見えてくるみたいな時に使われますね。若干のニュアンスは違いますが、最近では「恋は盲目」みたいな感じで使うことが出来るような気がします(厳密にはかなり違いますが)。
さて、最初に戻りましょう。アバタがエクボに見えたら終わりと書きましたが、この状態になるとかなり危険であるサインだと私は思います。アバタがエクボに見えるというのは現実逃避とも異なり、現実改変または事実誤認という状態です。
見えているのに別の姿に映っているとも言えて、いわば一種の催眠または幻覚状態にあると言っても過言ではないと思います。
ここで「恋は盲目」という状態との違いを書くと、盲目はその名の通り目が見えない。いわば、そもそも誤認する事実を目の当たりにしていない。
無意識下で見ないようにすることで事実を見ないようにする「恋は盲目」と意識下で見ているのにも関わらず事実を誤認する「アバタもエクボ」は自分で似ているとは書いた物の大きく異なります。
具体的に何が違うかを考えればわかるのですが、盲目状態なら見るように促せば改善する可能性があるが、アバタもエクボ状態はそれもなく見たところで何も変わらない(だって、すでに見ているのだから)
でも、決して好きな人物のアバタを好きになるな、と言っている訳ではありません。何が重要なのかと言えば、事実を正確に把握したうえで感情に整理をつけることです。
「アバタがエクボに見えるから好き」ではなく、「アバタはアバタであるがそんなアバタも好きである」と思うことが大事なわけです。
どんなに仕事が出来てどんなにイケメンでも、女性関係がズタボロな人もいる。そんな時にズタボロな部分を見ない様にしたり(恋は盲目)、ズタボロな部分を良い部分と錯覚したり(痘痕も靨)とするのは自分に嘘をつく行為であり、のちのちに辛くなる。
またそういう欠点を欠点のまま受け入れることが出来る(好きと言うレベルにならなくても)、そういうことがもしかしたら真の「好意」なのかもしれないと私は思います。
皆さんは自分の家族・友人・恋人のアバタを見ていますか? もしも見ているならそれをエクボとして捉えていませんか? 欠点を愛することは決して間違ったことではない。欠点を愛することでそこを補ったり修正したりなどのその人をより活かすことが出来る。またリアリストなことを言えば、愛する点がダメになった時に無情に切り捨てることが出来るため、自分の人生のロスも少なくて済む。
現実をありのままで捉えてから、そこに自分の感情が乗る、って言う順番を大事することを心がけることを推奨します。
はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。
写真:異郷訪問譚、ヴィーナスフォート
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