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死にたいってなんだろうか

過去投稿:2018/6/17

言葉の重みって時代とともに変わりゆくものなんだねって話。

今回は元自殺志願者・樟木ジュウさん監修。

言葉の重みとは書きましたが、今回は実のところ、「死にたい」という言葉についてです。

昔(幼少期)は「死にたい」なんて言葉を聴くのは非日常的で、誰かが発したのなら親も教員も総動員でバックアップしていました。しかし、いつからでしょうか? 「死にたい」という言葉が重みを失ったのは、辛いことや悲しいことがあったり、そもそも何もなくてつまらないことが続いたりしただけで、人は「死にたい」という言葉を発するようになりました。

では、幼少期の「死にたい」とその後の「死にたい」にはどんな違いがあるのでしょうか?

幼少期の「死にたい」は……正しくは本当の「死にたい」とはどんなものなんでしょうか?

答えは文字通りに「死にたい」のでしょう。死を願う思いが如実に表れている。実際、こちらの「死にたい」は単純ですので、もう一つの「死にたい」を引き合いにあとで解説します。

ではもう一つの「死にたい」の意味はなんでしょうか?

もはや感嘆句に近いです。疲れた・辛い・悲しい・つまんない、それらを網羅的に持っている。嬉しすぎる時に「死にたい」と口にする人もいるので、感覚としては「ヤバイ」という言葉に近いですね。幼少期は感受性が豊かに毎日が楽しいことが多いため、こんな言葉を口にしないため大いに心配されますが、現代の成人が放つ「死にたい」は本当は「死にたい」とは思っていないため、重みがありません。

では、なぜそう私は思うのでしょうか? (正しくは多くの一般人も同様に「死にたい」を本気にしないのはなぜでしょうか?)

もっと言えば、「本当に死にたい人」はどんなことをするのでしょうか?

現代人は「死」に対して謎の憧れを抱いています。どこかで人々は「死」を解放と考えている節があります。つまらない・悲しい・辛い、そんな生からの解放こそが「死」だと思っています。日本人は特に「死」を無ととらえている人や「天国」と考えている人が多くいるように思います。世界的に見ても、地獄という考えもありますが、割と死んだ後はハッピー系か無系が多いように思います。つまりは、死ねば今のそんな負の生からの脱却だと思っているのです。

つまりは現代人の「死にたい」≒「(現状から)逃げたい」と同義と思っています。では、簡単な鑑別をしましょうか? 「本当の死にたい」と「逃避を意味する死にたい」の違いはなんでしょうか?

そこは実際に自殺を考えた人の意見を採択しながら考えていきたい。

実際は複雑に絡まっていて難しいですが、簡易的に「死にたい」っていう言葉を4つのレベルで考えていきましょう。

①ファッション死にたい

②苦しい死にたい

③余裕のある死にたい

④本当に死にたい

と分けてみます。では、①から順番に、もちろん下に行くほど重篤です。

①の「ファッション死にたい」はその名の通り、ファッションです。みんなに心配されたいから、別にこれっぽっちも死にたいなんて思っちゃいないけど言うセリフです。まあぶりっ子がTwitterに「辛い……しにたいお……」って呟いて、取り巻き男が「大丈夫、俺が付いてるよ!」みたいな時の死にたいです。対して心配しなくて大丈夫です。死への思いは低く、心配されるという事象に憧れているタイプです。このタイプの人は直近で自殺はしません。

②の「苦しい死にたい」は先ほど話したタイプに最も近い「死にたい」です。辛いことや悲しいことがあって、死にたくなる。つまらないことや恥ずかしいことがあって、死にたくなる。それをなんとなく口から零してみた程度です。確かに一過性に(一瞬は)「死にたい」とは本気で思っていますが、時間が経てば・事柄が過ぎたり解決したりすれば、自ずと回復します。もちろん、人の助けがあった方がいい時もありますが、こちらの例も自殺はしません。

③の「余裕のある死にたい」は④に比べて大事余裕があるという意味です。辛いことや悲しいことが重なったり、楽しいと思えることが無かったりすると思う人が多く、割と重度ですが、まあ自殺はしません。このタイプの「死にたい」は自殺方法を具体的にするようになります。「どこで」「いつ」「どのように」死ぬのか等の方法論を検討し始めるが、まだまだ余裕です。②よりは長いですが、所詮は一過性です、自殺しません。理由はあとで書きます。

④の「本当に死にたい」はマジでやばいです。もしも友人でこのタイプがいるなら、誰かが助ける又はその人の変化が起きないと、あと一年以内に死ぬことになります。傾向として、自暴的で自虐的、そして、死に対して具体的な案を挙げるのは③と同様ですが、もはや方法論なんて考えていません。どれだけ早く死ぬかに執着しており、唯一死なない理由は「人に迷惑をいかにかけないか?」です。こちらも解説はしていきます。

①と②は重篤度が低く、そのままで特に問題がないので、③と④の違いに焦点を置いて話していきましょう。

③と④は繋がっていますが、大きな差があります。人とは良くできた生物で、「死にたい」と思うような経験をして、「死にたい」と実際に口にしても、一般に他のナニカのせいにします、現実にはそうであってもそうでなくても。

運・タイミング・相手・仲間・敵・家族・時代……それは多岐にわたります。

なので、①~③のタイプではどこかで、これらのせいにしています。但し、④だけは違う。例外はありますが、④だけはその経験を「自分自身」のせいにします。

④のように自分自身のせいにすると、何がまずいかと言うと、逃げ道がないのです。自分が悪いければ、自分を改善する必要がある。だったら、問題は外には出て行かないため、ふさぎ込んで他人とかかわることをやめて、勝手に死に向かっています。何が言いたいか? 本当に死にたい人物とは、ひっそりと消えていくもので、誰とも連絡を取らなくなる・趣味やストレス発散法をやっている様子がない、などが上がってくるとまあやばいです。彼らの発想は「どーせ死ぬんだから」で終わっていて、人との関りも意味がない・別に溜まるストレスも止めなくていい、と思うため、行動は単調になりどれだけ早くそれだけ人に迷惑をかけずに死ぬか、のみが思考の中心になります。

対して、③はだいたいが割と死ぬ理由をナニカのせいにしています。アイツでのせいで、今の時代が、そんな風に考えている余裕があるやつは死にません。死に方を具体的に考える? そんな暇は④の人にはない。死に方に拘る余裕もないのが④です。③の人は精神的に弱い人がなる傾向が強いです。精神が弱い人間は自分自身で弱いため、人に依存している節が強い。つまりは本能的に依存、つまり他のナニカに頼る、他のナニカのせいにする人が多いから、③の「死にたい」で止まることが多いです。

正直に言うと、全ての「死にたい」は心配してもいいと思います。但し、無駄になる「死にたい」への心配が多すぎる。本当に案ずるべきは④の死にたいです。全ての人からの連絡が段々と取れなくなり、趣味やストレス発散をしている様子がない。本当にまずい兆候です。④の状態だったと思われる人はそのような兆候が見られ、強迫性障害のような症状になり、「すべてのモノが自分を殺す道具に見えて、実際にそれで自殺している様子が頭に流れる」と言っていました。

もしもそんな人があなたの近しい人物だったら、全力で助けてあげてください!

助け方は試行回数の多さが大事(自分自身のせいだと思ってしまうたびにする)で、具体的にその人が自分のせいにしている事柄を他のナニカのせいするように誘導することです。そうしてあげれば、③の人と同様な状態に持ち込めて、いつかはまた元気なその人に戻れる可能性があります。

大切な人を守るために、またはいらぬ心配をかけてくる心配をかけてくる知り合いを人生から減らすために、「死にたい」を見極めることは大事だと思います。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:多分熱帯魚

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