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死んだらどうなるの?

たまにはありきたりなテーマについて考察してみようと思う話。

たまに思うことだが、毎日のようにnoteに投稿する人ってどんな人なんだろうか? まあある程度の暇がある人か、暇な時間を作るのが上手い人か、いやどちらにせよ、文章を書くことが好きか、文章を書くことが金になる人なんだと思う。

だから、noteを毎日のように書く人は直感的には「暇な文系大学生」みたいなイメージだ。だって、実業家などの本業がある人なら、毎日は難しいだろうし、毎日投稿してる人でnoteでお金を稼いでいるとかなら毎日だが、私のように意味のない文章を毎日のように垂れ流している人は違う、それとは違うだろうし、私のスタイルなら「暇な文系大学生」というがやっぱりピンと来る気がする。

では、実際の私はどうなのだろうか?

私は腐れ理系と言われても仕方がないほどの理系である。私の経歴を聴けば、100人中95人は文系or理系の質問ならば、理系と答えるだろう、という感じである。実際、理系である自覚もある。また同年代の人からすれば、忙しい分類である(自称)。いわば実情は、私こと希哲学者は「小忙しい理系人間」っていうとこだ。

さて、こんな枕を書いたことは単純で、そんな理系人間は「死後」についてどう思っているかである。

まず、死後の世界というものは立証が現時点では不可能であり、存在するかはわからない。しかし、存在しないとは考えていない。私は思うに、理系であるならば、証明が出来ていないものは保留(証明がまだ出来ていない)と処理するべきだと思っている。

率直に言えば、「死後の世界は否定も肯定もしない」。あるという証明が客観的にはできないし、ないという証明なんて正に「悪魔の証明」だ、私がわかるはずがない。

でも、私は死後の世界はあると思って生きていたりする。理由はロマンであるから。あるかないかわからないなら、「あると仮定して生きる」、それが私の好みのスタイルである。

理系も文系もアプローチは違うことがあっても、その根本は学問であり同じであると思う。結局は、先人たちの色んな情熱があったからこそ、紡ぎ発展してきたと思う。死後の世界があるという情熱を持って生きるのも良い、死後の世界なんてないという情熱も悪くない。私は単に「ある!」と思った方が楽しいかなっていうだけである。

では、「死後の世界がある」とおもったら何がお得なのだろうか?

私ははっきり言って実益的な部分はないと思う。人生がここで終わるわけではないと思うのは良いのかもしれないが、これの発想に引っ張られ過ぎると、「死んでから○○すればいいや」っていう発想も生まれかねない。だから、私は死んでからも楽しみがあるが、「死んでからの楽しみ」と「今生きている時の楽しみ」は性状が異なっていて交わることはないと考えるようにしている。

今目の前の日常、明日起きること、きっとそれは生きているか死んでいるかで楽しみが違う。日本に入れば東京スカイツリーを登れるが、オーストラリアのエアーズロックは見ることが出来ない。生きていている場所と死んでいている場所はきっと異なるのかもしれない。

正直な話をすれば、これらの定義は死後の世界があると仮定したうえで、死後の世界と現世をうまく説明するための後付けにすぎない。ただそれが仮説として実証されて一般常識になることもかつてはあっただから、ロマンがあると思う。

私は生きていて楽しいことがたっくさんあると思っている。だから、それらを楽しめる体と頭と心で、なるだけ長く生きたいと思って、同時に死を恐れている。しかし、死が実際に来たら、今度は死後の世界にチェックリストを持ち込もう。それが私の死後に対する考えだ。

ちなみに色んな宗教や伝承が死後の世界について語っているが、私は信じていない。理由は単純で死後の世界のイメージがあまりにも現世の延長線上だからだ。もしも現世と死後の世界が隔絶されているとするなら、きっと全く異なる世界で、死人にしか想像できないのでは? と思っている。

……なんかスピリチュアルなテーマになってしまったな。ちなみに私は同様の理由で、幽霊もツチノコもネッシーもUFOも全部いると思っている。理由は単純、そう思いたいから。確信はないし証明も出来ていない、ただいるかいないかじゃ、いる方がロマンがあるからいると思っていたい。

私は常々思っている。事実の正しい認識は重要である。しかし、それとは別に心情的な部分は存在するべきだと思う。目の前のリアルを正しく認識したうえで、自分がどうありたいか夢見るのが、人間の「すべきこと」と人間の「あるべき姿」なんだと思います。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:ウミウ(海鵜)

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