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発達性障害を個性として認識するのは良いことなのかな?

救いなのか甘えなのか無情なのか、よくわからない話。

皆さんはADHDっていうモノをご存知でしょうか?
もう結構知られている単語じゃないでしょうか?

一応、簡単に説明すると発達性障害の一種であり、注意欠如・多動症とうものであり、注意欠陥・多動性・衝動性などが出現するものです。俗に言う落ち着きがない人と呼ばれてきた人々がこれに該当していたのかもしれません。

最近はこのADHDも含めてですが、これまで病気と判断されていたものを一種の個性として捉えようと考える思想が流布している気がします。
ADHD以外だと、同じ発達性障害としては自閉症や学習障害、他だと色覚異常を色覚多様性と呼ぶようになったことなどですかね。
今回はその社会構造に疑問を投げつける記事になります。

この記事のきっかけとしては、私の知り合いで俗に言う「空気が読めない人間」がいて、その彼が空気をしらけさせちゃったときに、彼自身が「ASD(自閉スペクトラム障害)特性が出てしまった」と発言していたことに起因します。

さて、私が思ったのは「この発言っていいのかな」ってことです。

人は皆、多かれ少なかれ特性や個性を持っています。いわゆる得手不得手ってやつですよね。得意なこともあれば苦手なこともある。
じゃあ、先ほどの彼ならASDでコミュニケーション能力に少し苦手な部分がある。じゃあ、コミュニケーションが苦手な人間として、そういう個性として受け入れましょう。

いいですね! いい社会構造です。
とは私は思いません。正しくはここから一歩進めると突然、暗雲が立ち込めてくる気がする。

得手不得手というものは、確かにすべての人々にあります。ただ得意な部分を伸ばして、苦手な部分を克服するのって全ての人間がやっていることではありませんか?
大事なのは後半部分(「苦手な部分を克服」)なので、そこを補足すると、苦手だけどそこが弱点ならないように頑張るということです。受験とかだとわかりやすいんですが、英語が苦手で数学が得意。英語で足を引っ張らない様に苦手を普通レベルに努力して持ち上げる。そんな感じです。

何が言いたいのかわかりにくいですね。
端的に言えば、「個性として認める」ということは「努力をして克服する」ということの強要なんじゃないかなって思うんです。

皆さんは病気で肺が弱くて長く走れない人と単純に持久力がなくて長く走れない健康な人が居た際に、前者は簡単に受け入れられますが後者は練習すればいいじゃないかなって思いませんか?

何かに対して障害があることを個性とするなら、それをコントロールするすべを努力をして身に着ける責任が付きまとう。
ADHDの人なら注意障害が出現してもリカバリーが効くようにあらかじめ用意しておいたり、ASDの人なら他人の感情を他の人より理論的に感じ取る方法を学んだりする必要が出てくる。

病気と言う偏見を外して、個性として見ましょうというのは一見綺麗な文字列に見えてそうではない。

病気・障害を努力して克服した人からすれば、自分のソレを「病気・障害」として見られたくなくて、個性として見て欲しいと思うのかもしれないですが、そうでない人はどうでしょうか? どうしてもクリアできないそれを「個性」とされて、克服するために努力を積まないといけなくなるのは辛くはないんでしょうか……。

また逆に自分の障害を周りに「個性」だからしょうがないよねと、押し付けるのも間違っている。

個性として受け入れることは「救い」なんでしょうか? 「甘え」なんでしょうか? はたまた「無情」なんでしょうか?

実は「障害」や「病気」とされてきた「ソレら(偏見など)」は悪いモノではなく、ソレらをもってしまった人々を守ってきた良いモノだった可能性はあるんじゃないでしょうか?

私にはずっとわからないですね。わかるときが来て欲しい。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:山

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