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サンドバックが偉いとは私は思わない

2017/7/24 過去投稿

先日、お仕事中に思ったことでも話そうかなって思った話。

学生時代もよく思いましたが、教育のとある考えは昔から間違っているな―って思います。それは「我慢」の美化です。

「我慢とは良いもの!」というのは間違いです。大事なのは「我慢」とはするべき時に出来ると偉い。または我慢した方が良い時に我慢できるのが偉いのです。

多分、ピンと来ない人が多いと思うので、先日の話について話そうと思います。居残り作業中の時に話し相手がしてきた話なのですが、

彼はあるチームでの作業中に方針をたがえた先輩に気が付いていたが、その先輩の自尊心を傷つけないように気を使ってそれを言わないように我慢したそうです。でも、結局は方針をたがえている訳だから、仕事は失敗した。で、自分も失敗の責任の一部を負うことになった、という話でした。

この話を聞いたときに、とある相談を思い出しました。それはあるカップルの痴話喧嘩だったんですが、

別れる一歩手前でなぜか安定しているカップルがいて、簡単に言えば、彼女が我が儘すぎて面倒で、それを彼氏側はひたすら我慢している。でも、何か大きな別れるようなきっかけもなければ、仕事の付き合いの兼ね合いで、別れるとその後気まずい。という話でした。

この二つの話の共通点はもちろん、この記事の本旨である我慢です。二つの例は、我慢が生み出した失敗です。では軽くですが、それぞれの我慢について掘り下げて行きましょう。

1つ目の仕事の話は、流れとして、チームができる→仕事の方針を先輩が間違える→私の仕事仲間はそれに気付くが何も言わない→仕事は失敗に終わる→先輩はもちろんチーム全体が責任を取る。端的に言えば、自己主張を我慢したが故の失敗です。私が思うに、これはむしろ我慢ではなく、怠慢なような気がします。言葉とは厄介なもので、常に言い換えが存在する。これは口を出すことで先輩からの印象を悪くするかもしれないとか、言うこと自体が面倒くさいなどという理由をつけた怠慢です。

2つ目の恋人の話はもtっと構図は簡単です。私の友人とその恋人しか出てこないわけですから。自分にストレスを溜めているのは恋人に改善の要求ができない自分の勇気の無さで、別れられないのはその怠慢にかまけているのだったり恋人がいないという社会的負のステータスに耐えることができなかったりする自分の性格なのです。

我慢には意味がなければ、無意味です。我慢に限らず、行動するということは意味がなければ、基本意味を持ちません。この2つの例のように場合によっては、負の連鎖を引き起こすことにもつながります。我慢が有効な選択肢である場合のみ、我慢はするべきなのです。我慢は万能な行動ではない。

「我慢」自体もストレスがたまる行動であり、同時に負の連鎖を生み出すかもしれない、そんな行動である以上は我々は「我慢」という選択を取るには慎重になりうるべきです。

自分の身の回りの人間で、我慢ができない人間はいませんか? でも、そういう人間の方が慎重である自分より成功していませんか? その差は自分が慎重という言葉にかまけて「我慢」という皮をかぶった怠慢をしていて、その人物はしていない。だから、差があるのです。

では最後にちょっと変化球的な話を。人間は変化を嫌う、つまりは慎重になりやすい本質を持っています。だからこそ、「我慢」という怠慢をするのです。であるからして、それを利用することもできる。

自分が差のつけたい人物に対して、実際は怠慢なんだけど我慢のように伝えたり、「それは我慢するしかないんじゃない?」って実際に言って見せたりする。そうすれば、その人物はそれは「良い我慢」だと思い、停滞する。そうすれば、先ほどの話、自分の身の回りの我慢しない人間に自分は成れて、その人物を出し抜いて成功できる。

言葉は言葉を隠します。感情は感情を隠します。その隠しているという行為には残念ながら、自分も気付かないこともあり、無意識下で起きます。

大事なのは「状況やそして自分も分析し、行動の選択肢を明瞭化して、もっとも適した選択肢を選ぶこと」です。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:京都 伏見稲荷大社より

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