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「俺は、論破王になる!」

すべてをそこ(広辞苑の中)に置いてきたい、っていう願望の話

つくづく生きてきて、やっぱり人と話すのは楽しいなぁと最近は思うようになってきました。理由はもちろん最近のご時世で外出が制限され、日常生活で人との関わりが目に見えて減ったからですね。

そんな中で最近、2ちゃんねるの創業者として有名なひろゆき氏のことを思い出しました。彼は話術に優れていて、特に論破することに長けているという評価を目にしました。

今回はひろゆき氏とメンタリストのDaigoさん(←突然の登場)を個人的に評価しながら、彼らの話術についてひも解いてみようと思います。

※2人のファンの人はあんまりいい気持ちをしないかもしれませんがそこは批判や誹謗中傷ではなく、あくまで批評なので許してください。

まず、二人を評価する前に、私の思う話術を構成する力を3つに分類しておこうと思います。まあ話術を支える3つの柱みたいなもんです。それは、「話術」・「知識量」・「地頭」です。

それぞれについて軽く説明します。詳しい説明はお二人を評価しながら、話していきます。

まず、「話術」ですが、これは狭義の話術(次からは「狭義の話術」と表現します)です。狭義の話術はその名の通り、会話する技術の話であり、過去にも書いたような「フット・イン・ザ・ドア」や「ドア・イン・ザ・フェイス」などのような会話を優位に進める技術などを指します。

次に「知識量」ですが、これは話に説得力を持たせるために必要な知識の量、具体的には文献や社会的知識、歴史を説く知っているということです。

最後の「地頭」は最も単純で土壇場の会話の展開力や発想する力というものです。あんまりこういう表現は好きではないですが、IQであったりEQのようなもであったりと解釈してください。

では具体例である二人を絡めながら話していきます。

まずはひろゆき氏ですが、個人的には知識量が多いという印象を受けました。彼の話術は基本的には「こういう文献がある」「そのような具体例がある」のように根拠となる事実や書籍を参照しながら話す印象を受けます。

では、他の「狭義の話術」や「地頭」はどうなのか? という話ですが、「協議の話術」に関してはそこまで高い印象を受けませんでした。彼がそのような狭義の話術を備えているかどうかはわかりませんが、少なくとも知識量で充分に相手を納得させるにたるものを持っているので、狭義の話術に依存せずに話している気がします。

なので、狭義の話術については、高いのかもしれないが、生放送などの切り抜きを見た感じであると、使っていない。という印象です。

次に「地頭」についてですが、こちらも同様に高いとは言えないと考えています。これは決して高くないという意味ではなく、測りたくても測れないというのが正しい表現です。

これは「狭義の話術」の話でも「地頭」の話でも言えることですが、どちらを評価するにしてもそれらを十分に用いてる部分を見ないと評価できない。比喩するならば、1メートルの巻き尺で、1mより長い物体を計測するようなものである。1mの巻き尺で計った結果はあくまで「1mより長かった」という評価になる。

少なくとも彼が視聴者のファンの悩みに乗ったり、他の著名人を評価する際には「狭義の話術」や「地頭」を高い水準で使用していない。ということです。

ただこれは何度も言いますが、彼が「狭義の話術」や「地頭」が低いということではないです。1mの巻き尺でも1mまでは測れるのです。

具体的には、話の進め方で初めに結論を持ってきてその後根拠で肉付けしたり、それが適さないテーマの時は順序を逆にしてみたりと十分な狭義の話術を持っているように思えます。

また「地頭」についても、知識量を扱ううえで適正な知識を適正なテーマに引用するという行為が出来ている時点で、十分な「地頭」の高さがあると言えると思います。

ここで予定外ではありますが、ホリエモンさんの話をしておきます。私の主観では彼は「知識量」や「狭義の話術」は高い水準にあると思いますが、「地頭」は実はそこまでなのではと思っています。

正しくは広義の話術を扱う上での地頭が高くない。もっと言えば、時代で何が流行るかなどの風読みの地頭は高い。

理由は彼は自身の意見を展開する際に、感情が先行することが多く、明らかに話がまとまっていないときがあるからです。またなんだかんだ言って逮捕されている部分は「良いように言えば、彼の常識と法律が違えていた」と言えますが、その部分を判断する、またはその部分を任せる人材を選ぶ地頭はあんまりよくなかったのではと考察できます。

ではまた本題に戻りましょう。次はDaigoさんですが、彼は「知識量」は言わずもがな高いと思います。動画投稿サイトで披露する処世術には文献などに依拠する説得力が高く、この点はひろゆき氏の同様でしょう。

では他の2つですが、簡単な地頭の話をしましょう。実は地頭については、ひろゆき氏に対しての評価と同じです。十分だろうが、高いと言えるような水準がない。「1メートルの巻き尺で、1mより長い物体を計測するようなものである」理論ですね(今名付けました)。

ただ彼については、なんとなくですが、地頭が高くないことをコンプレックスに思っている気がします。地頭は高い方だと思うのですが、Daigoさんはどこかで自身の地頭に対して、なぜか劣等感を感じている気がします。(ここはあくまで主観的な評価です)

根拠と呼べるほどは強くはないですが、彼の話術は「地頭」以外の2つにすごくレートを置いているように思えます。言い換えれば、ほかの2つにすごく依存しているように思える。これはあくまで”なんとなく”ですが、自身への自身のなさから来るもののような気がします。(あくまで勘の域を出ないですが)

最後の「狭義の話術」ですが、先ほどサラッといったように高いと思います。特に対談形式になった際に、それは見受けられ相手を納得させる技術となによりもメンタリストだからなのか「相手の理解度を理解する」スキルが高いように思えます。

「相手の理解度を理解する」のはとても重要なスキルであり、同時に習得がとても難しいスキルだと私は考えています。

そもそも理解度の高い理解と低い理解の違いの話なんですが、理解度が低い場合にはその場では理解しても時が経ったり、その人物がいなくなったりするとわからなくなり結論は覚えているがなぜそうなったかがわからなくなります。皆さんも数学の授業中はわかったのに、家に帰って復習するときはわからなくなることはありませんか? それは理解度の低い理解です。

理解度の高い理解をしていると、同じ問題が来ても自身で答えを導き出せますし、応用も効くし、更には人にも教えることができます。

話を戻して、「相手の理解度を理解する」ことが出来れば、いろんな応用が利きます。高い理解度に達するまで相手と話せば、その人間に成長を促すことができますし、低い理解度で押しとどめれば、また自分を頼らせる(自分への依存度をあげる)ことが出来ます。

Daigoさんはそういう意味で「狭義の話術」が長けていると思います。

ここまで話して、皆さんは思ったかもしれません。「地頭」って話術にあんまり関係なくね? って。だって、話術が高いと評価した二人が、高いかどうかはわからんって言ってるやんって。(低ければ、話術に支障が出るのはなんとなくわかるけど)

うん、その通りだと思います。地頭のバロメーターは頭打ちになっていると私は思っています。正しくは頭打ちではないが、その差異がでる場面が少ない、と思います。

どんなに賢く推論しても仮説を立てても、立証された結論を知識として提示されたらその思考時間は意味はなくなります。つまり、一部の発想力や転換力に必要となる局面で使えるだけで日常生活レベルではある程度あれば十二分だと私は考えています。

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

(写真:鴨川の亀形の石)

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