能力って使う物? それとも使われる物?
過去投稿:2017/10/7
なんか生き辛さを感じる人がいるなーって話。
お久しぶりです。ネタ不足……というよりもネタを考える心の余裕がなく、休んでおりました。今日、話したいことは人間って能力を使っているのでしょうか? それとも能力に使われているのかって話です。
まず歴史から話をすすめましょうか? 歴史的な発明をした科学者たちは天才的な能力を持っています。ただ私は思うのです、そこには意思があったと。かみ砕いて言えば、「エジソンが電気の存在を信じて興味を持ったのは彼の能力にあったから」だと思うんです。別の例を言えば、「ナポレオンは統率能力があったから支配者になった」のだと思うんです。
つまりどういうことか、強すぎる能力はその能力の保有者の人生を勝手に決定する。能力がその人物の意思を侵す。ということです。
もっと庶民的な例を出しましょう。この世は雑に大別すれば、理系と文系の人がいます。理系だけど語学や社会の方が好きな人や、文系だけど理科や数学が好きな人っていますか? いるとは思いますし、遭遇もしますけど、かなりマイノリティーだと思うんです。やっぱり、理系の人々は理数系が好きで、文系の人々は語学や社会学が好きなもんだと思います。
やはり私が言いたいのを崩すと、「みんな好きだから得意になる」のではなく「みんな得意だから好きになる」。それの延長線上として、発明家は発明家になる能力があったからなり、支配者は支配者になる能力があったからなったのだと考えています。
運命という言葉で片付けるのは嫌ですが、そういうことですね! 皆、自分の意思で生きてると思いながら、生きてるかもしれませんが、実はそこには自分自身の能力が関連しているとは考えてみてはどうでしょうか? 比喩的に言えば、まるで能力が意志を持ち、自分を操っている! みたいな(笑)
では、発展させます。読者の皆様、またはその周りでそういう人はいませんか? 例えば、、、
優しくする必要がない相手に、非合理的だとわかっていながら優しくする。
考える必要がない問題に、無価値だと思いながら考え込む。
観察する必要がない事象に、不格好だと気付きながらも観察する。
それらはもしかしたら、あなたはまたはその人物が
誰にでも優しくできる能力があるから
どんなことにも深く考える能力があるから
些細なことでも観察する能力があるから
かもしれません。
能力が先行し、まるでそれが意志を持ったかのように人を操る。自分ではどこかその行動に必要がないとわかっていながらしてしまう。それは能力があるからかもしれません。
但し、強い能力、他の誰かが持たない能力を持っているということは他人に理解されない悩みを抱えることにします。
「そんなに優しくする必要ないじゃん!」「お前、考えすぎじゃね?」「そんなこと、誰も気にしないでしょ(笑)」
そんな風に言われたり、または言ったりしていませんか? 能力あるあなたやあなたの友人の悩み事は基本同系統の能力を持つ人物にしか理解できませんし、同系統でも100%の理解は期待できません。
ただ、そういう皆さん、全員にできるアドバイスがあります。
「まずは冷静に自分に能力があると理解し、それがどんなものなのか明確化させて、コントロールする努力をする」
これをした方がいいと思います! よのなかには自分の強い能力に押し続されてしまう人が多く、自分の優れた力を扱えないがゆえに封印し、宝の持ち腐れになる人が多いです。
『優れた力を暴走されたままにするな、優れた力を封印するな、扱え、そしてより高みへ。あなたはそういう運命にあるのだから』
……なんてちょっと中二病ちっくに言ってみたり(笑) ただ思うんです、そういう力をコントロールできれば、そういう人物は一気に伸びて社会のために役に立つと。
過大評価はダメです、ただ過小評価はもっとダメです! 自分を知って自分の力を活かしてより楽しい人生を!
はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。
写真:横須賀猿島