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本当の自己犠牲ってなんだろか

多次元的に考えたら全員自己中心的な世界って話。

聖人って本当はいないなぁとつくづく思います。ここでの聖人はキリスト教とかでいう聖人ではなく、いわゆる「自己犠牲」っていうモノをする人です。

今日、その昔自身が書いたプロットを見ていたら、リーの恋愛6類型っていう恋愛心理学による恋愛の形を6つに分類して考える記事をトピックしたものがありました。(その文章自体はネットに流したことない)

リーの恋愛6類型はざっくり言えば、人間の恋愛の形を「狂愛」「神愛」「美愛」「友愛」「遊愛」「利愛」に分類する。一応、全員がすべての愛の形を持っているが、個人や時期によってそれぞれに個人の中で優劣関係があって、どれが表現型として出現するかはそれによるみたいなもの(と書いてありました)

リーの恋愛6類型はいいネタになるので、ここでは言及せずに、ここで話したいのはその中の「神愛」です。神愛は愛する人物の幸せを願うことが自身の幸せであり、自己犠牲的な恋愛とあります。ちなみにリーの恋愛6類型の元(元の言語)では名前ではキリスト教の「神愛」と同じ意味の「アガペー」と呼ばれています。

この「神愛」はキリスト教では神から人々に対する無限で無償な愛とされています。確かにリーの恋愛6類型の「神愛」に似たようなとこはあるかもしれませんね。恋愛対象に対する無限の愛と神から人々への無限の愛、そこには利益はなくただただ無償であると。

本当にそうか?

キリスト教の「神愛」は知らないですが、リーの恋愛6類型の「神愛」って本当にそんなものなのか? 自己犠牲とはなんなのか? ここから本文になっていきます。

自己犠牲を辞書で調べると「何らかの目的や他者のために、自己の時間・労力・身体・生命をささげること。」ということみたいですね。自己犠牲って結構簡単に満たせそうな定義ですね。目的と他者以外に自分のナニカをささげれば、自己犠牲の基準から外れますが、それって自分が自分のためにすることですよね。

逆に言えば、自分のためにすることをすれば「自己犠牲」ではなくなるってことでしょうか? そうだと今回は解釈します。

リーの恋愛6類型の「神愛」の自己犠牲的はきっと本当に自己犠牲的なのでしょう……恋愛対象から見れば。

そもそも恋愛に限らず、愛とは自身を満たすためにやっている節があると私は思います。愛を示すことで相手からも愛が返ってくることで満たされる、愛情表現をすること事態で自分が満たされる、愛情表現をしている自分自身が好きで満たされる。そんな風に所詮愛とは自分が満たされるための自慰行為に近しい。(「好き」について分類している過去記事があるので「リンク」を参照します。)

じゃあ、リーの恋愛6類型の「神愛」はどうなのか? これは愛情表現自体が好きなパターンか自身の利益高率度返しで相手につく自分に酔いしれている、とも言えてしまうのではないでしょうか?

もちろん、恋愛の相手や赤の他人からすれば「なんでこんなに意味がないのにするんだろうか?」となりますが、自分からすればある程度は満たされている。

いわば、リーの恋愛6類型は愛されている側からみれば「神愛」は存在するが、自分が愛する側の視点にたったときに「神愛」など存在しないのでは、と思うのです。

これは恋愛に限った話ではありません。私が恋愛というテーマを持ち出したのは、「自己犠牲」が孕んでいるテーマを恋愛という形で具体化したにすぎません。

ボランティアをやっている人は、金銭的利益を得ていないだけで、他人に時間を使うこと自体に精神的利益を感じている、または他人につくす自分に酔いしれている。例なんていくらでもあります。

利とは金銭的だけではない。精神的を一例として作りましたが、他にも肉体的な利もあるでしょう、未来への投資っていうのも1つでしょう。そんな風に別の視点で考えるとどうも「自己犠牲」とは存在しないように思える。

これは「神愛」のような恋愛を送っている人々やボランティアをしている人々を否定する記事ではありません。どちらも結局は相手やなんらかの目的に利益を与えているので良いことだし、むしろwin-winで最も理想の形と言っても過言ではないと思います。

大事なのは「自己犠牲」と言うモノのイメージ的なハードルが異常に高いので、そのハードルを下げることです。

視点を移動させて、自己犠牲的とされるモノを利己的と解釈したり、利己的なモノを自己犠牲的と解釈されるように主張する。それこそがとてもいい処世術だと思います。

少し具体例を語れば、大学時代にサークル活動で代表として皆を率いた、部活で部長として皆を導いた。良い美談でまるで「自己犠牲的」ですが、実際は仕切り好きなだけ・みんなによく見られたいだけ・人からのお願いを断れないだけ等のように曲解できます。いや正しくは曲解ではなく、そう思うことでそういう人間の可能性があることを脳の片隅における。

逆に自分が潔癖症で教室を掃除していたとして、でもそれは結局は校内清掃の一環になっていて級友が気持ちよく過ごせる一因になっている。これは逆に利己的が「自己犠牲的」ととらえることができるパターンです。

良い話の裏があると思える思考回路、自分が得してた話を自己犠牲的な話に変える話術、それはきっと人生において役に立つのではないのでしょうか?

ねこねこ

はい、今日の希哲学者でした。また不定期になんか意味の分からんことを書きます。

写真:打ちっぱなしゴルフ場 ゴルフって敷居が高い

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