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不登校児の35年後の世界②〜後遺症〜

初めての不登校は小学2年生。


当時は担任の先生が妊婦さんで(常に怖い先生だったのだが・・・)妊婦さんだったので余計にいつもイライラしているように見えた。

私はもともと歌って踊ることが大好きで、人を楽しませることに大きな喜びを感じる子どもであった。というところから垣間見ても、みんなの視線をものすごく気にする子ではあったと思う。
ある日、算数の時間に方眼紙が配られ、ハサミで切って何かを作る時間だったと記憶しているのだが、私はうっかり1枚しかない方眼紙を切り間違えてしまった。どんどん先に進むため、このままではいけないなと思い、手を挙げて先生に切り間違えたと話した。するとモノごっつい鬼の形相で先生は私の前までどしどしと歩いてきて、ブチ切れた。
右斜め前の席に座っていた当時私は好きだった男の子が怒られている私を見てニヤニヤしていた。笑われてしまったことに恥ずかしくなってしまった私はつられてニヤニヤもじもじしてしまったのだが、そんな私の姿を見た担任は「怒られている時に笑うとは何事だ!!!!」と事態は最悪な方向へ。
私は親にもほっぺを叩かれたことがなかったわけだが、担任による強烈なビンタ裏拳10発をクラスみんなが注目する中で喰らったのだった。
42歳になった今は「仕方なかった。間が悪かったな。」と思えるが、当時の私は学校で間違ってはいけないのだとか、大人は怖いだとか、信用できないといった恐怖を植え付けられる結果となった。

わずか8歳で人間不信。


これまでの私は、出会ってきた数々の大人を「この人は信用できる人間か?」と見定め続けて生きてきたということになる。
42歳になった私も相当大人なのだろうが、存じ上げない大人がずらりと並ぶような会議や交わりの場では未だに体が強張り、とても緊張する上、心の防火シェルターは基本的には閉まりっぱなし。
そういった状態でもって、講演したり、思いを伝えるような時間も存在しているわけだが、心と体に大きな負担がかかっているなと我ながら思っています。人間充電、回復にとても時間がかかる。
たまにシェルターが全開となる時もあるが、それはこの人信用でいるかどうかセンサーがYESといった時に限る。

というわけで、自分で言うのもなんですがとても生きづらい。


当時、信頼できる大人が一人でもいたら違っていたのか。
家が安心できる場だったら違っていたのか。
こころとからだのケアを早くしていたら違っていたのか。

答えは「そうです!」
それが不登校から35年が経過した私の答えである。


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