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23.12.21木曜日の花


14年。

22才だった人間が36才になるまで。
笑って泣いて、見ないふりして、踏み出して、悟ったり、怒りに震えたり、信用したり、裏切られたり、本当の優しさを知ったり、好きになったり、嫌いになったり、新しい自分を知ったり、見送ったり、迎えたり。

色んなことを経験したが、家に帰るといつも癒してくれた。フワフワで愛嬌のある子。

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愛護センターから子犬を迎えようと、HPの写真を見ていた。
写真から滲み出ていた。どこか抜けてる感じが。

子犬を引き取る時、飼い主は講習を受けなければならず、何度か一緒に通った。

最初、愛護センターの人にしつけられたようで、
常に飼い主である私に背中を向けてお座りをしてた。講習でも背中を向けて座らせるよう指導され、うちのはすぐできた。
それがちょっと鼻が高くて嬉しかった。
(私がしつけたわけじゃないが、、、)

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犬を連れて旅行に行きたい!という私の勝手な夢を叶えてくれたのもこの子だ。
当時、父が乗っていた車は三列シートだったので、一番後ろのシートをフラットにし、ゲージごと乗せて、家族で淡路島、四国を一泊2日で旅行した。

途中、気分が悪そうで吐いてしまい、かわいそうなことをした。
淡路島のサービスエリアにはドッグランがあり、遊ばせようとしたが、本人は遊び方がわからない様子で興味なさそうだった。
けど、金比羅山を一緒に登ったり、ホテルで一緒に寝たり、楽しそうにしてる場面もあった。

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年に何度か脱走もした。
いつも大体1時間経つと帰ってくるのだが、それまでは時々家の周辺に来て探してくれてるかどうか確認して(距離を取ってこっちを気にしてない風に見てる笑)、探してる者が捕まえようと近付くと、走り去るのだった。

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散歩の途中。
近所のおばちゃんと長話していると、しばらくはお座りしたり、田んぼを覗き込んだり一人で、なんやかんやしててくれるのだが、一通り終わると痺れを切らして、いいかげんにしろ!とばかりに飛び付いてきた。

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7才の時。
急に食欲がなくなり食べなくなってしまった。
病院に連れて行っても原因がわからず、成す術がなかった。

セカンドオピニオンとして連れて行った病院で、アジソン病という難病だとわかる。

薬を処方してもらい、何とか食欲は回復したが、薬を飲み続けなければまた食欲が落ちる。
一生付き合っていかなければならない病気なのだと分かった。

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実家暮らしだった私が京都に引っ越すことになり、その前に家族でおでかけした。
コンビニのおにぎりを買って、砂浜で食べた。
砂波打ち際を一緒に歩いて、並んで足跡を付けた。

この時なんだか楽しそうだった。
もうすぐ離れて暮らすこと、私は心の中で思いながら楽しんだ。

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京都に来てから。
コロナで身動きが取れず、全く実家に帰れなかった。
この時どう思っていただろう。奴はもう現れないのか?と、不安だったりしたのかな、、

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コロナが明けて、実家に帰る度に会えない分も長く散歩した。京都に行ってから、実家にいた時とは違い、散歩が特別な時間になった。
探検に行くような気分で、一緒だからひとりで行かないような場所にも行けた。
私は家の裏手にあるダムがお気に入りだった。
ツバメ、ヒヨドリ、セミ、ひぐらしの声

私達にぴったりな散歩コースだった。

だけど、段々足が弱り、座り込んだり、足を引きずる場面が目立つようになった。

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今年の4月。
危篤状態との連絡が入った。
何も食べず、飲もうともしないと。
何とか会社を休ませてもらい、実家に帰ることに。
早朝から家を出て帰ると、玄関でぐったり横たわって意識も朦朧としている。
口を開けようとしないので、薬も飲めていないと言う。

水に溶かした薬をスポイトで与えてみる。
ゴクゴクと喉は動いている。

病院に連れて行くことになり、病院で点滴をしてもらう。
家に帰ってしばらくは変わりがなかったので、缶詰めをペースト状にしてスプーンであげてみたりした。一応食べてはくれる。

段々と点滴が効いてきたのか、表情がしっかりしてくる。
薬も何とか飲めるようになり、普通に食事が取れるまでに回復した。

本当に、安心した。
ただ、この時から今までのように自力で動くことができなくなった。

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それからというもの介護が始まった。
メインは退職後家にいる父が行う。
ところが父も足が悪く、中型犬の介護はなかなか重労働だ。

私は、なるべく毎週土日は帰ることにした。
介護のためでもあるが、単純に会って過ごしたかった。
お腹にベルトを付け、歩行訓練すると、前足の力だけで進むことができた。
おしっこやうんちで汚れないようにしたり、床ずれが起こらないようにしたり、父も試行錯誤の繰り返しだった。


なるべく一緒にいたい。
そのためにできることは何でもしたかった。

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体調が急変したのは、たまたま私が東京に遊びに行った週だった。
行きの新幹線の中で連絡を受ける。2泊3日だったが、1日目はほぼ楽しむどころではなかった。

父と電話し、状況を聞く。
明日点滴に連れて行くと言う。
帰ろうかどうか迷ったが、点滴で元気になった前例があったので、少し落ちついて2日目を過ごした。

3日目、3時から楽しみにしていたお笑いのライブがあった。前から4列目の席で高鳴る気持ちを押しのけるように、体調が悪くなっていく。


開演から約10分、会場を飛び出した。
それから吐き気が治らず、帰ろうとした新宿の駅で動けなくなった。
ついには救急車を呼んでもらい、京都に帰るはずがもう一泊することになった。


あまり結び付けるのは良くないのかもしれない。
けれど、何か誤った選択をしたように感じた。


週末には帰るから。


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その2日後の木曜日、最後はテレビ電話で声をかけた。

見ただけでいつもとは表情が変わってしまったのがわかった。

それでも、名前を呼ぶと口をモゴモゴ動かしている。

週末まで頑張ってとずっと思ってきたが、いざ顔を見て出てきた言葉は、

「十分頑張ったね」だった。

「ありがとう」そう伝えて仕事に出かけた。


10時40分頃、
ついに連絡が、

この日が来てしまった。


この子の前、先代犬を見送った経験がある。
飼い始めた時から、もう一度この日が来ることは分かっていたが、、、
14年が終わってしまったのか。

これからは君の居ない人生が始まる。


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「今日は、リビングの窓が犬のかたちに曇ってたけど、10時ぐらいから形が崩れ出した。びっくりした。」

「みんな頑張れよちゅう最後のメッセージ。(ガンバレ)」

父が家族のグループラインに送ってきた。


頑張るよ。ありがとう。


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