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奇跡の建築、伊豆の長八美術館を生んだ必然の連鎖

名作と呼ばれる建築が生まれるとき、そこに至る背景には決してひとりの建築家の才能では説明しきれないドラマがある。

偶然の連鎖としか言いようのない奇跡的なストーリーが生んだ結晶のような建築であっても、そこにある必然性を読み解いてみる試みは、建築を見る僕たちの眼を養ってくれる。
今回はそのケーススタディのひとつとして、奇才・石山修武が手がけた静岡県松崎町にある「伊豆の長八美術館」について掘り下げてみたい。

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伊豆の長八美術館外観

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美術館外観 足元を見る

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内観

伊豆の長八(本名 入江長八)は、左官の技術を用いて建築に装飾を施す「鏝絵」と呼ばれる手法を、芸術に高めた人物として知られている。
江戸時代の後期に生まれ、松崎町で左官職人として従事したのち、江戸へ上り狩野派に師事。
左官と日本画の技術を駆使しし、それまで誰も試みたことのなかった芸術のジャンルを開拓した。
それ以前は建物の装飾の一部でしかなかった鏝絵を額装にすることで、そのほかの絵画と同列に鑑賞され評価される土台を築いたのだ。
立体的な凹凸をもった、彫刻としても絵画としても愉しめる新しい美術品。
そのような人物の作品を収蔵展示する施設として、この美術館は計画された。

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白虎[あ](長八の宿HPより)

僕はこの美術館に、かれこれ10年ほど「いつか行ってみたい」と思い続けてきた。
理由は単純明快で、「石山修武の代表作」とされているから。
社会が民主化を推し進めるに連れ、かつて建築家に求められた芸術家的な側面は薄れ、「なぜそのようなデザインにするのか」を説明し切ることが求められるようになっていった。
必然的に建築それ自体も理路整然とした説明的なものになるか、説明がなくとも良さが感じ取れる、五感に訴える感覚的に「心地よい」と感じられるものが志向される。
そうした状況下にあって、石山修武のつくる建築は異色の存在に見えた。

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石山のデビュー作「幻庵」内観(TOTO通信

彼の書く文章は軽妙で、ぐいぐい引き込まれ読んでいる最中は彼が建築を通して表現したかったことに納得させられた気になる。
しかし改めて建築との比較を試みると、とても建築の説明がなされているようには思えない。
むしろ建築を舞台に、人びとの活動が展開されている群像劇を描いているような、建物が建ったあとの物語を綴ったエッセーなのだ。
かといって建築それ自体も一見して意図が分かるような感覚的な空間づくりがなされているわけでもない。

建築を見ても、文章を読んでも「なぜそのようなデザインにしたのか」容易には理解できない稀有な建築家。
学生時代から僕が彼のつくる建築に興味を持ち続けてきた理由がそこにある。
伊豆の長八美術館を訪れたいと思っていたのも、実際に空間を体感することで、写真や図面・テキストだけでは理解できなかったことを体得することができるのではないかという期待があったからだ。

石山修武の「理解し難さ」は、「理」を求められた時代にあって「芸」を発揮することができるポジションを与えていたように思う。
左官という建築と不可分で職人的な仕事の延長に「芸」を生み出した入江長八の美術館を建てるにあたって、石山に白羽の矢が立ったのは、幸福な必然であった。
建物を組み立てる工程に強い関心をもっていた石山に、廃れゆく左官技術を復興させる起爆剤となる建築が期待された面もあるだろう。

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石山修武『「秋葉原」感覚で住宅を考える』晶文社/1984年

元来鏝絵とは、左官職人が竣工のお祝いとして工事の仕上げに施した、即興の遊び心から始まった文化だ。
全国各地の、特に左官技術が発達した地域に見られるもので、松崎町においては、台風や潮風による被害から家財を守るため、蔵を建造する際に左官が必須の技術だった。
特に壁面だけでなく屋根の施工も左官職人が担当する松崎町独自の慣習があり、左官技術が発展する土壌をつくっていた。
そのような場所で、長八は職人としての基礎を学んだ。

松崎町には現在でも左官技術を駆使した「なまこ壁」の建物が多く残り、観光資源にもなっている。
古い町並みが観光資源となるためにはいくつかの条件がある。
時代を越えて魅力を放つ力作が集中的に建てられるほど、町として発展した時期があること。
空襲の対象地域にされるほどの要地にはならなかったこと。
戦後の経済発展において景観を刷新するほどの発展を遂げなかったこと。

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美術館近くに残るなまこ壁の住宅

松崎町はこれらの条件を見事に備え、古い町並みを現代に残している。
伊豆半島の要地といえば、半島の付け根にあたる沼津や三島、熱海、小田原といった東海道の宿場町や温泉地として栄えた町が中心だ。
険峻な土地は耕作にも適さず、長らく歴史の表舞台に登場しない地味な土地柄といえる。
唯一、半島の東側に位置する下田は、江戸時代に大阪⇄江戸の物流を支える港として栄えた。
激しい高波にさらされるように本島から突き出た地形のなかで、町を守るように半島ができたことで波が穏やかな港が形成されたためだ。
ペリー来航の際、江戸幕府との交渉拠点として下田を選んだことで記憶している人も多いだろう。

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伊豆半島の地形 赤丸は長八美術館の位置を示す

陸の孤島、伊豆半島は室町時代までは流刑地として位置付けられていた。
ただ、諸々の理由で失墜した要人が流れ着いたことで、数多くの寺が開かれたり、都の情勢や文化が伝えられるといった状況が続いていた。
地方の田舎町でありながら遠方の上流文化が同時代的に共有されるという特殊な事情は、教育に力を入れる風土を育んだようだ。
江戸時代には室町以来の歴史ある寺々が寺子屋として教育の拠点となり、庶民の教育に力を注いだ。
明治期に入って学校建設が義務化された際も、財力に乏しい地方都市としては目覚ましいほど教育に力を入れた経緯をもつ。

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重要文化財「岩科学校」(松崎町HPより)

長八も教育熱心な松崎の恩恵を受けたひとりだ。
左官職人として従事する一方、浄感寺で読み書きを習い、江戸の文化にも日常的に触れる機会をもち、20歳の時に江戸留学を決めている。
狩野派に師事した長八が、持ち味の左官技術と絵画の技法を掛け合わせ、鏝絵を建築から独立した新しい絵画の手法に昇華するに至る発端がここにある。
長八の才能が「鏝絵の芸術化」で開花したこと自体は偶然であったとしても、そういう人物を輩出する土壌が用意されていた。

松崎町を代表する人物としては、帯広開拓に尽力した依田勉三がいる。
長八よりも40年ほど後の生まれで、依田家の三男として生まれた。
帯広開拓においては緑綬褒章を受賞するほどの功績を残したが、事業としては失敗に終わり、家財を溶かす結果と相成った。
依田家は同時期、家運を賭けた運送業で大事故を起こし、被災者家族への保証などで再起不能となるほどの損害を被っている。
松崎町を代表する名家の失墜は、町の発展を停滞させるだけのダメージとなった。

そうした松崎町において、長八美術館の建設の声があがった際、この事業にかける力の入れようには並々ならぬ覚悟と期待が感じられる。
発起人は松崎町の左官職人たち。
建物の解体工事にも従事していた彼らは、長八の作品が施された建物が壊される度に現場に駆けつけ、作品を保存していた。
時代を経るごとに左官工事の需要は減りコンクリートや鉄骨の建築物に移り変わり、技術の継承が問題視されていた。
作品を防火性能の高い施設に保管する必要があったことと、なまこ壁の町並みを観光資源として活用しようという機運が高まり、美術館建設の運びとなる。

松崎町は日本左官連盟に働きかけ、この工事に全国各地の名工を結集、5000万円の寄付金も調達している。
総工費2.9億円のうち3割を左官工事に割き、工事の取り仕切りを松崎町の左官職人が担った。
日本を代表する左官の名工が自由に腕を振るう機会を提供するだけでなく、松崎町の次代を担う若手に仕事を学ぶ機会を与える、まさしく左官技術復興・継承を目指す事業となった。
そして石山修武の独創的なデザインによって、左官の新たな可能性を提示する契機にもなっている。

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斜めの線や階段状のなまこ壁など新しいデザインに挑戦している

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階段上に施された鏝絵

目論見通り、開館後は多くの観光客が松崎町へ訪れるようになった。
なにより素晴らしいのは、美術館建設が契機となり、松崎町民の左官技術への関心が高まったこと。
住民自ら左官技術を学び、左官技術を用いた記念施設が建設されたほか、長八作品の保存も進んだことで、美術館に併設して収蔵庫を建設することとなった。
この収蔵庫も石山修武が設計している。
当然ここでも松崎の左官職人が活躍し、ガラスと漆喰をかけ合わせた新たなデザインに挑戦している。

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収蔵庫 見上げ

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美術館へ続く橋 柵に左官による意匠が施されている

建築家がそこにしかない文化を掘り起こす建築を設計し、住民の誇りとなる。
それが町の復興を促し、建築家が活躍する次なる契機につながっていく。
松崎町と長八美術館との幸福な関係性を、偶然が重なった奇跡として片付けてしまうことは簡単だ。
それでも、偶然の裏に用意された必然を嗅ぎつけようと足掻いてみることが、僕らが抱える仕事を確かなものにするヒントになるのではないか。
長い間「行ってみたい」と思い続けた建築を訪れ、新たな建築の見方に気づかされた僕はいま、そんなことを考えている。

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最後までお読みいただきありがとうございます。
本記事は嶋津亮太さんが個人で主催されている #教養のエチュード賞 への応募作品として執筆したものです。
松崎での得難い体験を記事にするにあたり、方針を与えてくださった嶋津さんに感謝と敬意を表します。


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