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2024.8.24:第五部上「DNA縄文人」の通史概要(5-1.草創期~5-10.第29代欽明時代)

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5.「DNA縄文人」である倭国部族同盟統括者の通史概要

5-1.倭国草創期の「DNA縄文人」

 日本列島の統括者は、圧倒的な人力、兵力、財力、輸送力、情報伝達力をもっていた「DNA呉越系倭人混血縄文人」である尾張氏、大伴氏、物部氏の三氏族に限られ、皆軍事も管掌していました。これら三氏族の始祖は、皆南海ルートの奄美・北九州から日本列島に入島しました。その筆頭統括の氏族は、尾張氏を始として、大伴氏、物部氏と移っていきます。

出雲臣・千家は、北方ルートの樺太・北海道から日本列島に入島しましたので、倭国部族同盟統括者の氏族に入ることができませんでした。その後、出雲臣・千家は、畿内和邇氏朝の臣下となります。北方ルートの樺太・北海道から日本列島に入島した「DNA縄文人」は、巨木高層建造物の文化を持っていたようです。

二世紀中頃から五世紀は、朝鮮半島の高句麗高志朝、百済垂仁朝、百済和邇氏応神朝、高句麗仁徳朝、百済反正朝、百済和邇氏雄略朝の波乱・激動の時代でした。その度に、多くの部族の分派が、日本列島に避難移動 あるいは侵攻し、大きな危機を日本列島に先住していた「DNA呉越系倭人混血縄文人」である倭国部族同盟首長達と通婚同盟をしていた「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」に与えました。倭国部族同盟は、大きな危機を感じ、分散統治体制から幾分集合化した分散統治体制に転換し、巨大古墳の築造による侵攻勢力への威嚇や『大連』称号の権威造りや漢字導入や先進土木技術の導入、通婚同盟による和邇氏などの外来部族の取り込み等を、通婚同盟した倭人の進言も得て図りました。

記紀は、古志朝(第6~9代)に「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である「トベ」系統の倭国『大后』の母系祖として「DNA呉系倭人混血縄文人」の三氏族の尾張氏、大伴氏、物部氏や「DNA源流鮮卑族」和邇氏との日本列島での古代からの通婚関係を集約して記しました。また、並立した垂仁朝には、倭国『大后』の朝鮮半島を主とした通婚関係と出来事を日本列島に転写して記しました。

5-2.ニギハヤヒ朝の第一回ヤマト東遷と尾張氏

 尾張氏、大伴氏、物部氏が、ニギハヤヒ朝以前からそれぞれ倭国『大后、女王、女首長』と同盟通婚をしていたことは、記紀の倭国『大后、女王、女首長』の通婚地を示す別名からもわかります。尾張氏の初期の倭国での大きな根拠地は、島根県の出雲、兵庫県の但馬、日本海沿岸の古志、愛知県の尾張、九州の筑紫、奈良県の飛鳥等です。大伴氏は、和歌山県の紀伊、九州の筑紫、等です。物部氏は、兵庫県の但馬、岡山県の吉備、等です。特に、「DNA源流縄文人」尾張氏と越系「戸売」系統の初期の大規模本拠地は、出雲と但馬です。因みに、記紀の倭王『大王』全員が、倭国を統治することはありませんでした。

先ず、大歳=ニギハヤヒの伽耶からの避難移動、いわゆる第一回ヤマト東遷に参画したのは、尾張氏です。尾張氏は、約7,300年前(約6,300年前とする説もある)に生じた九州南部沖の鬼界カルデラの一連の大噴火の際に、無人の朝鮮半島に一部が避難移住しており、伽耶・新羅の尾張氏も大歳=ニギハヤヒの第一回ヤマト東遷に参画したと考えられます。途中で参画したのは、大和登美の物部氏の首長・長髓(ナガスネ)彦[物部氏初代宇麻志麻治(ウマシマジ)命の父]です。大歳=ニギハヤヒと宇賀御魂命が拠点としたのは、大和登美ではなく、ヤマト、つまり、神奈備山の三輪山を付帯し、蛇を神体とする奈良県桜井市・大和国一之宮大神(オオミワ)神社です。大神(オオミワ)神社の原初は、尾張氏と「母系DNA呉系倭人」である「トベ」系統女首長との拠点であったからです。不思議なことに、調査もされていない奈良県桜井市・箸墓(ハシハカ)古墳は、『大王』ではなく、『大后』倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫大市墓と宮内省は比定しています。倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫大市墓はともかく、ヤマト王権の初期王陵としないで、『大后』陵とすることは、古代の理に沿っています。巨大な前方後円墳を四世紀のものとみなす意見も多いです。
 尾張氏は、「DNA匈奴金氏」である天火明天命(=ニギハヤヒ)を祖神とし、ヤマト登美の「DNA呉系倭人混血縄文人」である長髓(ナガスネ)彦と「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である登美夜毘売(トミヤ・ビメ)=三炊屋(ミカシキヤ)媛との長男・天香語山[別名:高倉下命]を始祖とされていますが、箔をつけるための改ざんがされています。しかし、天香語山[別名:高倉下命]は長男とされ、また、越系「戸売(トメ)」系統の『大后等』の第二代戸売(トメ)・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)が尾張国大海媛/大倭媛という別名をもっています。また、呉系「トベ」系統の『大后等』の祖の世襲足(ヨソタラシ)媛=余曾多本(ヨソタモト)毘売(ビメ)命=(旧事)日置日女(ヒオキヒメ)命の父が尾張連祖の天忍男(アメヨシオ)=天忍人です。以上のように、尾張氏が最初の倭国部族同盟盟主であったと考えて良いと思われます。
 尾張氏のこの矜持が、朝鮮半島と倭国の覇権を握る統一新羅の原動力となり、尾張氏外戚系の額田王(377斉明Aの大后、38天智の妃)、(女帝)第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)を通した倭国掌握を実現します。そして、その後の統一新羅からの多数の尾張氏等の帰化人と呼ばれる追放回帰は、中部・関東地域の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である武士(平氏、北条氏、源氏、足利氏、等)の台頭の原動力となっていきます。
 尾張氏は、神武ニニギ族の同盟軍の第二回ヤマト東遷・侵攻により失脚し、尾張氏は出雲・但馬・畿内・大和から追放され、九州と東国(例えば、尾張国、古志国、信濃国、関東、等)と新羅を拠点に移します。
 古志国/越国(コシノクニ)は、現在の福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する日本海沿岸地域です。その後、701年の令制国への移行に際して分割され、越後国・越中国・能登国・加賀国・越前国となりました。この古志国/越国(コシノクニ)を支配していた氏族は、現在の新潟県・越後一之宮・弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦2887~2)の祭神が尾張氏祖の天香山命=高倉下(タカクラジ)命、また、高志の媛が沼河比売[=二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)]より、尾張氏と思われます。出雲の八岐遠呂智(ヤマタノオロチ)の出身地が古志です。天香語山命は、尾張氏の遠祖です。尾張氏は、第二回ヤマト東遷・侵攻によって、中部、信州、越後と昔からの拠点に回帰移動したと考えられます。

5-3.初代神武B時代のニニギ族の同盟軍の第二回ヤマト東遷・侵攻と大伴氏

 初代神武B時代の第二回ヤマト東遷・侵攻(262年頃から270年頃)したのは、高句麗第12代高氏中川(チュウセン)王の配下の「DNAスキタイ混血匈奴」サカ族や「DNA源流匈奴」野族(注:「野」は「牛」と同韻異字で、トーテムは牛族)や「DNA呉越系倭人混血縄文人」大伴氏のニニギ族の同盟軍です。この渡来部族のヤマト侵攻は、従来の九州地域までの侵入を越えており、三世紀中頃からの巨大古墳(円墳は倭人系、方墳は高句麗系)の築造による防衛示威の始まりではないでしょうか。巨大古墳の大事業は、人力と財力と輸送力を圧倒的にもつ「DNA呉越系倭人混血縄文人」族しかできないことです。

大伴氏は、第二回ヤマト東遷・侵攻(262年頃から270年頃)による尾張氏の失脚後のヤマト覇権者になります。
 記紀の初代神武B憂位居(ユウイキョ)、第2代綏靖(スイゼイ)、第3代安寧(アンネイ)は、日本列島に来島したり、第二回ヤマト東遷・侵攻をしたりしていません。初代神武B憂位居(ユウイキョ)=高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)は、248年にヤマト東遷前の瀬戸内で歿し、吉備に陵があるとの説がありますが、違います。岡山県・吉備の神武B憂位居(ユウイキョ)と見られている巨大前方後円墳の造山古墳は5世紀前半のもので時代が違い、かつ、高句麗の墳とは様式が違います。岡山県・吉備は鉄と産物の豊富な国であり、加羅の春日国の後裔の女王国です。安全な吉備の国には、半島の王の継嗣である子達と護衛の「DNA呉越系倭人混血縄文人」族がいます。神武B憂位居(ユウイキョ)がヤマト東遷前の瀬戸内で歿した場合でも、第2代綏靖(スイゼイ)[=高句麗第12代高氏中川(チュウセン)王(在位:248~270年)]は、高句麗王を継承するために即高句麗に引き返したとするのが自然です。
  また、記紀では、「DNA匈奴金氏」であるニギハヤヒは、武具を見て、敵が同族であることを知ったと記しています。「武具」を見て同族あることを知ったということは、第2代綏靖(スイゼイ)本人はヤマトに行っていず、ニニギ族の同盟軍であることを暗示しています。侵攻軍が宗主であったニニギ族の同盟軍であることを知った時点で武力衝突は終わり、「DNA匈奴金氏」であるニギハヤヒはヤマト同盟の盟主を降りました。
 「DNA匈奴金氏」である高句麗・蜜友[=第3代安寧=新羅葛文(カツブン)王未鄒=新羅第13代金氏味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)]は、宗主の高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)[=初代神武B憂位居(ユウイキョ)]の朝鮮半島南部への侵攻に同行しましたが、日本列島侵攻には同行せず、伽耶の後方守備をしたと推測されます。第2代綏靖(スイゼイ)が248年に高句麗第12代高氏中川(チュウセン)王(在位:248~270年)に即位した後、262年に新羅葛文(カツブン)王未鄒=高句麗・蜜友(ミツユウ)は金官加羅国王位を奪回します。新羅第13代金氏味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)]は、新羅王空位時代(262年~356年)の一代限りの新羅王統であり、三国史記新羅本記の編纂時に金官加羅国王から新羅王の系譜に移行されたものです。当時の金官加羅国は豊かな国で、新羅は辺境の小さな国で、王のステータスは非常に違います。

歴代の高句麗王、百済王、新羅王は、祖郷のアジア大陸に執着しており、日本列島の支配には関心がありません。

5-4.記紀が古志朝で集約した『大后』の日本列島の父系祖の尾張氏、大伴氏、物部氏、和邇氏

記紀は、古志朝で『大后』の日本列島の父系祖の尾張氏、大伴氏、物部氏、和邇氏を集約しました。

先ず、尾張氏と和邇氏が記されます。大伴氏はニギハヤヒの第一回ヤマト東遷に同行していませんので、当時は倭国や加羅に大きな居住集団をなしていなかったと思われます。大伴氏の根拠地は、難波根子建振熊同様に継承辰王の本貫であった百済・熊川の近辺です。大伴氏は、神武朝のヤマト東遷の時に得た紀伊国が倭国の領国となったようです。

紀伊国一ノ宮は、和歌山市・伊太祁曽(イタキソ)神社[主祭神は五十猛(イタケル)命=大屋毘古神]、和歌山市・日前神宮[主祭神は日前(ヒノクマ)大神=天照大神]・國懸(クニカカス)神宮、和歌山県伊都郡かつらぎ町・丹生都(ニウツ)比賣神社、の三社があり、いずれかが大伴氏系です。

大伴連の祖の大伴氏角比古命は、古志朝時代(=高句麗倭人朝)の呉系「トベ」系統祖の世襲足(ヨソタラシ)媛=余曾多本(ヨソタモト)毘売(ビメ)命=(旧事)日置日女(ヒオキヒメ)命の伴侶の一人であり、「DNA源流鮮卑族」和邇氏の祖である彦国葺(ヒコクニフク)命=天足彦国押人命=春日親君(第6代孝安天皇は義弟)の娘の手束比売命の伴侶の一人です。大伴氏祖の紀の国・鬼刀禰(キトネ)命は、手束比売命の伴侶の一人です。手束比売命と「DNA縄文人混血呉系倭人」紀氏である鬼刀禰(キトネ)命との間の娘の紀伊国荒河刀辨(トベ)命/荒川戸俾(トベ)の伴侶は、「DNA源流鮮卑族」和邇氏である難波根子建振熊(タテフルクマ)=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王 (在位:385~392年)=[象徴王]第15代応神天皇Aです。

物部氏の倭国の本拠地は但馬です。古志朝の物部氏外戚系の『大后』は、垂仁朝の「血統」をもつ古志朝末期であるのが特徴です。古志朝の物部氏外戚系の『大后』は、『大后』欝色謎(ウツシコメ)命(第8代孝元)、『大后』伊迦賀色許売(イカガシコメ)命=伊香色謎(イカガシコメ)命(第9代開化)、『大尼』大峯大尼(オオミネノオオネ)命(第9代開化)の三人がいます。
 第8代孝元=高句麗第17代小獸林王(在位:371~384年)の『大后』の欝色謎(ウツシコメ)命は、父が「DNA呉系倭人混血縄文人」である第5代物部氏宗主・大矢口宿禰命(大水口宿禰命とも)、母が但馬の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である坂戸由良都(サカトノユラツ)姫命(父は三上氏川枯彦命)です。
 「DNA鮮卑族慕容部」である第9代開化=高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)の『大后』の伊迦賀色許売(イカガシコメ)命=伊香色謎(イカガシコメ)命は、父が「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏である但馬住の第6代物部氏宗主・大綜麻杵(オオヘソキ)命、母が尾張氏外戚系の高屋(タカヤ)阿波良姫(記)です。
 物部氏大峯大尼(オオミネノオオネ)命 は、第9代開化=高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)の『大尼』でした。

5-5.鮮卑族慕容部の同盟軍の第三回ヤマト東遷・侵攻と物部氏・大伴氏

 第11代垂仁時代の鮮卑族慕容部の同盟軍の第三回ヤマト東遷・侵攻に参画したのは、物部氏、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族、「DNA源流鮮卑族」和邇(ワニ)氏です。大伴氏は、尾張氏のように追放されず、物部氏と大伴氏は、第三回ヤマト東遷・侵攻後の畿内・大和の共同統治者となります。大伴氏は、ヤマトの『大后』の親衛軍を管掌、物部氏は国軍を管掌します。伽耶では物部氏と大伴氏は近隣の親しい関係でした。
 
「DNA匈奴休氏」である高句麗休氏/高氏朝の中国・山東半島方面への侵攻は、前趙(漢)(304年~329年)を刺激しました。記紀では、三世紀中頃に、「DNA匈奴休氏」ニニギ族は朝鮮半島南部、日本列島に一旦避難し、神武Bのヤマト東遷の逸話として記載しました。前趙(漢)に臣属した「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(ボヨウカイ、生没年:269年~333年)将軍、慕容皝(コウ)[=第11代垂仁=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝(在位:337~348年)]親子が、「DNA匈奴休氏」である高句麗休氏/高氏ニニギ朝を300年に滅ぼしました。「DNA匈奴休氏」の根を絶つために、「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(ボヨウカイ)、慕容皝(コウ)の親子の軍は朝鮮半島南部(主に、加羅、百済地域)に侵攻しました。慕容皝(コウ)に臣属した同盟軍は、朝鮮半島南部に拠点をもっていた「DNA源流鮮卑族」和邇氏、「DNA源流鮮卑族」昔氏[前(サキ)族が朝鮮半島に以前渡来]と日本列島を主拠点とする「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族です。同盟軍は、慕容皝(コウ)が百済慕容部朝を建国した後、日本列島に回帰侵攻し、第三回ヤマト東遷・侵攻(304年直後)をしました。記紀は第11代垂仁が物部姓を賜姓されたと記したように、この第三回ヤマト東遷・侵攻に物部氏は参画しました。 

「DNA源流鮮卑族」和邇氏の垂仁朝時代頃の本拠地は百済熊川/熊成で、百済垂仁朝時代に勢力を大きくします。これと連動して、前族、物部氏も大きくなりましたが、まだ大きな部族の程度です。辺境の新羅は、尾張氏が地固めをしていました。加羅諸国は豊かな国際貿易地域で、各国の王族分国といろいろな部族が集合しており、緊迫した日常情勢でもあります。鮮卑族慕容部は、伽耶に逗留し力を蓄えても、伽耶の統治者にはなれなかったのです。

「DNA源流鮮卑族」和邇氏の日本列島への進出(記紀は宗主の慕容部の垂仁朝として記載)は、既存の大勢力の「DNA源流匈奴」野族(トーテムは牛)、「DNAスキタイ混血匈奴」サカ族との抗争を各地で引き起こしました。それは、牛族(匈奴)と馬族(鮮卑族)の神社、地名に残されています。岡山県「牛窓(匈奴を意味する牛が転んだの意)」、大阪摂津の「食い倒れ(九夷部族同盟都督府の滅亡)」、鮮卑族が強制した新しい呼び名と漢字名[例①:大阪市坐摩神社:旧呼音-イカスリ神社、新漢字と字音-坐摩(ザマ)神社、例②松江市「東出雲」:旧呼音-アダカイ、新漢字と字音-東出雲(ヒガシイズモ)]、等が抗争痕跡ではないでしょうか。

「DNA匈奴休氏」ニニギ族である第4代懿徳(イトク)=高句麗第13代西川(セイセン)王(在位:270~292 年)は、北魏の派遣将軍である鮮卑族慕容部の慕容廆(カイ)に高句麗を侵攻のされ、防戦で日本列島に来島する余裕はありません。「DNA匈奴休氏」ニニギ族である高句麗第14代高氏烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300年)は、鮮卑族慕容部の慕容廆(カイ)と慕容皝(コウ)[=第11代垂仁=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)]に侵攻され、高句麗高氏(=匈奴休氏)朝は滅亡しました。

高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王は、鮮卑族慕容部の慕容廆(カイ)と慕容皝(コウ)、つまり、同盟軍の和邇氏に臣従することを条件に、日本列島の王妃の領国の但馬国に避難移住して丹波道主・谿羽道主命(タニハミチヌシノミコト)[注:居城は但馬国三ノ宮養父神社(兵庫県養父市養父市場)]を名乗ります。高句麗第14代烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)が移住した但馬は、物部氏や「戸売」系や「トベ」系の王妃の日本列島の本拠地がありました。但馬国は、「DNA匈奴休氏」ニニギ族である高句麗高氏朝の領国があったのではなく、高句麗王妃である倭国『大后』の領国があったのです。

5-6.垂仁朝時代の物部氏

 記紀の垂仁朝は、記紀編纂者達の「DNA匈奴金氏」である『大王』と、呉系「トベ」系統の『大后』と、呉系「トベ」系統の『大后』の父系祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である『大王』との系譜正統性を導く前段階の重要な役割をもたせています。「DNA源流鮮卑族和邇氏」である『大王』は、和邇氏系藤原氏の祖を象徴する祖神でもあります。

物部氏7世代の大新河(オオニイカワ)命と十市根(トオチネ)命が第11代垂仁時代に『大連』の称号を始めてもちました。記紀は、賜姓(シセイ)としていますが、これは、『大王』ではなく伴侶の呉系「トベ」系統の『大后』が、朝鮮半島からの他部族侵攻の危機に対して権威付けをするために名付けた称号です。倭国部族同盟大首長は、朝鮮半島の「王」と対抗できる「大連」という称号をもちます。高句麗系倭人朝や百済系垂仁朝の時代は、日本列島は分散する緩い部族同盟国家で、朝鮮半島にも居住はしていましたが、集権国家レベルではありませんでした。

仲姫(ナカツヒメ)/中日女命は、母が紀伊国の大伴氏系荒河刀辨(アラカワトベ)命/荒川戸俾(トベ)=金田屋姫命、父が「DNA源流鮮卑族和邇氏」である難波根子建振熊(タテフルクマ)=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王 (在位:385~392年)」です。仲姫(ナカツヒメ)/中日女命の伴侶は、物部氏大新河命や「DNA匈奴金氏」である新羅金氏7世代・新羅角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)=(推測)大国主四世代・葛城襲津(ソツ)彦や「DNA鮮卑族慕容部である第14代仲哀=百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)の同盟群婚です。垂仁朝時代の仲姫(ナカツヒメ)/中日女命は、大伴氏や物部氏が、和邇氏や金氏や鮮卑族慕容部と通婚同盟をして勢力を大きくした象徴です。

大伴氏や物部氏は、垂仁朝時代に鮮卑族慕容部や和邇氏から先進の文化を導入し、力をつけていきます。
 記紀は、百済系垂仁朝の前期に高句麗匈奴休氏朝(=神武B朝)と高句麗系高志朝を滅ぼし、後期に源流鮮卑族和邇氏を興隆させ、和邇氏応神朝を垂仁朝の継承皇朝とします。

5-7.第16代仁徳

 第16代仁徳=談徳(ダントク)の時代は、垂仁朝と重複しています。記紀は、百済王の空位期が分断しており、第一期空位期に捏造した和邇氏百済応神朝の後に、第3代安寧の甥である第16代仁徳を置きました。記紀は、百済鮮卑族垂仁朝を談徳(ダントク)[=第16代仁徳=高句麗第19代安氏&金氏広開土王/好太王(在位:391~413年)]が滅ぼしたことを隠蔽するために、垂仁朝の直後に置きませんでした。

第16代仁徳は、新羅金氏始祖の第3代安寧の弟の二男で、傍流庶子でしたが、初めて新羅出自者が高句麗王に就き、更に高句麗最大の領土にした偉大な王でした。第16代仁徳は、倭国統治者『大連』や倭国『大后』の系統変更に直接関与したのではありませんが、記紀は偉大な高句麗王の名を利用します。そのため、記紀は第16代仁徳の数々の逸話を創作します。そして、記紀は、金氏継体朝を和邇氏垂仁朝の継承皇朝とするためと、越系「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』を呉系「トベ」系統に系統変更するために、第16代仁徳の伴侶、および、伴侶の外戚系統は、不自然なほど多くしました。

四韓の実権は、王妃外戚の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である尾張氏、大伴氏、物部氏がもっていました。このことは、高句麗第19代安氏&金氏広開土王/好太王(在位:391~413年)=第16代仁徳が朝鮮半島を統合しなかったこと、できなかったことにあらわれています。

304年、鮮卑族慕容部の将軍であった加羅出自・新羅王族の安(姓)同(名)談徳(諱名:ダントク)[=第16代仁徳]は、沸流(フツ)百済を滅ぼしました。鮮卑族慕容部は百済慕容朝を建朝し、宗主の慕容皝(コウ)は百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)[=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)]に就きます。
 356年、談徳(ダントク)[=第16代仁徳]は、「DNA源流鮮卑族」和邇氏である[捏造王]新羅第16代継承昔氏訖解(キッカイ)尼師今(在位:310年~356年)[=第13代成務]から王位を奪い、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)に就きます。
 375年、「DNA匈奴金氏」である新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)・尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳=談徳(ダントク)]が、「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)=慕容臧(ボヨウゾウ)=第14代仲哀を滅ぼします。この時、鮮卑族慕容部の第11代垂仁の庶子である神功皇后の新羅に隣接した気長(オキナガ)足(タラシ)姫尊の生国である機張(キジャン)国[現釜山の東側、蔚山(ウルサン)市と接する機張(キジャン)郡]も談徳によって滅ぼされます(詳細は2-14)。

第16代仁徳が、百済を事実上支配しますが、鮮卑族慕容部の臣下であったので百済王の継承資格がありませんでした。記紀は、神功皇后と竹内宿祢[=新羅第16代借用昔氏(&和邇氏)訖解(キッカイ)尼師今(在位:310年~356年)]が百済慕容部朝を滅ぼしたと改ざんし、更に、新羅第16代借用昔氏(&和邇氏)訖解(キッカイ)尼師今は百済王位空白期間(375年から420年まで)を利用して[捏造王]百済第14代近仇首(キンキュウシュ)王 (在位:375~384年)に就いたと改ざんしました。
 391年、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳=談徳(ダントク)]は高句麗倭人朝(古志朝)を滅ぼし、高句麗第19代安氏&金氏広開土王/好太王(在位:391~413年)に就き、朝鮮半島を事実上制覇しました。しかし、新羅は尾張氏、百済・高句麗は大伴氏と物部氏が実権をもっており、朝鮮半島を統合できませんでした。第16代仁徳は、尾張氏と大伴氏と物部氏と通婚同盟をしています。
 413年、70歳から80歳代の高齢の高句麗第19代安氏広開土王(在位:392~413年)=第16代仁徳が北魏傀儡の高句麗太子である馮(フウ)氏高璉(コウレン)により高句麗を追放されます。
 420年に第3代安寧の弟の長男の正統継嗣の第18代反正(ハンゼイ)=新羅第18代実聖(ジツセイ)・尼師今(在位:402~417年)=百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)は、百済金氏朝を復興しました。
 475年、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王(在位:427~492年)により「DNA匈奴金氏」である百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=新羅第20代金氏慈悲・麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)=第20代安康]が追放され、百済金氏朝が滅亡します。記紀は、常套で百済蓋鹵(ガイロ)王および一族は皆殺しにされたとし、百済和邇氏雄略朝を創作しました。
 百済は、475年から501年まで第二期百済王空位時代になります。
 501年、百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=新羅第20代金氏慈悲麻立干(在位:458~479年)=第20代安康]の継嗣で、倭国で生育し、待機していた物部氏外戚系の「DNA匈奴金氏」である島君(セマキシ)(462年生まれ)が、百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)が簒奪した第26代継体との話し合いがまとまりやっと即位することができました。

5-8.雄略朝時代の大伴氏

 鮮卑族慕容部の百済での衰退によって台頭したのが、伽耶で親しい関係であった和邇氏と大伴氏です。

大伴氏で『大連』の称号をもつのは、第19代允恭(インギョウ)から第23代顕宗(ケンソウ)まで『大連』であった大伴室屋と第25代武烈から第26代継体まで『大連』であった大伴金村の二人だけです。大伴室屋は、物部氏12世代物部目(メ)との共同『大連』です。
 『大連』大伴室屋は、和邇氏と同盟して、伽耶出自の新羅王族・和邇氏系朴英失(ヨンシル)[=第21代雄略]を百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)に偽装擁立しました。

5-9.第26代継体時代の高句麗の大伴氏、物部氏と新羅の尾張氏

 492年の高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)の死亡と475年から501年までの第二期百済王空位時代の後に出現するのが「DNA匈奴金氏」である傍系庶子の第26代継体です。
 『大連』大伴室屋の孫で、大伴談の子の『大連』大伴金村は、第26代継体の子の新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)[=第25代武烈=(捏造王)百済第24代養子牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位:479~501年)]と高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)[=第26代継体]を擁立します。記紀は、この辺の実情を全く隠蔽・改ざんします。国史に、第25代武烈の残虐非道な逸話を記載することは通常あり得ないことです。隠された事情があります。

次に、『大連』大伴金村は、新羅・葛文王立宗[=第26代継体]を、物部氏と同盟して尾張氏と交渉して、高句麗王に擁立し、百済・高句麗・倭国の覇権を握ります。新羅は尾張氏が依然覇権を持ちます。
 第26代継体は、『大連』大伴金村に擁立され、新羅・尾張氏を外戚として、勢力を大きくしていきます。第26代継体は、父が新羅・葛文王習宝=尾張岐閉(キヘ)=彦主人(ヒコウシ)王、祖父が尾張弟彦=新羅・宝海、曾祖父が新羅第17代金氏奈勿(ナソツ)尼師今(ニシコン)(在位:356~402年)=第16代仁徳、母が呉系「トベ」系統の振(フル)媛[=新羅・金氏鳥生夫人=金官加羅王妃・淑]、伴侶が尾張目子(メノコ)媛=新羅摂政・只召太后=新羅・保道夫人です。第26代継体は、父方が尾張氏外戚、母方が物部氏外戚です。父の新羅・葛文王習宝[=尾張岐閉(キヘ)=彦主人(ヒコウシ)王]が早逝し、物部氏系統の母・振(フル)媛[=新羅・金氏鳥生夫人=金官加羅王妃・淑]の実家の物部氏領国の倭国近江国で育ったため、新羅王傍系庶子の第26代継体は尾張氏の支援をあまり望めず、大伴氏に頼りました。物部氏は、この頃は朝鮮半島に強い覇権をまだもっていませんでした。
 『大連』大伴金村が、倭国の母の里に居住していた新羅・葛文王立宗[=第26代継体]を倭国近江国から朝鮮半島に呼び戻し、共同して氐(テイ)族馮(フウ)氏から高句麗王を奪回し、高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)[=第26代継体]に擁立します。この頃、大伴氏は百済地域の覇権を握っており、百済を踏み台にして、高句麗に侵攻したと推測されます。
 500年、第26代継体は、新羅第22代智証麻立干(在位:500~514年)に就きます。501年の島君(セマキシ)(462年生まれ)の百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)即位との交換条件であったことが推測されます。
  514年、新羅で覇権を握っていた尾張氏が、新羅第22代智証麻立干(在位:500~514年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=金官加羅第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)=第26代継体]を追放し、継体の異母弟の尾張連草香を新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)に擁立します。
 高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)[=第26代継体]は、伴侶の高句麗小夫人[細(サイ)群]・尾張目子(メノコ)媛(尾張連草香の娘)=新羅摂政・只召太后=新羅・保道夫人と外戚尾張氏により、514年に新羅王を、519年に高句麗王を、532年に生国の金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)を追われ、若い時に最初に移り住んだ西アジアに永久移住し、西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)の吐務(トム)(552年に追贈か) で歿します。この波乱万丈の経歴から、第26代継体が倭国に来島する余裕などなく、また、倭国より西アジアを最後の地に選んだことからも倭国を統治したことはないのです。
  記紀は、第26代継体の朝鮮半島での追放流浪を、ヤマトに入るのに20年ばかり要したと日本列島に転写して記しました。第26代継体の朝鮮半島での流浪は、新羅・尾張氏と百済・大伴氏、物部氏の覇権抗争の余波であったとも言えます。

物部氏が、倭国と高句麗に覇権をもったのは、第25代武烈時代の物部総本家分家13世代『大連』物部麻佐良(マサラ)、第29代欽明時代の物部総本家分家13世代『大連』物部尾輿(オコシ)の時代です。『大連』物部尾輿(オコシ)は、第26代継体を擁立した『大連』大伴金村を失脚させました。
 527年(継体天皇21年、継体は77歳頃)、物部氏は、金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)[=第26代継体]の要請により、物部氏が支配する近江国の近江毛野率いる東倭国物部軍を朝鮮半島に出兵しようとします。これを九州に地盤をもっていた筑紫国造大伴氏磐井(イワイ)が新羅・尾張氏と組んで阻止しようと動きました。
 528年(継体天皇22年11月)に物部総本家分家13世代『大連』物部麻佐良(マサラ)の子の分家14世代物部麁鹿火(アラカヒ/アラカイ)は、大伴氏磐井(イワイ)を鎮圧しました。これが、磐井(イワイ)の乱と呼ばれているものです。これにより、『大連』物部麻佐良(マサラ)は、『大連』大伴金村を引退させました。大伴氏本体を征圧したわけではないですが、これにより、東倭国および高句麗の筆頭覇権者は、物部氏に移り、物部氏の栄華に入っていきます。ただし、大伴氏と大加羅国系呉系『大后』と伽耶の和邇氏との強い関係は、崩れませんでした。

5-10.第29代欽明の時代の物部氏

 物部宗本家は、第29代欽明(=蘇我稲目)の時代に継承者の大きな危機が起こりました。

物部宗本家は、10代『大連』物部伊莒弗(イコフツ)(17履中の時代)、11代『大連』物部目A(22清寧の時代)、13代『大連』物部目B(26継体の時代)、14代物部宇麻呂[=物部(蘇我)馬子(551年頃生~628年歿)=第31代用明(ヨウメイ)]、15代物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)[=第35代皇極(コウギョク)A]、16代物部(蘇我)入鹿と続きました。11代『大連』物部目A(22清寧の時代)が晩年に物部宇麻呂[=物部(蘇我)馬子(551~626年)]をなしたので、物部宇麻呂の世代は年令から決め、父は13代『大連』物部目B(26継体の時代)としたと思われます。

物部総本家11代『大連』物部目Aの分家は、12世代『大連』物部荒山(28宣化の時代)、13世代『大連』物部尾輿(第29代欽明の時代)、14世代『大連』物部麁鹿火(アラガイ/アラカヒ)(536年歿)(第27代安閑の時代)、14世代『大連』物部弓削守屋(587年歿)(第31代用明の時代)と続きました。

『大連』物部尾輿(第29代欽明の時代)の次は、物部宗本家分家14世代『大連』物部弓削守屋(587年歿)(第31代用明の時代)と物部宗本家14代『大連』物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)が幼少で、物部宗本家、物部宗本家分家から後継者を出すことができませんでした。それで、一時繋ぎに姻族の蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(第30代敏達の時代)を『大連』物部(大市)御狩として擁立しました。蘇我稲目は、物部宇麻呂の母方祖父です。

こうして、『大連』に三つの同世代の系統ができました。『大連』の同世代の三系統は、後に、物部氏と金氏蘇我氏との抗争を次々と引き起こします。

一つ目の系統は、物部宗本家分家13世代『大連』物部尾輿(第29代欽明の時代)の継嗣の14世代『大連』物部守屋(587年歿)(31用明の時代)です。物部守屋が587年に物部(蘇我)馬子に殺されたので、弟の物部石上贄古(ニエコ)が『大連』を継承します。

二つ目は、物部宗本家14代物部宇麻呂[=物部(蘇我)馬子(570年頃生~628年歿)=第31代用明(ヨウメイ)A馬子]です。先代旧事本記は、物部宇麻呂は、蘇我稲目(=第29代欽明)の子ではなく、物部 目(メ) と堅塩(キタシ)媛=新羅・阿陽公主との間の子としています。この継嗣は、物部(蘇我)蝦夷、物部(蘇我)入鹿と続きます。『大連』物部守屋は、8歳の物部宇麻呂を高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=第29代欽明=蘇我稲目]の子として、高句麗第25代平原王(在位:559~590年)に擁立します。542年、物部(蘇我)蝦夷は、高句麗宰相淵蓋蘇文により暗殺されます。645年、物部(蘇我)入鹿は、中大兄皇子等により暗殺されます。後継は、蝦夷の弟の『大連』蘇我麻呂が継ぎます。

三つ目は、一時繋ぎの『大連』物部大市御狩(先代旧事本紀)[=第29代欽明=蘇我稲目=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)]です。蘇我稲目は、物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子の母方祖父です。蘇我稲目の継嗣は、第34代舒明(ジョメイ)です。第34代舒明は、一時繋ぎの高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)に擁立されます。

蘇我稲目[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)]は、先ず大伴氏と組んで523年に百済王を奪取し、更に物部氏と組んで545年に高句麗王を奪取します。そして、「DNA呉系倭人混血縄文人」である物部氏と通婚同盟し、物部総本家の一時繋ぎの『大連』物部大市御狩(先代旧事本紀)を称します。

物部氏は蘇我稲目と組むことによって朝鮮半島の大伴氏や尾張氏を制し、倭国・百済・高句麗の覇権を握りました。 
 しかし、一時繋ぎの金氏蘇我稲目が、物部氏との約束を守らないで高句麗王に固執したことから、物部氏と「DNA匈奴」金氏との破局が始まります。

物部守屋が成人になり『大連』に就きます。『大連』物部守屋は、第29代欽明に高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)を退位するように迫りますが、拒否されます。559年、『大連』物部守屋は、実力で第29代欽明=蘇我稲目を朝鮮半島から追放し、8歳の物部宇麻呂を高句麗第25代平原王(在位:559~590年)に擁立し、高句麗物部朝を初樹立します。
 高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=蘇我稲目(506年生〜576年歿)=第29代欽明=『大連』物部大市御狩=百済第26代聖王/聖明王(在位:523〜554年)]は、古代からの祖郷の中央アジアに亡命移動し、西突厥のシルジブロス/室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562〜576年)に就いて、そこで歿します。三国史記百済本記は、百済第26代聖王/聖明王[=蘇我稲目]は、新羅戦で554年に戦死したと常套記載します。
<以上>

<投稿予定>
 5-11.物部氏の高句麗王朝の初樹立
 5-12.淵蓋蘇文の倭国亡命政権の時代の新羅・尾張氏
 5-13.統一新羅王室の危機と統一新羅による追放された「DNA縄文人」の帰化人
 5-14.和邇氏系藤原氏の時代と大伴氏
 5-15.天上の「DNA縄文人」である『天皇』、地上の政事統括者は和邇氏系藤原氏への移行
 5-16.「DNA縄文人」の後裔の支配者層達
6.記紀に関する今後の課題
 (1)「DNA縄文人」の多元性原理と「DNA源流鮮卑族」和邇氏の単元性原理の日本の根源のアイデンティティの相克