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2024.7.29<新版統合版>第二部 記紀の隠された論理的事実

写真:兵庫県西宮市の和邇氏の倭国始祖神の広田神社。


2.記紀の隠された論理的事実

2-1.記紀の皇統の「DNA種族」

(注)男性は、Y-DNAで表記される核染色体遺伝子のハプログループ(遺伝子分類群)です。女性はミトコンドリア遺伝子のミトコンドリアハプログループ(遺伝子分類群)ですが、女性遺伝子は遺伝子数が少ないため種族・部族の分類に対応させられないので、女性は便宜的に同じ種族の男性の「DNA種族」・Y-DNAを援用して、「母系DNA種族」・「Y-DNA相当」の表記を用いました。

「DNA種族」は、皇統の同一な継承系統を示すレベルのグループで、歴史的に特徴ある種族を便宜的に対応させたものです。これにより、皇統および王統の継承系統の推移が明らかになります。
 記紀の倭王『大王』は、多くの「DNA種族」からなり、つまり、中国で言えば易姓革命による王朝変更で、万世一系ではありません。
 しかし、「DNA縄文人」である父系制倭国政事統括者と「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制倭国『大后』は、それぞれ一つの「DNA種族」からなる万世一系です。

①「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」
(注)匈奴の近国王朝は、秦(紀元前905年~紀元前206年)、高句麗休氏/高氏朝、高句麗金氏朝、百済金氏朝、新羅借用昔氏&金氏朝、新羅金氏朝。
①-1. 「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」
<新羅借用昔氏&金氏朝(倭名は大国朝)>
・初代大国主・スサノオ=新羅第9代借用昔氏&金氏伐休尼師今(在位:184~196年)=金官加羅王初代金首露。
・第2代大国主・大歳=ニギハヤヒ=新羅太子・葛文王骨正=第10代崇神。
・第3代大国主・事代主(兄)=新羅第11代借用昔氏&金氏助賁尼師今(在位:230年~247年)。
・第4代大国主・建御名方主(弟)=八坂入彦=新羅第12代借用昔氏&金氏沾解尼師今(在位:247~261年)。

<新羅金氏朝>
・第3代安寧:父が新羅葛文王金仇道、祖父が新羅葛文王骨正=第二代大国主・大歳。
・第16代仁徳:3安寧の弟の二男。
・第3代安寧の弟の長子系の反正朝:18反正、19允恭、20安康、百済第25代武寧王。
・仁徳庶子系の継体朝:(雄略朝疑似継承:25武烈)、26継体、27安閑、28宣化、30敏達、32崇峻。
・第26代継体庶子の欽明朝:29欽明=蘇我稲目、33推古A達頭=上宮法王、34舒明、36孝徳。

<第34代舒明傍系の親新羅の倭国亡命政権>
・第37代斉明A淵蓋蘇文=重祚第40代天武。

①-2. 「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」
・神武Bニニギ朝:初代神武B憂位居(ユウイキョ)、2綏靖(スイゼイ)、4懿徳(イトク)。
・丹波道主・谿羽道(タニハミチ)主命:鮮卑族慕容部に臣属した神武Bニニギ朝後裔。

*①-3.「DNA秦王・秦氏系」・Y-DNA「O2a1b系」
・秦始皇帝(嬴姓趙氏)はY-DNA「O2a1b1a2a1a1a(CTS6279)」。
・秦河勝(子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥・世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親など)は、Y-DNA「O2a1b1a2a1a1a1(F25545)」。

②「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」
(注)前族や和邇氏の遠祖は日本列島や朝鮮半島の遊牧狩猟族であるので、「DNA源流鮮卑族」と本論では称します。日本列島を地盤としたのは「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a系」と「DNA源流鮮卑族八前(ヤサキ)氏/新羅昔氏」・Y-DNA「O2a2a系」です。これに対し、中国東北部から朝鮮半島南部を地盤としたのは「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」で、後に春秋時代燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)に属しました。「DNA源流鮮卑族和邇氏」から「DNA鮮卑族慕容部」が分枝しました。
(注)鮮卑族の近国王朝は、箕子朝鮮(古朝鮮)、漢(紀元前206年~紀元後8年、25年~220年)、新羅昔氏、北魏(386年~535年)、前燕(337年~370年)、隋(581年~618年)、唐(618年~907年)、高麗(936年~1392年)、李氏朝鮮(1392年~1897年)、大韓帝国(1897年~1910年)。

②-1.「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」
・鮮卑族初代神武A八前(ヤサキ)氏脱解(タレ)=高句麗第3代大武神(タイブシン)王脱解(タレ)(在位:18~44年)=新羅第4代昔(ソク/ソ)氏脱解(タレ)王 (在位:57~80年)=但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神=住吉神社祭神・底筒男命。
*高麗王・王建:Y-DNA「O2a2a1a1(M188, subclade-CTS201)」。
*呉延寵(海州呉氏:始祖は羅州の呉仁裕)、服部保長と服部正成先祖が伊賀国出身である播州姫路藩士・松原夏蔵:Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201, subclade-F4010.2, F1531)」。
*楚の武将、西楚の覇王と呼ばれた項羽(紀元前232~紀元前202):Y-DNA「O2a2a1a2(M7)」。
*前漢の高祖・劉邦(紀元前256~紀元前195):Y-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(F316)」。

②-2.「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」
(注)朝鮮半島中南部を地盤とし、辰王号を借用して使用。
・垂仁朝疑似継承:13成務。
・応神朝:15応神、17履中。
・17履中傍系雄略朝:21雄略、22清寧、23顕宗、重祚24仁賢(=21雄略)。
・17履中系天智朝:38天智(34舒明の養子)、39弘文、(藤原不比等)。

②-3.「DNA鮮卑族慕容部」・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」
(注)朝鮮半島を南下し、伽耶・新羅・百済を侵攻。前燕を建国。
・垂仁朝:(古志朝疑似継承王:9開化)、11垂仁、12景行、14仲哀。 
 
③ 「DNA縄文人混血呉系倭人朴氏」・Y-DNA「O1b2系」:高句麗倭人系古志朝
・6孝安=高句麗王族分国の大加羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)、7孝霊、8孝元。
(注)檐魯(タムロ)は、王族統治の分国・居留地の意。「檐魯(タムロ/エンロ)」を語源とする地名には「眈羅(済州)、淡路(兵庫県)」がある。
(注)古志朝の形式的継承元の第5代孝昭は、「DNA匈奴」である前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰に比定。前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰は、第11代垂仁=慕容皝(コウ)が臣族していた宗主。
(注)近国王朝は、春秋時代呉(紀元前585年頃~紀元前473年)、春秋時代越(紀元前600年頃~紀元前306年)、扶余国、高句麗呉系倭人朝(倭名は古志朝)、新羅朴氏朝。

④ 「DNA呉系倭人混血縄文人物部(蘇我)氏」・Y-DNA「D1a2系」:高句麗物部(蘇我)朝
(注)「DNA呉系倭人混血縄文人」である8歳の物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子は、「DNA匈奴金氏」である母方祖父の蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明(キンメイ)が実父であるとされて、『大連』物部入鹿により高句麗王に擁立された。これが悲劇の原因となった。記紀では物部(蘇我)朝を蘇我朝に改ざんして繰り入れた。本書では、蘇我氏と物部(蘇我)氏とを区別表記した。
・31用明A=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551生~628年歿)=高句麗第25代平原王(在位:559~590年)。
・35皇極A=物部宗本家15代物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)=高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)。
・物部宗本家16代・高句麗太子・物部(蘇我)入鹿。

⑤『大后族』:「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」
(注)中国江南地域に居住していた春秋時代呉人モン族や春秋時代越人ヤオ族は、秦の始皇帝や漢の武帝によりほぼ全員が中国東北地方に強制移住させられ、現在の中国江南地域にはほとんど後裔がいません。

⑤-1.「母系DNA縄文人混血呉系倭人」・Y-DNA相当「O1b2a1a1(CTS713)」
・ 記紀編纂者達の「トベ」系統の倭国『大后』。
⑤-2.「母系DNA縄文人混血越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」
・春秋時代越第一位祭祀女王の後裔の「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』。

2-2.記紀の歴代倭国『大王』は、歴代高句麗王(227年~642年)と歴代百済王(304年~660年)を単純合成した皇統譜

 記紀の歴代倭国『大王』は、第11代以降の歴代高句麗王(227年~642年)と第11代以降の歴代百済王(304年~660年)と同一人で、彼らを単純に合成した皇統譜です。つまり、記紀の歴代倭国『大王』の皇統譜は、高句麗王と百済王との重複者がいますが、概ね2倍の年数となります。したがって、記紀の歴代倭国『大王』の在位期間の西暦表示は原理的にできません。

(1)高句麗王統

 表6.高句麗王統の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』

(注)〇印は小林恵子が証明したこと。△印は本著による推論結果あるいは追加したこと。
(注)高句麗王妃は、実名、通名、隠名等が一切三国史記、記紀には残されていない。

 高句麗第11代高氏始祖東川王憂位居(在位:227~248年)(=神武天皇B憂位居)以降の高句麗王で倭王の称号をもたないのは、「DNA種族」が違う高句麗第20代氐(テイ)族馮(フウ)氏長寿王(在位:413~491年)と高句麗末王の[架空王]第28代宝蔵王(在位:642~668年)の二人だけです。
①倭国が『倭王・大王』を拒否した高句麗第20代氐(テイ)族馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~491年)
 高句麗第19代鮮卑族安氏広開土王/好太王(在位:391~412年)[=第16代仁徳天皇]は、前燕鮮卑族慕容部の慕容垂により擁立されました。
 「DNA氐(テイ)族」・Y-DNA「[O2(M122)]である馮(フウ)氏高璉(レン)は、北魏の命に従って、高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)[=第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿尼師今(在位:356~402年)]を三韓から追放し、事実上敗死させました。
 427年、北魏が氐(テイ)族馮(フウ)氏高璉(コウレン)を高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(レン)に封じました。
 しかし、倭国『大后』と倭国連合府(朝廷)は馮(フウ)氏高璉(レン)[=高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413-492年)]には『大王(=天皇)』の称号を承認しませんでした。高句麗第19代安氏広開土王は、第3代安寧(アンネイ)[=高句麗蜜友(ミツユウ)=新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)]の甥である貴種であったからです。
 そして、高璉(コウレン)が高句麗王に在位した413年~492年の間は、第18代反正(ハンゼイ)=百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)、第19代允恭(インギョウ)=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)、第20代安康=高句麗太子安興(宋書)=新羅金氏第9代・新羅第20代金氏慈悲・麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)、第20代安康の継嗣の百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)=島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)が生存していました。

②高句麗末王の第28代宝蔵王(在位:642~668年)
 高句麗第28代(末王)宝蔵王(在位:642~668年)は、高句麗宰相・将軍・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン)(=第40代天武(テンム)天皇[在位:673=686年])に擁立された架空王です。
 唐は、宝蔵王を捕虜として連行しますが、高句麗王の実体がなく、釈放します。

(2)百済王統

 表7.百済の王統譜の「DNA種族」と同一人の記紀の倭王『大王』

(注)〇印は小林恵子が証明したこと。△印は本著による推論結果あるいは追加したこと。
(注)百済王妃は、実名、通名、隠名等が一切三国史記、記紀には残されていない。

倭国『大王』の顔を持たない百済王は三人います。
①死後追贈された百済第12代契(ケイ)王(在位:344~346年)。
②三韓混乱期の百済第16代辰斯(シンシ)王[=難波根子建振熊(タテフルクマ)命]。
③第26代継体の摩腹子(養子)の百済第25代武寧(ブネイ)王。

②百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)
        =「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊(タテフルクマ)命
 第11代垂仁天皇から始まった「DNA鮮卑族慕容部」の垂仁朝は、第16代仁徳によって滅ぼされました。
 記紀は、氐(テイ)族符洛の渡来征服により、第14代仲哀=百済第13代近肖古(キンショウコ)王(在位:346~375年)の継承者の麛坂(カゴサカ)皇子、忍熊(オシクマ)皇子が滅ぼされたと記しています。
 これにより、百済王が空位(第一期:375年から420年)となります。
記紀と三国史記は、この百済王位の空位期を利用して、「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊(タテフルクマ)命を百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)に捏造します。したがって、百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)には、倭王『大王』の称号がありません。難波根子建振熊が実際に百済王に即位したのであれば、倭王『大王』を追賜されていてもおかしくありません。

③百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)
 百済第25代武寧王斯麻(在位:501~523年)(462生まれ~523年歿)は、第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=第20代安康=高句麗太子・興]の継嗣でした。そして、第26代継体の『摩腹子(注:新羅では、身分の低い官吏が妊娠した妻を自分の上役に贈る制度。)』になります。斯摩が倭国で生育していることが、正統な継嗣であることを示しています。高句麗、百済の混迷のため、斯摩は39歳頃まで倭国にいました。
 第26代継体の実子であった百済第24代東城王牟大(ムタイ、在位:479~501年)は、武寧王を阻止するために第26代継体が百済太子に送り込んだのですが、百済王位を剥奪して王位についたので、百済臣下から追放されました
 501年に百済第25代武寧王(在位:501~523年)はやっと即位しましたが、第26代継体は高句麗王、百済王の正統な後嗣である武寧王は自分の王位正統性をなくすものであるので、武寧王には倭王『大王』の称号を阻止しようと動きました。
 つまり、朝鮮半島と日本列島の覇権を握った第26代継体は、兄の子の百済第25代武寧王(在位:502~523年)には倭王『大王』を与えませんでした。
百済第25代武寧王が、和歌山県隅田(スダ)八幡神社所蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に叔父(弟王)・第26代継体を扶余の最高王の意の「日十(カ・ソ/ヘ・ソ)大王」と記し、忖度(ソンタク)した背景があります。

高句麗王や百済王の顔をもたない例外の倭王『大王』は、以下の四人がいます。
①第10代崇神天皇=ニギハヤヒ(形式的承継元)。
②雄略朝第23代顕宗天皇(即位が応急的な繋ぎで、記紀編纂時に捏造)。
③欽明朝第32代崇峻天皇(即位が一時的で、記紀編纂時に捏造)。
④舒明朝第39代弘文(コウブン)天皇(明治3年(1870)に追諡(ツイシ)。

①第10代崇神天皇=ニギハヤヒ
 第10代崇神天皇がニギハヤヒ=大歳であることは、『大妃』「妃」が同一人から比定しました。
「DNA鮮卑族慕容部」の第11代垂仁(スイニン)天皇[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304-344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337-348年)]は、「DNA匈奴」である漢の臣下でしたので、皇位正統性が最初はありませんでしたが、その後中国皇帝に即位しているので、形式的な継承元は不要であると考えられます。
 これは、中国王朝の支配力が強い西倭国の『大王』は形式上前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰(在位:310~318年)を第5代孝昭天皇においたのに合わせたものにするためと、記紀編纂者達の遠祖のヤマト初統一したニギハヤヒの権威を挙げるためでもあったのでしょう。垂仁朝が、倭王『大王』の系譜には不要であり、倭国『大后』の系譜のために挿入した配慮があったのでしょうか。

②雄略朝第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計
 新羅系譜の史料「花郎世紀」は、新羅王族・朴英失は第24代仁賢(ジンケン)天皇億計と同一人と記載しています。「DNA源流鮮卑族」和邇氏である第21代雄略天皇[=新羅王族・朴英失=百済第22代牟(ム)氏汶洲(文周)王(在位:475~477年)]は、第24代仁賢(ジンケン)天皇億計(=新羅王族・朴英失)と同一人となり、第23代顕宗(ケンソウ)天皇弘計は、第21代雄略天皇と双子の弟であることが考えられる架空王です。迷信から地方に引き離されていたと考えられます。

③欽明朝第32代崇峻(スシュン)天皇
 587年丁未、丁未の乱が起こり、蘇我馬子(=用明天皇=第16世代物部馬古)が、血統の誤解により物部氏第15世代『大連』物部守屋を滅ぼしました。蘇我馬子の実妹&伴侶で、物部守屋の異父妹である物部本宗家伴侶の額田部皇女(554年生~628年歿)を巻き込んだ「DNA弥生人混血縄文人」がもつ覇権の奪取をかけた倭国史上最大の内乱でした。
 587年、蘇我馬子(551年生~626年歿)は丁未の乱により自責により倭王『大王』を即剥奪されました。応急繋ぎで、異母(母は、蘇我稲目の娘・蘇我小姉君)の第32代崇峻(スシュン)天皇が継承しました。その後、聖徳太子が第32代崇峻(スシュン)天皇を廃皇し、崇峻(スシュン)天皇は蘇我馬子に殺されました。
崇峻(スシュン)天皇が在位している時は、百済は第27代余氏威徳(イトク)王余昌(在位:554~598年[=第30代敏達(ビダツ)天皇]が在位中でした。

(3)新羅王統

 高句麗王か百済王の顔がない新羅王は、表8に見られるように倭王『大王』の顔がありません。これは、倭王『大王』は、扶余族盟主の後裔である高句麗王と百済王に付随した称号で、属国的であった新羅は、扶余族盟主の後裔でないので、倭王『大王』の称号は付随しません。

 表8.新羅王と同一人の倭王『大王』、高句麗王、百済王

 表9.新羅王と同一人の記紀の倭王『大王』、及び、新羅王妃と同一人の倭国『大后』

2-3.倭国の政事統括者は万世一系の「DNA縄文人」

 倭国の政事統括者は、何千年から何万年にわたって万世一系の倭国の部族同盟を統括した大首長(後年の『大連』)で、圧倒的な人力、軍事力、財力、輸送力、情報力をもった「DNA縄文人」です。
 記紀の歴代倭国『大王』皆は、倭国の為政者であったり、倭国の領国を直接支配したりしたことはありません。

2-4.倭国『大后』の二つの系統

 古くからの呉系「トベ」系統・Y-DNA相当「O1b2系」と紀元後の越系「戸売(トメ)」系統Y-DNA相当「O1b2系」があります。
 日本列島を12万年にわたり原住し、統治した「DNA縄文人」と最初に部族同盟による通婚したのが「母系DNA呉系倭人」である弥生人の女首長『トベ』です。『トベ』は、女性あるいは男性の巫術者ですが、本書では『トベ』は、女性の倭国『大后等』だけを指すものとして用います。
 女性あるいは男性の巫術(フジュツ)祭祀者である「トベ(戸畔、戸弁、戸辨、戸辺、戸邊、戸邉、刀俾、戸部、富部、砥部、土部、等)」は、各地に存在記録が残っており、「トベ」の漢字の種類も多いのが特徴です。女性「トベ」は、系譜や相互の関係が残っていませんが、先住の日本列島各地に居住していた「DNA弥生人混血縄文人」と通婚した「母系DNA縄文人混血春秋時代呉系モン族倭人」であるとみられます。
 トベ」の各地の例として、表10に示します。

 表10. 呉系「トベ」系統の各地の例

「トベ」の名をもつ地名例です。
・戸部町(横浜市)
・戸部川(神奈川県)
・尾張国愛智郡戸部村
・伊予国伊予郡には砥部村→砥部町がある。
・信濃国斗女(トメ)郷は戸辺または富部(トベ)と呼ばれていた。
「トベ」の名がつく姓氏例です。
・戸辺(戸邉・戸邊)姓:千葉県(特に野田市)および関東の利根川沿いに集中している。
・戸部姓:群馬県に集中している。
・富部姓:静岡県に集中している。
・土部姓:神奈川県と富山県に集中している。

一方、「母系DNA縄文人混血越系倭人」の第一位祭祀女王である「戸売(トメ)」系統は、春秋時代越の第一位祭祀女王の後裔で、但馬と出雲と信州が本拠地で、系譜も残っています。ヤオ族の春秋時代越の王朝は、第一位が祭祀女王、第二位が政事男王でした。春秋時代呉は、第一位が政事男王、第二位が祭祀女王でした。後に、呉系「トベ」系統の倭国『大后』も、「戸売(トメ)」系統の第一位女王のアイデンティティを受け継ぎます。したがって、天上の祭祀女王が、地上の政事男王『大王』に下がる記紀の女帝は論理的にありえません。

女首長の地位を向上させたのは、270年頃に朝鮮半島加羅から「DNA匈奴金氏(倭名はオオ(太/大/多)族)」の大歳[新羅金氏5代・新羅葛文王骨正=第二代大国主・大歳=ニギハヤヒ(大物主B)=奴奈川彦=フル(古代高句麗語名)=第10代崇神]と共に来島した「母系DNA越系倭人」の第一位祭祀女王の後裔である越系「戸売(オメ)」系統の宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)[=二代戸賣(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=御間城(ミマキ)姫(10代崇神天皇の皇后の時代)=新羅金氏玉帽夫人=二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=加羅名:天知迦流美豆比賣(アメノチカルミズヒメ)=古代高句麗語名:ウガ=オオ国オオゲツヒメ=尾張国大海媛/大倭媛=高志国沼河姫=意富国阿麻(オオアマ)比売=葛木国高名姫命]です。宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)は、ヤマト東遷の途中に倭国の本拠地の但馬地方に寄っています。すでにこの時代でも日本列島と加羅・新羅の二つを本拠地としていました。また、宇迦御魂命は、他部族と同盟通婚したため、当時の日本列島の主拠点を示す別名をもっています。

高句麗と百済の建国女王・召西奴(ソソノ)も「母系DNA越系倭人」・Y-DNA相当「O1b1系」です。

「春日」は、「カ(加羅)・ス(村)・ガ(人)」=「加羅村の人」の意ですが、大賀羅国となる春日国を建国したのは、先住の「DNA縄文人混血呉系倭人」ではなく、「母系DNA越系扶余人 」である初代伽耶媛で初代戸賣(トメ)の春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)=加羅名:神大市比売(カムオオイチヒメ)です。神大市比売(カムオオイチヒメ)は、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」であるフツシ(古代高句麗語)=スサノオの伴侶です。春日国は女王国であり、春日氏は本来女性氏族名だったのです。

(注)「クラミ(倉見、闇見)」の音韻変化語は「カグ(香久)」、「カゴ(籠)」
 「クラミ(倉見、闇見、kurami)」は音韻変化して「カグ(香久、kagu)」、更に音韻変化してカゴ(籠、kago)」になりました。
 「クラミ(倉見、闇見)」の語源は、山風を利用した山谷での初期の鉄・鍛冶の業に由来し、その後、フイゴに移ります。
 天香久山の「カグ(香久)」、籠神社の「カゴ(籠)」は、朝鮮語の「金」や「銅」を意味する「カル」で、「クラミ(倉見、闇見)」と同意語であり、そして、「神聖な器=籠」の意味もあります。
 「籠」を編む竹が驚異的な成長力をもつことから中国大陸以来神聖視されました。竹で編んだ「籠」は、魚の入れ物であり、平安時代以前、神への供物入れでした。
 「カゴ(籠)」が二つの異なる意味を持っているのは、鉄・鍛冶の濊族(山神系)と漁業・農業(海・河神系)の中国江南人との部族合体、文化合体の由緒を象徴しているからです。この二つの流れを引き継いだのは、「DNA呉越系倭人混血縄文人」です。闇見国、籠神社は、弥生人系のものとの通説は正確ではありません。「DNA呉越系倭人混血縄文人」男性と「母系DNA呉越系倭人」女性の共同体です。

2-5.天上の第一位非政事為政者の倭国『大后』、そして、四韓の王妃との二つの顔

 「DNA縄文人混血呉越系倭人」・Y-DNA「O1b2系」の祖郷は、中国江南地域にありました。秦始皇帝や漢武帝により強制移住させられたため、祖郷の中国江南地方には後裔が現在全くいません。
 「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制・群婚制の倭国『大后』は、扶余族盟主(濊族、高句麗王、百済王)の王権の人的象徴で、倭国と四韓の天上の第一位非政事為政者であり、四韓の王妃との二つの顔をもっていました。記紀の倭国『大王』の四韓との二つの顔は、倭国『大后等』を模倣したものです。
 倭国『大后』は、非政事為政者として、祭祀、継嗣出産・生育、非政事統括者の継承者の指定権、政事統括継承者の指定権・承諾権・婚姻者指定権、後宮管理、母系の財産相続権、等の大きな権限をもっています。
 母系制に従って、四韓の継嗣は安全な倭国の『大后』の一族で生育され、成人すると朝鮮半島に永久回帰します。スサノオやアカルヒメが言うように「倭国は(四韓の)母の国」の由縁です。

また、倭国『大后』は、流浪の強いトラウマがあり、安全な倭国と本貫の伽耶・新羅の二拠点体制を保持しました。
 統一新羅は、独自の国体を示すために、高句麗や百済や倭国との王族の連枝を隠蔽し、高句麗王妃と百済王妃は三国史記、記紀等から一切隠蔽されました。しかし、倭国『大后』族と新羅王妃族は同体家族であったので、倭国『大后』は新羅名をもっており、史料にかなり残されていました。特に、新羅貴族の金大問が704年に執筆した「花郎世紀」の新羅王族の詳細な家族関係から新羅名の比定が可能でした。

 表11.呉系「トベ」系統の『大后等』の系譜と新羅名

 (注)〇数字は、相対的な世代数。

 表12.(推敲中)継体朝以降の「トベ」系統の『大后等』の血縁系統図

(注)〇数字は相対的代

 表13.越系「戸売(トメ)」系統の倭国『大后』の系譜と新羅名

 (注)〇数字は、相対的な世代数。

2-6.「DNA匈奴休氏」ニニギ族は「DNA匈奴金氏」の宗主

 大夏(たいか、拼音:Dàxià、中央アジアの国)の五候の筆頭の名は休蜜(キュウミツ)と言いました。南匈奴の可汗やシルクロード上の善善(ゼンゼン)国王の姓は休氏です。その後休氏一族は江南を経て南下し、先ず南海ルートで列島に入りました。エフタルの婚姻習俗は、一妻多夫制であり、兄弟共通でひとりの妻を娶ります。
 48年、中央アジアのエフタル系が移動した匈奴が分裂し、南の匈奴勢力が南匈奴になります。これに対して北に残った勢力を北匈奴といいます。南匈奴は19の種族によって構成されており、種族の下には部族があり、更にその下には氏族という単位がありましたが、それぞれ雑じりあうことがなかったと言われています。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑族と戦いました。
 屠客種/屠各種は匈奴の中心種族であり、君主・単于(呉音:ぜんう、漢音:せんう、拼音:Chányú)を輩出し、各種族を統領しました。攣鞮(レンテイ、拼音:Luándī-shì)氏は、紀元前4世紀から2世紀に中央ユーラシアに存在した遊牧国家匈奴の君主である単于を輩出した氏族で、南匈奴の屠各部の中心氏族です。南匈奴が崩壊すると中国風の劉氏に改姓しました。
 「漢書金イルチェ伝」によれば、南匈奴の祖は匈奴の休屠(キュウト)王の太子・金イルチェ/日磾(ジツテイ/ジチテイ、拼音: Jīn Mìdī、紀元前134年~紀元前86年)です。金イルチェは、初めて金氏を使った人物です。トゥフ職は、匈奴族の太子・金イルチェの家系だけのもので、前漢第7代皇帝武帝(在位:紀元前141年~紀元前87年)が考えた新しい漢の諸侯の官職名です。山東省荷沢市(トゥフ)に、漢皇帝が金イルチェに下賜した土地に「天の祭事を行うトゥフの子孫が七代続いた」というトゥソン遺跡があります。元来、休屠(キュウト)城に住んでいた匈奴五万人をトゥソンに連れてきました。「史記」に五万人、「漢書」に三万人と記されています。金イルチェは、「DNA匈奴休氏ニニギ族」と「DNA匈奴金氏」の祖と推測されます。
 中国山東地域の南匈奴には、「DNA匈奴休氏ニニギ族」・Y-DNA「O2a1c系」と「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」がいました。そして、共に、左回りの南海ルートの海路を通って奄美経由で南九州日向に来島しました。  
 そこで、ニニギは、「母系DNA倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である中国江南海人族のコノハナサクヤ媛との間にヒコホホデミを儲けました。ヒコホホデミはそこで海神の豊玉媛との間に「DNA匈奴休氏」ニニギ族の初代神武B憂位居の父のウガヤフキアエズ[後の高句麗第10代山上王位宮(在位:197~227年)]を儲けました。
 「DNA匈奴休氏ニニギ族」と「DNA匈奴金氏」は南九州から入りましたが、北九州には漢をバックに持つ既存勢力が強くて入れず、それで朝鮮半島に渡りました。そこで「DNA匈奴金氏」は、「DNA匈奴休氏ニニギ族」と離反して、金官加羅国を建国し、初代金首露王[=初代大国主・スサノオ]に就きます。ニニギ族は、この金氏の離反を許さず、後に金官加羅国に侵攻し、滅ぼします。

ニニギ族のウガヤフキアエズは、南九州から山東半島に回帰後、「DNA越系倭人」である高句麗第9代故國川王の妃・于(ウ)氏(鮮卑族の姓名:万恆干氏、医術をもった呪術者の家系)に擁立されて、高句麗第10代山上王(在位:197~227年)に即位しました。 

2-7.新羅借用昔氏(&金氏)朝(倭名は大国朝)の原初は金官加羅国の「DNA匈奴」金氏朝

 「DNA匈奴金氏」である金官加羅国初代金首露王は、「DNA匈奴休氏」ニニギ族による離反報復から新羅に避難移住し、新羅朴氏朝を簒奪しました。これが、新羅借用昔氏(&金氏)朝(倭名は大国朝)の原初です。
新羅借用昔氏(&金氏)朝(倭名は大国朝)は、新羅金氏第5代・ 新羅第9代借用昔氏(&金氏)伐休尼師今(在位:184~196年)[=金官加羅国初代金首露王=倭名:初代大国主スサノオ]を始祖とし、新羅金氏6世代・新羅第12代沾解泥師今(在位:247~261年)[=八坂入彦=建御名方神]で終焉します。
 新羅借用昔氏(&金氏)朝が滅ぼされて、新羅王の空位期(262~356年)が生じました。三国史記新羅本記は、この空位期を埋めるために実在者を新羅王に捏造しました。捏造されて新羅王は、新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)、新羅第14代借用昔氏(&金氏)儒禮尼師今(在位:284~298年)、新羅第15代借用昔氏(&金氏)基臨尼師今(在位:298~310年)、新羅第16代借用昔氏(&源流鮮卑族和邇氏)訖解(キッカイ)尼師今(在位:310~356年)=第13代成務です。新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今が王朝変更したにもかかわらず一代限りであったり、新羅王第14代と新羅王第15代の系譜が不鮮明であったり、新羅王第16代は別な一代限りの別な「DNA種族」の王であるなど、不自然さが多々あります。

2-8.記紀の倭国金氏朝は、新羅王族分国の金官加羅国を出自とする新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)=第3代安寧が始祖で、第36代孝徳=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)で終焉

 第3代安寧=新羅金氏7世代・新羅金氏始祖始祖味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)=新羅葛文王未鄒=高句麗・蜜友(ミツユウ)]は、宗主・ニニギ族の高句麗の臣下であったので、新羅王の王位正統性を宗主・ニニギ族を継承元とすることによって補います。
 記紀の倭国金氏朝の系譜者は、第3代安寧=新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)王(在位:262~284年)、第16代仁徳、第18代反正、第19代允恭、第20代安康、第25代武烈、第26代継体、第27代安閑、第28代宣化、第29代欽明=蘇我稲目、第30代敏達、[架空王]第32代崇峻、[架空王]第33代推古A達頭=上宮法王、第34代舒明、第36代孝徳です。

因みに、加羅諸国は、高句麗(大賀羅)、百済(南部辰韓12ケ国)、新羅、倭国(任那府)の王族分国(タムロ)があり、そのため統一国にできませんでした。新羅は、金官加羅、大賀羅を、他部族の侵攻の脅威がなくなっても本貫として新羅王族分国として持ち続けました。後の新羅による金官加羅、大加羅の併合は、侵攻併合ではなく、お家騒動を起こす分国を解消した併合です。

2-9.朝鮮半島を南下した「DNA源流鮮卑族」和邇氏

(1)朝鮮半島を南下した「DNA源流鮮卑族」和邇氏が二つに分岐

 日本列島と朝鮮半島の鮮卑族の祖が古代遊牧狩猟民族であることから、「源流鮮卑族」と本論では呼ぶことにします。
紀元前0世紀、沸流百済が南下して侵攻したので、京畿辰韓(ソウル江南区)に本拠をおいていた和邇氏は、後の百済の国都となる熊津(クマナリ)に南遷した和邇氏(以後、百済系和邇氏と呼ぶ)と現韓国江原道の濊国の対岸にあった現鬱陵島に建国した于山国/羽山国(ウザンコク)(以後、新羅系和邇氏と呼ぶ)の二つに分岐しました。

金聖昊(キム・ソンホ)は、鈴木武樹の「地名・苗字の起源」(1976年)の方法を用いて、「DNA源流鮮卑族」和邇氏等の古代の朝鮮半島での移動経路を、地名の年代移動の位置変化の追跡という科学的手法を用いて明らかにしました(出典元:金聖昊(キム・ソンホ)『沸流百済と日本の国家起源』株式会社成甲書房 1983年)。金聖昊(キム・ソンホ)は、朝鮮半島内の十万以上の現在地名とか古地名から一つの種族が専用した指標地名を探し出して、移動経路と定着地域を統計的に解析しました。古代種族は自分たちのトーテムとか原住地名などから由来した特定の地名を専用していました。金聖昊(キム・ソンホ)は、このような地名を種族固有な「指標地名」と呼びました。
 それによると、「DNA源流鮮卑族」和邇氏の指標地名は「牟羅(ムラ)系」で、中国東北部から広州馬韓(ソウル江南区)の東界地に南下して京畿辰韓をつくり、箕(キ)氏辰国に臣族しました。紀元前2世紀、京畿辰韓に亡命していた箕氏朝鮮の最後の準王が没し、箕氏辰国が終わりました。この後、京畿辰韓に先住していた豪族の和邇族が、馬韓の統率者となり、「辰国辰(シン)王」称号を使用しました。

紀元前75年、馬韓の和邇氏は、馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓としました。馬韓は、馬韓(マハン、後に百済)、辰韓(チンハン、後に伽耶諸国)、弁韓(ビョンハン、後に新羅)の三韓に分裂しました。
 紀元前57年、「DNA縄文人混血呉系倭人」である新羅初代朴氏始祖赫居世居西干(コセイカン、王称)(在位:紀元前57~4年)が、現韓国の漢江南岸に「徐那伐(ソフル)」を建国し、60年まで国都にしていました。つまり、和邇氏と朴氏は古い知り合いです。
 紀元前0世紀、沸流百済が南下して侵攻したので、京畿辰韓(ソウル江南区)に本拠をおいていた和邇氏は、二つに分岐しました。
 
一つは、後の百済の国都となる熊津(クマナリ)に南遷した和邇氏(以後、百済系和邇氏と呼ぶ)です。記紀がこの系統の象徴神としたのが、応神朝第15代応神天皇[=(捏造王)百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王(在位:392~405年)]です。
 
もう一つは、現韓国江原道の濊国の対岸にあった現鬱陵島に建国した于山国/羽山国(ウザンコク)で、512年に新羅が併合した系統(以後、新羅系和邇氏と呼ぶ)です。記紀がこの系統の象徴神としたのが、応神朝第17代履中天皇[=莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)=(捏造王)百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)]です。

(2)百済系和邇氏

 沸流(フル)百済の台頭によって、馬韓・辰韓・弁韓の盟主の百済系和邇氏の借用辰王は象徴的な王族となって権力を喪失しました。借用辰王和邇氏は、沸流百済に従属し、通婚によって沸流百済王室の子弟宋親となって、月氏国の檐魯(タムロ/エンロ、注:王族統治の分国の意)主の臣智に任命されました。
  その後、借用辰王和邇氏は、馬韓から借用辰王に属していた南部辰韓12ケ国(現在の慶尚道の地域)に移りました。この時の中心地が加羅諸国の熊成(クマナリ))/熊川[確かではないが、金官加羅に隣接した南側の海沿いか?]です。

375年に「DNA匈奴金氏」である広開土王=第16代仁徳により「DNA鮮卑族拓跋部」である沸流(フル)百済の百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)=慕容 臧(ボヨウゾウ)が滅亡し、百済系和邇氏は高句麗に従属した温祚(オンソ)百済に臣属し、百済・熊津(クマナリ)に帰りました。三国史記百済本記は、396年に氐(テイ)族馮(フウ)氏高璉(コウレン)[=高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王(在位:427~492年)=木梨軽皇子(キナシカルノミコ) ]が百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)を滅ぼしたと改ざんしました。

(3)新羅系和邇氏

 新羅系和邇氏は、伽耶で倭国の前(サキ)族が新羅に渡来した新羅昔氏と秦氏と連携します。
 651年に于山国/羽山国(ウザンコク)は、新羅に併合され、加羅諸国の熊成(クマナリ))/熊川[確かではないが、金官加羅に隣接した南側の海沿いか?]を本拠地としました。

記紀がこの系統の象徴神としたのが、応神朝第17代履中天皇[=莵道稚郎子/宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)=(捏造王)百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)]です。垂仁朝に、倭国に漢字等の大きな文化・文明を直接及ぼしたのは、鮮卑族慕容部ではなく、新羅系和邇氏です。「宇治」の地名は、古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されましたが、平安時代に「宇治」に定着したとされています。播磨(ハリマ)国風土記は、莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)を宇治天皇と記しています。また、「稚(ワキ)」は、「若(ワカ)」の転訛ではなく、中国の「別(ワケ)=王」の意です。京都府宇治市宇治山田に菟道稚郎子を祭神とする隣接する宇治(ウジ)神社と宇治上神社があり、トーテムが兎です。

新羅系和邇氏は、倭国『大后』の外戚として、大きな影響力をもっていましたが、第26代継体の時代に記紀から理由もなく突然消えます。しかし、伽耶に地盤をもっており、後裔が新羅波珍飡(4等官)金善品[=第38代天智]、藤原不比等です。

(注)「太」の漢音は「ウジ(漢音)」、古代高句麗音は「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」で、同意語です。「ウジ(漢音)」の形成漢字は、菟道、宇遅、宇豆、太、勿吉(ピンイン:Wuji)、藤です。「フツ(古代高句麗音、モンゴル語)」の形成漢字は、沸流、宇遅、太、です。

2-10.『大后』皇統の父系祖の日本列島を集約した高句麗系呉系倭人朝(第6~9代、300年~391年)と朝鮮半島を集約した百済系垂仁朝(第11~14代、304年~375年)は並立皇朝

 表14.記紀の皇朝前期の皇朝期間

2-11.国祖第10代崇神はニギハヤヒ[=第二代大国主・大歳]

 記紀には、初代神武Bと第10代崇神の二人の国祖が記されていることは不思議なことと思われていますが、その論理的根拠は解明されていませんでした。
 史料から分析した小林説は、第10代崇神天皇は非実在としました。的を得ています。

「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(ボヨウカイ、Murong Hui 、生没年:269年~333年)、慕容皝(コウ)[=第11代垂仁天皇=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝(在位:337~348年)]は、「DNA鮮卑族」劉氏系の前趙(漢)の臣下であったため、倭国では皇位継承の正統性がありませんでした。しかし、第11代垂仁は、百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)であり、前燕を建国した前燕初代文明帝(在位:337~348年)です。第11代垂仁には継承元が必要であるとは思われません

第10代崇神天皇がニギハヤヒ=大歳であることは、『大妃』「妃」が同一人等から比定した根拠を次に示します。
 第10代崇神天皇の和風諡号・御間城(ミマキ)入彦五十瓊殖(イニエノ)天皇は①任那加羅出身をあらわし、『大后』は②御間城(ミマキ)姫、『妃』は③意富阿麻(オオアマ)比売(日本書記)=尾張大海媛(古事記)であり、これらはらニギハヤヒ=第二代大国主大歳=大物主Bと同じ条件①②③であります。「御間城(ミマキ)」は「加羅=任那」の意ですので、『大后』御間城(ミマキ)姫は、②伽耶生まれの「母系DNA縄文人混血越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」の第二代戸賣・沙本(サホ)之大闇見(クラミ)戸賣=宇迦御魂命=新羅・玉帽夫人ですので、父は「DNA匈奴金氏」である新羅金氏6代・新羅葛文王骨正の同父母の弟の新羅王子借用昔氏(&金氏)伊買の子の新羅金氏7世代・新羅第10代借用昔氏奈解尼師今、母は「母系DNA越系倭人」春日氏である新羅・述礼夫人=初代戸賣・春日建国勝戸賣=(加羅名)初代伽耶媛・神大市比売(カムオオイチヒメ)です。

伽耶生まれの第二代戸賣・沙本(サホ)之大闇見(クラミ)戸賣=宇迦御魂命の伴侶は、①加羅生まれの大歳=ニギハヤヒです。
 『妃』の③意富阿麻(オオアマ)比売(日本書記)=尾張大海媛(古事記)=尾張大倭媛 (先代旧事本紀)=高志沼河姫 (先代旧事本紀)=葛木高名姫命 (先代旧事本紀)は、第二代戸賣・沙本(サホ)之大闇見(クラミ)戸賣=宇迦御魂命の部族同盟名です。
 従って、『大后』御間城(ミマキ)姫=『妃』意富阿麻(オオアマ)比売(日本書記)の伴侶である渡来弥生人系の第10代崇神は、「DNA匈奴金氏」である大和祖王のニギハヤヒ=大歳となります。

もう一つ、第10代崇神がニギハヤヒである別な根拠が、尾張氏と海部氏の系図の中にあります。尾張氏と海部氏は、同祖を天火明天命(=ニギハヤヒ)とする通婚同盟氏族です。第2代綏靖(スイゼイ)の時代の第4代尾張氏から「DNA縄文人」尾張氏と「DNA縄文人混血呉系倭人」海部氏は分岐した系図になります。天火明天命(=ニギハヤヒ)は、「DNA匈奴金氏」です。第10代崇神の時代、尾張氏と海部氏の両氏族に突然同一人の第12代建稲種(タケイナダネ)命が記載されます。第12代建稲種命は尾張氏と海部氏の共通宗主であるということは、ニギハヤヒ=大歳を指します。

第10代崇神=ニギハヤヒは、中国王朝の支配力が強い西倭国の『大王』は形式上前趙(漢)第3代劉氏昭武帝劉聰(在位:310~318年)を第5代孝昭天皇においたのに合わせたものにするためと、記紀編纂者達の遠祖のヤマト初統一したニギハヤヒの権威を挙げるためでもあったのでしょう。

(注)天理市石上(イソノカミ)神社に伝承される大歳の家族の古代高句麗名
「石上(イソノカミ)神社」の「石(イソ)」は「越=高志」と同義語です。石上(イソノカミ)神社は、当時通い婚であった「母系DNA越系倭人」である妻宅です。
・祖父:古代扶余名:フツ。
・父:古代高句麗名:フツシ[=スサノオ]。
・母:古代高句麗名なし。初代伽耶媛・神大市比賣(カミオオイチヒメ)=初代戸賣・春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)。
・息子:古代扶余名:フル[=オオトシ(大歳)=ニギハヤヒ(饒速日尊)=大物主神B(三輪明神)]。
・大歳妻:古代扶余名:ウガ[=ウガノミタマ(宇迦御魂)=トヨB=加羅国名:天知迦流美豆比賣(アメノチカルミズヒメ、伽耶生まれ)=第二代戸賣・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)]。

2-12.第10代崇神が派遣した四道将軍の実体は、古くからの東倭国の呉系「トベ」系統の倭国『大后』系の領国の示威が目的

 日本書記は、第10代崇神が倭国を制覇するために、四道将軍を派遣したと記しました。何故か、これには重要地域の九州地域と出雲地域と四国が入っていません。記紀の四道将軍は、対応する出来事がない不自然な記載です。
記紀の第10代崇神が倭国平定と称して派遣した四道将軍の実体は、東倭国の呉系「トベ」系統の倭国『大后』系の支配国を表し、男嗣子が政事統治していた地域です。これらの地域は、①尾張氏系東海道、②物部氏系丹波、③女王国吉備、④尾張氏系古志国です。
 これは、越系「戸売(トメ)」系統に対する呉系「トベ」系統の倭国『大后』の権勢誇示をするためです。派遣将軍から主要地の九州と出雲と四国が外されているのは、国譲り後も東倭国の直接支配外の地域であったからです。

2-13.神功皇后と第13代成務の役割は垂仁朝の応神朝への継承性の象徴化

 「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁の庶子の神功皇后と「DNA源流鮮卑族和邇氏」である竹内宿祢=新羅第16代借用昔氏訖解泥師今(在位:310~356年)=第13代成務[=(捏造王)百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)]の記紀の役割は、「DNA鮮卑族」の慕容部垂仁朝の和邇氏応神朝への皇朝の継承性の象徴化です。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后は、和邇氏応神朝を創作するために必要でした。つまり、鮮卑族慕容部の垂仁朝と和邇氏応神朝を繋ぐ役割です。このため、神功皇后は、記紀では大天皇並みに扱いました。  
 「神功」は朝鮮語読みで、「機張」「気長」と同じ音の「キジャン」です。「気長足姫尊」とは、「気長(キジャン)の国の姫尊」という意味です。古代朝鮮では、国、次に小さい国は「原」、その次に小さい国は「足」です。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后は、長門国二之宮忌宮(キノミヤ)の伝承と釜山の東側、蔚山(ウルサン)市と接する機張(キジャン)郡の古代の伝説で、「匈奴金氏」である新羅に攻め滅ぼされた機張(キジャン)国の媛があります。それで、第11代垂仁の庶子である「気長足姫尊」は、百済、倭国に亡命しました。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后の父は、記紀では息長宿祢(=丹波・陳安=高句麗・陳安)とされていますが、実際は母方祖父です。実父は「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)]です。第11代垂仁(スイニン)が、神功(ジングウ/キジャン)皇后の実父を暗示する息長宿禰王(オキナガスクネノミコ)]の別名をもつ由縁です。息長宿祢(=丹波・陳安=高句麗・陳安)は、母方の祖父ですが、神功(ジングウ/キジャン)皇后が庶子ゆえに父の役割をしていました。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后は「DNA鮮卑族慕容部」である第9代開化天皇の玄孫とあるのは、時代的には逆ですが、同じ「DNA種族」を表わして、父が第11代垂仁(スイニン)であることを暗示しています。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后が、「DNA源流鮮卑族」和邇氏である第13代成務天皇[=竹内宿祢(百済木羅氏、蘇我氏祖、384年歿)=(捏造王)百済第14代近仇首(キンキュウシュ)王 (在位:375~384年)=新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)・尼師今(在位:310年~356年)]と共に百済に亡命し、「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)[=第14代仲哀=慕容 臧(ボヨウゾウ)]の王妃となったのは、「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)の庶子である血統によるものです。
 神功(ジングウ/キジャン)皇后の母は葛城(カツラギ)高顙/高額(タカヌカ)媛、父は息長宿祢(=丹波・陳安=高句麗・陳安)とされていますが祖父で、実父は第11代垂仁(スイニン)です。
 神功皇后は、「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)の庶子で、母が「DNA縄文人混血呉系倭人」の天日槍(=第6代孝安天皇)の孫の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」葛城氏である葛城(カツラギ)高顙/高額(タカヌカ)媛で、母方祖母が「母系DNA縄文人混血呉系倭人」葛城氏である菅竈由良度美(スガカマユラドミ)、母方祖父が「DNA縄文人混血源流鮮卑族昔氏/前族」と推測される息長宿祢=丹波・陳安=高句麗・陳安です。因みに、「DNA縄文人混血呉系倭人」の新羅葛城氏の倭国通名は「葛城鴨氏」、新羅名は「朴氏」です。
 また、神功(ジングウ/キジャン)皇后は、「DNA源流鮮卑族」和邇氏である百済豪族の難波根子建振熊(タテフルクマ)=第15代応神・品陀(ホンダ)真若王=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王 (在位:385~392年)と同盟をしました。

2-14.和邇氏応神朝(第15、17代)と和邇氏雄略朝(第21~25代)は、百済王空位期(第一期:375年~420年、第二期:475年~501年)を利用して和邇氏実在者を百済王に捏造した呉系「トベ」系統『大后』の父系祖の粉飾

2-15.「倭の武王」は反正朝(倭国第18~20代)の正統継嗣の百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)

 倭の五王についてはいろいろな説があり、特に倭王武については強い説がありません。これは、国内の記紀の皇統内で比定しようとすることに原因があります。そして、古代は特に強いですが、現在の王統でも血統の継承性が基本になります。血統の継承性がないものが易姓(エキセイ)革命です。
 「倭の武王」は新羅金氏7世代・新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今の弟の長男系の反正朝(倭国第18~20代)の正統継嗣者の「DNA匈奴金氏」である新羅金氏11世代・百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)です。
 「倭の武王」は、新羅金氏7世代・新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今の弟の長男系の反正朝(倭国第18~20代)の正統継嗣の「DNA匈奴金氏」である新羅金氏11世代・百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)です。
 本来、斯麻(シマ)は記紀の皇統に記載されるべきでありましたが、庶子系統の第26代継体により王位を簒奪され、記紀に記載されなかった『大王』です。
 日本列島の「倭国」の名の由来が国史に残されていないのは不思議なことです。倭の武王が百済武寧王であれば、「倭」とは日本列島の倭国を指していないことになります。
 四韓の王統は、血統が王の正統性を示します。王統が変わった場合、「宋書(ソウジョ)」は明記すると考えられますので、「倭の五王」は同じ血統と考えるのが自然です。つまり、「DNA種族」が違う第15代応神や第21代雄略は候補者にはなりません。
 讃・珍・済・興は新羅王として、武は新羅王継嗣の百済王として実在しています。

「倭の五王」のそれぞれは、倭王讃=第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)]、仁徳の兄の倭王珍=第18代反正(ハンゼイ)=新羅第18代金氏実聖(ジツセイ)尼師今(在位:402~417年)[=百済第19代久尓辛(クニシン)王(在位:420~427年)]、第18代反正の継嗣の倭王済=第19代允恭(インギョウ)=新羅第19代金氏訥祇(トツギ) 麻立干(在位:417~458年)[=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)]、第19代允恭の継嗣の倭王興=第20代安康=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)[=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)]、第20代安康の継嗣の倭王武=百済第25代武寧(ブネイ)王島君(セマキシ)/斯麻(在位:501~523年)]と比定されます。
  百済第武寧(ブネイ)王島君(セマキシ)/斯麻は、新羅王族傍系庶子の第26代継体に王位を簒奪・阻止をされ、朝鮮半島の難を避けて39歳頃まで倭国に居住しました。

「倭の五王」とは、記紀の人為的に創作された倭国『大王』が該当しないことことは本論からも明白で、新羅王ないし新羅王継嗣に対する称号と考えるのが自然です。

2-16.新羅金氏11世代・第26代継体の「継体」とは、新羅金氏8世代・第16代仁徳の「体の継承」の意

 新羅金氏11世代・第26代継体は、父が新羅金氏10世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)で、早逝したとはいえ、新羅太子級の官位と、尾張氏の倭名をもっていました。また、継体の母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国妃・淑=近江国振(フル)媛は、父が新羅金氏9代・新羅第19代金氏訥祇(トツギ)麻立干(在位:417~458年)=高句麗第20代金氏毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)=第19代允恭、母が第18代反正(ハンゼイ)の娘の物部氏外戚系の新羅妃・阿老夫人/次老夫人=新羅・延帝夫人=新羅・普賢公主(花郎世紀)=忍坂大中姫です。第26代継体は、新羅王族分国の伽耶が出自の新羅王子庶子系です。
 これに対し、新羅金氏11世代・百済第25代武寧王斯麻(シマ)(在位:501~523年)は、父が新羅金氏10代・第20代安康=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)[=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)]で、新羅金氏の正統継嗣です。斯麻(シマ)は継嗣であるので、倭国で生育されました。
 庶子系の第26代継体は、継嗣の斯麻(シマ)から皇位・王位を簒奪しましたので、継承正統性を粉飾する必要がありました。第26代継体が継承元としたのは、第18代反正の弟で、初の高句麗王となり、高句麗最大の領土を獲得した偉大な第16代仁徳です。
 新羅金氏7世代・新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今の弟・新羅角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)=新羅伊飡(2等官)大西知(ダイセイチ、テソチ)の長男が新羅金氏8代・第18代反正で、二男が新羅金氏8世代・第16代仁徳です。
 第26代継体以降が記紀の本史です。
 つまり、第26代継体の「継体」とは、第16代仁徳の「体の継承」の意です。

第16代仁徳から第26代継体までの新羅の父系祖の系譜は、以下です。
①曾祖父:第16代仁徳=新羅金氏8世代・新羅第17代金氏奈勿(ナソツ)尼師今(在位∶356~402年)
 ・曾祖母:未詳[推測:先皇后・尾張氏系葛城国磐(イワイ)之媛命]。
②祖父:新羅金氏9世代・新羅・宝海=尾張弟彦
 ・祖母:未詳。
③父:新羅金氏10世代・新羅葛文王(官位1等官)習宝=彦主人(ヒコウシ)王=尾張岐閉(キヘ)
 ・母:新羅金氏鳥生夫人=金官加羅国第9代鉗知王(在位:492~521年)の妃・淑=近江国振(フル)媛。
④新羅金氏11世代・第26代継体
 ・王妃:新羅朴氏思道夫人=手白香(タシラカ)皇女[母は新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女、父は重祚第24代仁賢(ジンケン)=和珥日爪(ワニノヒツメ)=新羅・朴英失]。
 ・妃:新羅・息道夫人(生没年未詳)=尾張目子媛[高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~498年)の妃]=金官加羅国妃・金桂花[金官加羅国第10代金仇衡の妃、新羅第24代真興王(在位: 540~576年)=高句麗第23代安原王(在位:531~545年)(=第28代宣下)の摂政・只召(チソ)太后[父は新羅第23代法興王(在位:514~540年)=尾張連草香、母は未詳]。

第16代仁徳から第26代継体までの系譜をみると、不可解なところがあります。尾張氏の名をもつ祖父と父に対し、曾祖父・第16代仁徳と第26代継体には尾張氏の名が見いだされませんでした。

日本書紀によれば、450年頃に第26代継体は近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生しており、母の新羅金氏鳥生夫人=金官伽倻国第9代鉗知王(在位:492~521年)の妃・淑=振(フル)媛は、倭国の古志国ではなく物部氏領国の近江国が拠点です。振(フル)媛の母の忍坂大中姫は、和邇氏系、物部氏系です。したがって、第26代継体には、尾張氏の別名がなくても不思議ではありません。
 日本書記編纂者達は尾張氏系であり、第26代継体は遠祖であるので、尾張氏(古志)系にこじつけています。
 したがって、母の新羅金氏鳥生夫人=振(フル)媛は呉系「トベ」系統の大加羅国が本貫国で、第26代継体が生まれた所は新羅王の妃系の大賀羅国です。母の新羅金氏鳥生夫人=振(フル)媛が、金官加羅国第9代金鉗知(カンチ)王(在位:492~521年)の妃・淑となったことや、第26代継体が、最後に金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)に就いたことは、新羅王族分国系であることを裏付けています。

2-17.金官加羅国王族(第16代仁徳、第26代継体、第29代欽明、等)は祖郷の中央アジア(突厥)が第二本拠地

・第16代仁徳
 成人になり、鮮卑族慕容部の前燕に仕官。古代イランの王朝である安息国=パルティア(紀元前247年~紀元後224年)の後裔を自ら任じ、安氏高句麗第19代広開土王(在位:391〜413年)を名乗りました。
・第26代継体
 成人になり、北魏と中央アジアの柔然に出る。西突厥の大葉護(ヤブグ:官名)吐務(トム)(在位:552年)[=高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=新羅第22代智証・麻立干 (在位:500~514年)=金官加羅国第10代(末王)金仇衡(キュウコウ)王(在位:521~532年)]に就く。
(注)突厥(トッケツ)、鉄勒(テツロク)は、いずれも「トルコ=テュルク」の形成漢字。
・26継体の長男の土門(古テュルク語:ブミン):
 土門は、大可汗・伊利(イリ)可汗(在位:552年)に就く。
・26継体の次男の第29代欽明(506年生~576年歿):
 西突厥初代西面可汗・室点蜜(イスミテ)/シルジブロス(在位:562年~576年)[=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=新羅粛訖宗(スックルチョン)(父は葛文王立宗=26継体、母は金珍娘主)=新羅・魏花[魏花は只召(チソ)太后の情人]=蘇我稲目(506年生~576年歿)=第29代欽明]に就く。
・29欽明と尾張目子媛の子の蘇我堅塩(キタシ)媛
 サーサーン朝ペルシア帝国第13代皇帝ホスロー1世(在位:531~579年)の妻になる。
・蘇我堅塩(キタシ)媛の子の第31代用明A物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)
 サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)に就く。 

法隆寺の救世(グゼ)観音の冠は、サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)[=物部(蘇我)馬子]の王冠で、サーサーン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:630年)[=達頭]も着用したものと推測されます。法隆寺夢殿の本尊・観音菩薩立像(救世観音)は、達頭の娘である中宮皇后[=間人(ハシヒト)皇女=(推測)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)]の中宮寺に隣接している由縁です。救世観音は、達頭というよりは、物部(蘇我)馬子がモデルである方が自然です。

・29欽明と蘇我堅塩(キタシ)媛の子の額田部皇女(554年生~628年歿):
 サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)の王妃(推測:王妃マリア)になる。
・29欽明の子の第33代推古A達頭(553年頃生~630年歿):
 成人になり、中央アジアの柔然と西突厥に出る。西突厥第2代西面可汗・達頭可汗(タットウ・カガン)阿史那氏玷厥(テンケツ)(在位:576年~603年)=第33代推古A達頭。サーサーン朝ペルシア帝国のシャフリバザール宰相・将軍となり、サーサーン朝ペルシア帝国第17代皇帝シャフルバラーズ(在位:630年)に就く。
・額田部皇女と達頭の子の宝皇女(593年生~661年歿):
 第2代西面可汗・達頭と額田部皇女との間の子で、生地は中央アジア。
・第33代推古A達頭の子の山背皇子
 サーサーン朝ペルシア帝国第19代末王皇帝ヤズドガルド3世(在位:632~651年)に就く。
(注)記紀は、643年に聖徳太子のもう一人の継嗣の山背皇子一族は、(物部)蘇我入鹿により斑鳩(イカルガ)宮を襲われ、一族皆自害したと常套手法で改竄しています。
・山背皇子の子のベローズ3世(中国名:卑路斯)[在位(亡命中):651~679年]:
 唐の将軍を務め、中国の領土に居住し、祖母・宝皇女を訪ねて二度来島(日本書記に記載されている)。

(注)法隆寺の夢殿に伝来するサーサーン朝ペルシアの遺品:小林恵子「聖徳太子の正体」文藝春秋刊 から引用
 「法隆寺の夢殿に伝来された四騎獅子狩文錦は文様がササン朝ペルシアの流れを汲み、西アジアと日本の文化交流を証明するものとして、従来より注目を集めていた。その文様は西アジア伝来の連珠文に囲まれた中に、中央に、これもペルシア伝来の生命の木を配し、四人の騎士が振り向きざま獅子を射る図である。太子摂政の時、新羅征伐のために制作された旗であるといわれている(三宅米吉『法隆寺所蔵四天王紋錦考』文一巻一号、明治二一年)。
 織物の制作年代は中国隋代の初期、すなわち六〇〇年頃の緯錦と考えられている(龍村謙「大谷探検隊将来の古代錦綾類」、『歴史と美術の諸問題』所収、法蔵舘、一九六三年)。
 しかし、最も問題とされているのは、制作場所と所有者、すなわち、誰が何の目的で制作し、騎士のモデルは誰かということである。
 それにたいして、桑山正進氏(「法隆寺四騎獅子文様の制作年代」一、『江上波夫教授古稀記念論集・考古美術篇』所収、山川出版社、昭和五一年)は、
①有翼の馬に乗った騎士像はササン朝には例がない。
②後ろから襲い掛かる獅子を振り向きざま弓射する像の形をとる例はササン朝の場合、きわめて稀なこと。
③法隆寺錦の場合、冠の前方の飾りが、三日月状の上に球形が載る形をとっているのはホスロー二世と同じであるが、
ホスロー二世のそれは、飾りが冠の頂上に位置している。
これらをもって桑山氏は法隆寺錦はササン朝プロパーではないという意見である。
 桑山氏は強いて共通点をあげればアルダシール三世(六二九年六月~三〇年四月)か、ブラーン女帝(六三〇~三一年)のそれではないかという意見である。アルダシールにしてもブラーンにしても、西突廠の支配下にあった時のササン王である。
 天馬の例としては、法隆寺献納物(現在は東京国立博物館所蔵)の銅鋳製の水瓶に二組の有翼の天馬四頭が
毛彫されているが、周知のように、ギリシャ・ローマ文化にあるペガサス(有翼の馬)は有名である。
 騎士が振り向きざま、獅子を射る形は安息式射法(パルチヤン・ショット)と呼ばれ、スキタイ遊牧民に共通する射法であるという(相馬隆『安息式射法雑考』史林五三巻四号、昭和四年)。
 とすると、法隆寺錦には中国文化の影響がほとんどみられないところよりみて、ローマ文化及びササン朝ペルシアと騎馬遊牧民、すなわち突蕨文化の合体作品といえないだろうか。
 法隆寺錦の騎士の冠前の飾りは「●に三日月」の形をしているが、これは桑山氏も認めるごとく、ホスロー二世の頭頂の飾りと一致している。

2-18.545年頃以降、朝鮮半島の王妃の外戚争いが、特に第29代欽明頃に激化し、高句麗と百済は物部氏・大伴氏、新羅は尾張氏と棲み分け

 日本列島の部族同盟の最初の盟主の尾張氏と新興の物部氏との抗争は、王妃の外戚所属を軸にして、朝鮮半島の国間に日常的な緊張と抗争を起こします。四韓の王妃と王の親衛軍は、尾張氏、大伴氏、物部氏が管掌し、四韓は二重政事体制でした。どちらから王妃を輩出するかによって、一族の盛衰が分かれます。また、母の財産相続権は実娘のみにあり、親と言えば母だけを指していたように、異母の子は政敵でした。
 新羅と高句麗あるいは百済との抗争は、王妃の外戚の尾張氏と物部氏との間の抗争とも、新羅出自系と新羅王族分国の金官加羅国出自系との抗争ともみることができます。日本の封建時代に各地でみられた「お家騒動」と類似しています。

新羅の王妃族には、尾張氏系の真骨正統と物部氏系の大元神統の二つがありした。

高句麗の王妃族の外戚には、尾張氏系の小夫人(クノオリクク)の細(サイ)群と物部氏系の中夫人(クノオリクク)の麁(ソ)群の二つがありました。
 尾張氏系は、父か母の父系で所属が判断されています。新羅正妃の子達の生育国は新羅本国です。母の倭国の小国は葛城国、事情がある時は畿内を離れた古志国、尾張国等です。葛城国の「葛城」は新羅朴氏の倭名で、葛城国は尾張氏系「トベ」系統『大后』系の支配小国です。
 新羅の尾張氏系である真骨正統の祖は、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)=尾張草香の娘の新羅・息道夫人=新羅摂政・只召(チソ)太后[=高句麗第21代文咨明王(=継体)の細群・小婦人の高句麗妃・尾張目子媛=金官加羅国第10代金仇衡=第26代継体の妃・金桂花]です。真骨正統の祖の尾張目子媛と父の尾張草香の母は、共に未詳とされています。 
 尾張氏系の女王族は、新羅真骨正統祖・尾張目子媛(仮推測:510年頃生)、新羅真骨正統第2代首主・新羅萬呼(マノ)太后(555年生~?年歿)、新羅真骨正統第3代首主・新羅王妃・万明皇后=天明/天命公主、新羅真骨正統第4代首主・新羅王妃・文明王后文姫(ムニ)[新羅第29代武烈王金春秋(在位:654年~ 661年)]=額田王[第37代斉明A淵蓋蘇文の大后、第38代天智の妃]、十市(トオチ)皇女、藤原宮子[第42代文武(在位:683~707年)の妃]、第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)=阿陪皇女=新羅王妃・慈儀王后[新羅第30代文武(ブンブ)王(在位:661年 ~ 681年)]、第44代元正(ゲンショウ)(女帝)(在位:715~724年)で終焉します。 
 新羅真骨正統第4代首主・新羅王妃・文明王后文姫(ムニ)[新羅第29代武烈王金春秋(在位:654年~ 661年)]=額田王[第37代斉明Aの大后、第38代天智の妃]までの新羅王妃族には、倭国の出自者はいません。この新羅真骨正統の系譜は、連続系ではなく、欠世代があります。

物部氏系は、「倭国は母の国」によって母の父系で判断されており、物部氏と和邇氏が外戚です。男王族は金官加羅国、女王族は大賀羅(オオガラ)国、女王族の倭国の支配小国は山城国、事情がある時はヤマトを離れた近江国、但馬国、吉備国等です。第26代継体=新羅第22代金氏智証麻立干 (在位:500~514年)の母の振(フル)媛=新羅金氏鳥生夫人の倭国支配小国は、物部氏系の近江国です。新羅金氏8世代・葛城襲津彦(ソツヒコ)の娘の磐之媛、額田部皇女の倭国は山城国です。
 新羅・大元神統の祖は、大賀羅国出自の新羅・興道/吾道(オド)娘主=春日大娘皇女の娘の新羅朴氏思道夫人=手白香皇女です。手白香皇女の娘は不明ですが、男子が第29代欽明です。新羅・大元神統とは、新羅王族分国の大賀羅(オオ・ガラ)国(略字は「賀(ガ)⇒加」)と金官迦羅(キンカン・カラ)国(略字は「迦(カ)」⇒加)の女王系統を指すのかもしれません。

まだ検討が必要ですが、大元神統と真骨正統の両系統と考えられ系統があります。第29代欽明と高句麗妃·尾張目子媛(系譜では手白香皇女)との子に新羅・阿陽公主=蘇我堅塩(キタシ)媛=弓削阿佐姫]、異母妹の新羅・金珍娘主=蘇我小姉君=弓削加波流(カハル)姫と蘇我小姉君の妹(花郎世紀)で達頭(553年頃生~629年歿)の母の石上氏穴穂部間人皇女(仮推測:535年頃生)がいます。そして、蘇我堅塩(キタシ)媛の後裔系譜には、額田部皇女(554年生~628年歿)=新羅・善花公主=百済先王妃・善花、新羅・太陽公主=石上氏穴穂部間人(アナホベハシヒト)皇女、宝皇女(593年生~661年歿)=新羅・宝公主/宝姫(ボヒ)[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]=百済後王妃・宝公主=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃]、百済王妃・木恩古(モクウンゴ)(百済第31代義慈王の王妃)=間人(アナホベハシヒト)皇女、倭(ヤマト)姫王(627年生~672年)=(推測)間人(アナホベハシヒト)皇女=(推測)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)、大田皇女(?~667年歿)、鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)=第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良がいます。
545年頃の第29代欽明の時代から、倭国と高句麗は物部氏外戚系、新羅は尾張氏外戚系と棲み分けが始まります。これは新羅と倭国との乖離の始まりで、尾張氏系の統一新羅の原初となります。以後、第29代欽明の後裔が、高句麗と百済の王統となります。

覇権抗争の中でも、545年の王妃外戚の小夫人・細(サイ)群系(尾張氏系)の高句麗第23代安原王(在位:531~545年)[=新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣化(センゲ)]からの中夫人・麁(ソ)群系(物部氏系)の百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)=第29代欽明]との高句麗王位の争奪は、激しい争いでした。結果は、第29代欽明が武力で高句麗王位を簒奪(サンダツ)しました。これで、第26代継体の尾張氏外戚系の高句麗朝は終わります。それは、新羅第23代金氏法興王(在位:514~540年)(=尾張連草香)以来、新羅が真骨正統(尾張氏系)の独占体制に変わったので、倭国物部氏にとっては高句麗王の外戚の系列化は盛衰をかけた戦いでした。
 三国史記は、高句麗第24代陽原王(=第29代欽明)は、王位争いに敗れた細群(尾張氏系)の二千余人を皆殺しにしたと記しました。三国史記では、敗北した王はほとんど殺されたことになっていますが、生きています。匈奴系、鮮卑族系は、戦争で勝利することは敵を殺すことで、名誉とするカルチャです。これに対し、「DNA縄文人」の孤立した戦争カルチャは、勝敗が決したら敵を生かすこと、完全な勝利を求めないことです。
 敗れた細群(尾張氏系)の二千余人の皆殺しや白村江の3000人もの女官が飛び降りた話や第35代崇峻の殺害は、作り話の可能性が大です。

尾張氏系の新羅第24代金氏真興王(在位:540~576年)=第28代宣下が、突厥・達頭可汗(=聖徳太子)に滅ぼされ、新骨正統の新羅王が終焉し、新羅王金氏の系統が混迷化します。  

2-19.蘇我氏の三つの系統[百済木羅氏、百済木氏、高句麗物部(蘇我)氏]

 蘇我氏の系統には、①「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅第16代継承昔氏訖解(キッカイ)・尼師今(在位:310年~356年)(=第13代成務=竹内宿祢)が追放されて現韓国全羅道の栄山江流域を拠点とした百済木羅氏、②「DNA匈奴金氏」である高句麗と新羅と金官加羅から追放移動した百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)[=第29代欽明]を祖とする百済木氏、③「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗物部(蘇我)氏の「DNA種族」が異なる三つの系統があります。
 この三つの系統母系は、新羅を本貫とする「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である同一部族ないし同一の祖と思われ、母系姻族を通して歴史的な緊密な関係にあったとみられます。

①「DNA源流鮮卑族和邇氏」である百済木羅氏
・第1世代:木羅氏斤資(コンシ)=竹内宿祢
・第2世代:木羅氏満致(マチ)=蘇我満智宿禰

百済木羅氏の祖は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅第16代継承昔氏(&和邇氏)訖解(キッカイ)・尼師今(在位:310年~356年)[=第13代成務=初代竹内宿祢(384年歿)=(捏造王)百済第14代近仇首(キンキュウシュ)王 (在位:375~384年)]です。父は未詳、母が八坂入媛命(越系出雲族)[父は八坂入彦命=建御名方主]、伴侶が和邇氏外戚系の伽耶諸国機張(キジャン)国の媛・神功皇后です。母・八坂入媛命は、出雲朝『大后』であったので、第13代成務=竹内宿祢は母方で生育されました。これが、伯耆一之宮の祭神が竹内宿祢である由緒です。
 356年に前燕の配下になっていた新羅王族庶子の「DNA匈奴金氏」である談徳(=第16代仁徳)に新羅第16代訖解(キッカイ)・尼師今(=第13代成務)は攻略され、百済に避難移動し、一族は百済木羅(モクラ)氏となりました。記紀では竹内宿祢の名で記されました。百済王位空位期(375年から413年)を利用して三国史記と記紀は協調して百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)に捏造しました。
 坂靖(バン・ヤスシ、奈良県立橿原考古学研究所研究員)は、蘇我氏のルーツを韓国全羅道としていますが、新羅から移住した木羅氏のことで、「羅」は全羅道を意味していると思われます。

②「DNA匈奴金氏」である百済木氏
・第3世代:蘇我氏稲目大臣=第29代欽明(キンメイ)
=百済第26代聖王/聖明王(在位:523~554年)
=新羅金氏11代・新羅第22代金氏智証・麻立干(マリツカン) (在位:500~514年)
=高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)
=西突厥のシルジブロス(室點密可汗:シチテンミツ/イステミ)(在位:562~576年)。

百済木氏は、中継ぎの高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)が高句麗王を追放されて、百済王に専属する時の第29代欽明の百済一族です。

③「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗物部(蘇我)氏
・第5世代:物部(蘇我)馬子大臣=第31代用明(ヨウメイ)
  =高句麗第25代平原王(在位:559~590年)
  =ササン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー二世(在位:590~628年)
  =[捏造王]百済第28代恵王(在位:598~599年)。
・第6世代:物部(蘇我)氏蝦夷大臣=第35代皇極(コウギョク)A物部(蘇我)蝦夷
    =高句麗第27代栄留王(在位:618~642年)。
・第7世代:高句麗太子・物部(蘇我)氏入鹿大臣。

2-20.「DNA呉系倭人混血縄文人」である高句麗物部朝を559年に初建朝し、642年に高句麗が事実上終焉

物部守屋、物部(蘇我)馬子が幼少のため、姻族の金氏第29代欽明が高句麗第24代陽原王(在位:545~559年) となって中継ぎする。
・559年、『大連』物部守屋は、高句麗第24代陽原王(=第29代欽明)を追放して、八歳の物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子を擁立して高句麗物部朝を建朝します。高句麗物部(蘇我)氏第25代平原王(在位:559~590年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=物部(蘇我)馬子(551年生~628年歿)[=第31代用明=(捏造王)百済第28代恵王(在位:598~599年)=サーサーン朝ペルシア帝国第15代皇帝ホスロー2世(在位:590~628年)]が即位します。
・587年、物部(蘇我)蝦夷の誕生祝いで高句麗に訪れた『大連』物部守屋が、高句麗第25代物部(蘇我)氏平原王(在位:559~590年)[=物部宗本家14代物部宇麻呂=第31代用明]に暗殺されます。物部守屋の弟の物部石上贄古(ニエコ)が『大連』を継承します。直後、高句麗物部(蘇我)氏第25代平原王=物部(蘇我)馬子は、中央アジアに自責して永久移住します。
・590年、物部(蘇我)蝦夷が幼少のため、第34代舒明(ジョメイ)が高句麗第26代金氏嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)となって中継ぎをします。
・618年、高句麗物部(蘇我)朝第27代物部(蘇我)氏栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]が、高句麗第26代金氏嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)(=第34代舒明)を追放して、高句麗王に即位します。
・642年、「DNA匈奴金氏」である高句麗宰相・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)[=第37代斉明A淵蓋蘇文=第40代天武]が高句麗第27代物部(蘇我)氏栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷(586年頃生~642年歿)]を暗殺します。事実上、高句麗は滅亡。
・645年、高句麗太子・物部(蘇我)入鹿が、中大兄皇子[=第38代天智]等により暗殺されます。
*645年直後に、母系(推測:宝皇女=新羅王妃・涓花夫人[新羅第29代武烈王(在位:602~661年)の後王妃])により「DNA縄文人」である幼少の石上氏麻呂(639年生)を『大連』の後継に擁立。

*781年、『天皇』の称号に初変更した「DNA縄文人」である第40代桓武が即位。
*「DNA縄文人」である天皇から派生した皇別氏族の後裔者達:平氏、源氏、北条氏、新田氏、足利氏、徳川氏、旧伏見宮家、近衞文麿。

2-21.655年頃、高句麗宰相・金氏淵蓋蘇文=第37代斉明Aが親新羅の倭国亡命政権を樹立

 先ず、淵蓋蘇文が、642年に倭国部族同盟大首長『大連』である物部(蘇我)蝦夷=高句麗第27代物部氏栄留王(在位:618~642年)を滅ぼした当事者であるのに、政事統括者が「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏である倭国に亡命政権を樹立できたことは不思議なことです。
 次に、通説の高句麗滅亡の668年以前に、高句麗宰相&将軍の淵蓋蘇文は親新羅となり、倭国第37代斉明A淵蓋蘇文の倭国『大后』を尾張氏系の新羅新骨正統第4代首主・額田王としました。淵蓋蘇文の親新羅とは、まだ滅亡していない物部氏系の高句麗と百済と敵対する選択を意味することで、通説とは反します。
 以後、倭国『大后』の外戚は、物部氏から新羅・尾張氏に移ります。

2-22.第38代天智、追贈(1870年)第39代弘文、藤原不比等は新羅和邇氏の系譜

 淵蓋蘇文(623年生)=第37代斉明Aが唐の捕虜中に、新羅和邇氏が本貫の第38代天智(627年生)[=新羅波珍飡(4等官)金善品]が皇位を簒奪します。
 672年に、第38代天智は、帰国した大海人皇子[=淵蓋蘇文]に京都山科で暗殺されます。
 この頃は、第38代天智のバックの和邇氏や大伴氏や朴氏は、尾張氏に比べ非常に力が弱いことを示しています。

藤原不比等は、父を第38代天智とすることを隠すのは理解できますが、その後の藤原朝を築いた過程は、個人の優秀な政治的資質だけでなく、「DNA縄文人」である倭国政事統括者と対抗できるバックを結集できたことです。

藤原不比等は、倭国の為政体制の根本を変更しました。つまり、倭国時代の父系制の「DNA縄文人」である政事統括者と母系制の「母系DNA呉越系倭人」である非政事為政者の同位共同体制を、父系制の「DNA縄文人」である非政事為政者と父系制の「系DNA源流鮮卑族和邇氏」である政事統括者の同位共同体制に変更したことです。父系制は和邇氏の慣習です。しかし、日常性においては、母系制による子の養育、通い婚等は継続されます。

このことは、日本の源流アイデンティティが、倭国時代だけに依存していないことを示唆します。

2-23.「DNA縄文人」である日本国第40代桓武天皇から『天皇』称号に変更

 642年に、『大連』物部(蘇我)蝦夷が、645年に継嗣の物部(蘇我)入鹿が暗殺されました。
 645年乙巳(イッシ)の直後にまだ9歳の石上氏麻呂(639年生~717年歿)が、『大連」物部氏を再興しました。

しかし、以後、新羅・尾張氏が政事統括者の筆頭となり、倭国の覇権を握ります。そして、物部氏に対し、朝鮮半島はもとより倭国においても尾張氏の権勢が上回っていきます。
 第40代天武の目論みに反し、天武は尾張氏の傀儡となり、実際何も出来なかったという説の方が論理的事実に一致します。最大の倭国権勢者の「DNA弥生人混血縄文人」系豪族や戦勝国の新羅系豪族に敗戦者の渡来系『天皇』の威力が効く論理はありません。

第40代天武にとって、第38代天智は背信の敵で、朝鮮半島や中国であれば天智一族皆殺しにされるのが通常ですが、以後の皇朝は第49代まで天武系と天智系が交互に就きます。この間、尾張氏と和邇氏との覇権争いが起こっていたのです。

「DNA縄文人」である尾張氏と「DNA源流鮮卑族」である和邇氏との覇権争いは、「DNA縄文人」である第40代桓武天皇で決着しました。「DNA縄文人」である倭国統括者が、初めて『天皇』称号に変更しました。第40代桓武天皇の系譜は現在までも秘密とされていますが、少なくとも尾張氏系ではありません。和邇氏は、伽耶以来の親密な秦氏と大伴氏と同盟し、日本の地上の政事統括者になり、第40代桓武天皇は天上の非政事為政者になります。
 ただし、この体制は、平安朝以後、「DNA縄文人」である『天皇』の庶子が皇籍降下した系統の武家(平氏、源氏、北条氏、武田氏、足利氏、新田氏、徳川氏、等)が地上の政事統括者になったり、上級公家は「DNA縄文人」である『天皇』の庶子が皇籍降下したりして、天上の非政事為政者と地上の政事統括者は共に「DNA縄文人」に徐々に移行していきます。「DNA縄文人」の為政が世界最長の、しかも、万世一系を保持できたことを目の当たりに見るような思いがします。この源流アイデンティティを科学的に表現する挑戦が待ち遠しいです。

2-24.古代神社の名の由緒の考察

 「DNA縄文人」の精霊祭祀の神奈備山と弥生時代以降の渡来人の祖先霊祭祀の神社は、隣接する対です。それらの共通祭祀者は、「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である『大后・女首長』族です。神社は祖先霊祭祀の場であり、多くは通い婚の女性伴侶の住居跡です。つまり、神社の祭神は、祖先霊を祭祀する渡来人系のみとなります。これが、倭国為政者は渡来人であるという誤解の元になっています。古代神社祭神は、その部族の朝鮮半島での祖や宗主を象徴にして祭神にします。記紀は、倭国の出来事をその部族の朝鮮半島での祖や宗主の名で記しました。

次に、古代神社の名の由緒をいくつかの例で考察します。
①原初出雲族(=源流呉系倭人)の神社系:トーテムは「蛇」
 ・(推測)島根県松江市東出雲町出雲郷(アダカエ)587 阿太加夜(アダカイ/アダカヤ)神社。
 出雲国引き神話ゆかりの場所。主祭神は、阿陀加夜奴志多岐喜比賣(あだかやぬしたききひめ)命。
・(推測)兵庫県西宮市山口町・延喜式内社 公智(くち/こうち)神社。
・(推測)兵庫県豊岡市下宮・式内小社 久久比神社(くくひじんじゃ): 祭神は「久久能智(ククノチ/クグノチ)神。

②サキ(前/崎/箭/咲/佐只)神社系:「DNA源流鮮卑族サキ(前)族」・Y-DNA「O2a2a系」の祖神
・伊豆志八「前」(ヤサキ/ヤマエ)大神:但馬一之宮出石神社主祭神、兵庫県豊岡市出石町宮内99。
・石切劔「箭」(イシキリツルギヤ)神社:主祭神「DNA匈奴金氏」饒速日(ニギハヤヒ)尊、「DNA縄文人」可美真手(ウマシマデ)命、大阪府東大阪市東石切町1丁目1−1。
・相模国四ノ宮・「前」鳥(サキトリ)神社:主祭神:鮮卑族和邇氏・莵道稚郎子命、鮮卑族慕容部・日本武尊、神奈川県平塚市四ノ宮四丁目14-26。
・「前(サキ)」島:岡山県瀬戸内市牛窓町。
   「牛窓」は、「牛(匈奴)が転んだ(敗けた)の意(牛窓町の掲示板より)。

③愛宕(アタゴ)神社系:濊(ワイ)族=倭名・ヤ(矢/八/夜)族の祖神はカグツチ(加具土命)。

④八前(ヤサキ/ヤマエ)大神系
 濊(ワイ)族と源流鮮卑族前(サキ)族が部族合体[倭名はヤサキ族]した祖神は但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神=住吉神社祭神・底筒男(ソコツツオ)命 [=高句麗第3代(解氏)大武神(タイブシン)王脱解(タレ)(在位:AD18~44年)=新羅第4代昔(ソク/ソ)氏脱解(タレ)王 (在位:AD57~80年)] 、兵庫県豊岡市出石町宮内。

⑤熊野神社系
 <倭名・熊(同音韻は蛇)族>と<倭名・野(同音韻は牛)族>が部族合体した祖神です。
 「熊」は、「DNA源流呉系倭人」・Y-DNA「O1b1系」のトーテム「蛇」の音韻の別な形成漢字で、「クマ(熊)」と同音韻の形成漢字には「米、芋、雲」等もあります。鮮卑族慕容部のトーテムが「熊」であるのは、女性伴侶の「母系DNA源流呉系倭人」・Y-DNA「O1b1」系のトーテムに由来するものです。
 「野」は、「DNA源流匈奴」・Y-DNA「O1b1系」のトーテム「牛」の音韻の形成漢字です。
 倭名・熊(同韻漢語:蛇)族=クマ(熊、芋、米、雲)族の女性伴侶と倭名・野(同韻漢語:牛)族の男性伴侶の通婚同盟した「蛇・牛⇒熊・野」族の倭国祖神社は、熊野神社系です。
 なお、春秋時代呉越は、女性を先に、男性を後に表わす慣習で、これに添って「熊・野」の順になっています。

⑥八雲神社系:<濊族=倭名・ヤ(矢/八/夜)族[女性伴侶は「母系DNA越系倭人」]>と<雲(=同韻漢語は熊)族=クマ(熊、芋、米、雲)族=原始出雲族=「DNA呉系倭人」]>が部族合体した祖神。

⑦スサノオ神社、祇園(ギオン)神社、須賀神社、オオ(多/太/大)神社系
  漢語名・サカ(坂)族。祖神は初代大国主スサノオ、第2代大国主大歳。

⑧八坂神社系:<濊族=倭名・ヤ(矢/八/夜)族(女性伴侶は「母系DNA春秋時代越系ヤオ族倭人」)>と<漢語名・匈奴金氏サカ(=坂、スキタイ)族>が部族合体した祖神。

⑨稲荷神社系と伊勢神宮外宮:主祭神は「戸売(トメ)」系統の宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=新羅・玉帽夫人。

2-25.大陸での共通の苦難・差別を共にする新羅妃、金官加羅国出自の「DNA匈奴」金氏、秦始皇帝後裔の「DNA匈奴」秦氏、「DNA源流鮮卑族」和邇氏の歴史的連帯感、そして、秦氏のかつての恩返し

 「DNA源流鮮卑族」和邇氏は、春秋時代燕(紀元前1100年頃~紀元前222年)と箕子(キシ)朝鮮(?~紀元前194年)が滅んだ後、秦や漢の臣下になったり、遺民となったりしました。
 「DNA源流鮮卑族」和邇氏・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」と「DNA匈奴」金氏・Y-DNA「O2a1a系」と「DNA秦王・秦氏系」秦氏・Y-DNA「O2a1b系」」は、同じ歴史的苦難、つまり、秦の始皇帝により万里の長城の賦役を共にさせられました。秦が滅亡したので束縛がなくなり、漢の時代に朝鮮半島に移動しました。
 大陸で秦や漢から、そして、新羅属国下の伽耶で新羅本国から受けた共通の苦難・差別を共にする新羅王族分国の大賀羅/大加羅国の呉系「トベ」系統の新羅妃、新羅王族分国の金官加羅国系「DNA匈奴」金氏、秦始皇帝後裔の「DNA匈奴」秦氏、「DNA源流鮮卑族」和邇氏は、強い歴史的連帯感をもちます。

375年に新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=第16代仁徳[=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)=安(姓)同(名)談徳(諱名:ダントク)]が「DNA鮮卑族和邇氏」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)=第14代仲哀を滅ぼした時、借用辰王の「DNA源流鮮卑族」和邇氏と秦氏一族の大きな集団が新羅(実際には加羅と考えられる)に移動しました。和邇氏と新羅王族庶子系の金氏と秦氏は、加羅で隣人関係でありました。
 4世紀、秦氏一族は、百済和邇氏応神朝の援助により、「DNA匈奴金氏」である新羅の束縛を逃れ、倭国に移動しました。秦氏は、この時の和邇氏の恩を忘れず、祭神が和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)=第17代履中である京都府宇治市の宇治神社(トーテムは莵)、和邇氏象徴神の応神天皇を祭神とする八幡宮(宇佐八幡宮、筥崎宮、石清水八幡宮、鎌倉八幡宮、等)を殊の外祭祀します。
 しかし、第3代安寧、第16代仁徳、第26代継体を祖とする倭国居住の「DNA匈奴金氏」である一族は、万里の長城の賦役をさせた秦の始皇帝が秦氏と同族であること、また、秦氏が伽耶を捨てたことを忘れず、悪感情を持ち、差別したことが考えられます。新羅金氏第7代・新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)王(在位:262-284年)=第3代安寧の弟である新羅金氏第7世代・葛城襲津彦(ソツヒコ)[=新羅角干(1等官)金末仇]が秦氏の救援時に中途半端な動きをした背景です。
 この秦氏の倭国での窮状を救えたのは、倭国政事統括者である「DNA呉系倭人混血縄文人」である倭国部族連合統括者大首長しかいない筈です。この恩を秦氏は忘れませんでした。
 日本書紀によれば、応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して、応神天皇に新羅の妨害によって入島できないので弓月君の百二十県の民(数千から1万人レベル)の倭国への渡来を頼みました。それで、「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳の父の葛城襲津彦の助けで弓月君の民は伽耶が引き受けました。しかし、三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて帰還することはなかったので、応神天皇16年8月、物部氏系の平群木菟宿禰と的戸田宿禰が加羅に派遣され、無事に弓月君の民は倭国に渡来することができました。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫の孝武王の後裔です。孝武王の子の功満王の子の融通王の別名が弓月君です。DNAからみると、伝承通りに秦氏と秦の始皇帝は同じ「DNA種族」で、「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」から分岐した「DNA秦王・秦氏系」秦氏・Y-DNA「O2a1b系」です。

秦氏の倭国移動の経緯については、擬人化された古事記の神話「因幡の白うさぎ」があります。うさぎ(秦氏)は新羅(白)から、ワニ(和邇氏応神朝)の援助により倭国に移動しました。秦氏(うさぎ)が和邇氏(ワニ)を利用だけしたため、和邇氏(ワニ)から迫害を受け、スサノオの6代目の子孫である大穴牟遲神(オオナムジ)が助けたとする神話です。和邇氏(ワニ)を利用だけし、かつ、「DNA匈奴金氏」の恩を忘れているというのは「DNA匈奴金氏」側の言い分で、秦氏が「DNA呉系倭人混血縄文人」に尽くしたことを暗示しています。
 『古事記』のなかの「因幡の素菟神話」の中でスサノオの6代目の大国主命は、兄弟からいじめられたと書かれているのは第16代仁徳の史実ではないでしょうか。新羅金氏5代・スサノオ[=新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)]の6代目の子孫の大穴牟遲神は、兄弟がいますので、新羅金氏8世代である新羅第17代奈勿尼師今(在位:356~402年)=第16代仁徳[=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)]になります。スサノオ=初代大国主の6代目の子孫は、スサノオの娘[第5代戸売・磐(イワイ)之媛命]と結婚した大国主命とされており、一致します。
 この他に、「因幡の素菟神話」の6代目の大国主命の候補者には、竹内宿祢=第13代成務、第26代継体が言われています。

「DNA呉系倭人混血縄文人」である第50代桓武天皇の平安京建設のために、秦氏が全面的な財政負担をしたのは恩返しであったのです。この考え以上に納得できる秦氏の平安京建設の全面的な財政援助を説明できる理は現時点見出せていません。

2-26.統一新羅後、朝鮮半島から「DNA縄文人」の尾張氏を追放

 「DNA呉系倭人混血縄文人」物部氏と「DNA呉系倭人混血縄文人」尾張氏は、倭国でも軍事を握っていましたが、高句麗王、百済王、新羅王とそれぞれの王妃の親衛軍を管掌していました。
 高句麗、百済の物部氏の軍隊は、百済からは618年の百済第30代武王(在位:600~641年)の物部氏離反から、高句麗からは642年頃の物部(蘇我)蝦夷の暗殺の頃に倭国に多くが引き上げたことが推測されます。
統一新羅後に、尾張氏等の「DNA縄文人」系は朝鮮半島から追放され、差別して「帰化人」と称されます。
 新羅・尾張氏の新羅からの排除は、新羅と倭国の連枝を完全な隠蔽に発展する契機ともなります。

韓国のY-DNA「D 系」は、2 ~4%程度です。韓国の現在人口を約5,178万人(出典:2019年、韓国統計庁)、現在の「DNA呉系倭人混血縄文人」男性は約50~100万人レベルとなります。

新羅の尾張氏の軍隊は、統一新羅に貢献し、高句麗、百済、新羅に居残り、統一新羅に同化した筈です。同化を続けたとすれば、「DNA呉系倭人混血縄文人」は、現在でも韓国にはある程度の割合がみられる筈です。しかし、統一新羅時代になると、新羅王族は「DNA匈奴金氏」に純化し、外戚から「DNA縄文人」を排斥したのではないでしょうか。そうであるとすれば、統一新羅から排斥された尾張氏は、倭国に帰還した筈です。彼らは、長らく三韓に常駐していたので、同族から帰化人として区別されました。
 676年、新羅が三韓統一した後の684年以降の高句麗人(1835人)、百済人(23人)、新羅人(219人)の日本内の居住地移動者全員を統一新羅から排斥された尾張氏系と仮定して最大総数を見積もると、家族を含めて2077人になります。実際には、重複者、尾張氏以外の人もいるので家族を含めて2000人以下であると思われますが、三韓に駐在した尾張氏の上層者の人数はこの程度であったのではないでしょうか。
 新羅王族待遇と新羅駐在軍の尾張氏系は、統一新羅初期の100年程度以内、687年頃から始まったと推測されますが、倭国にほとんど帰還していれば、現在の「DNA呉系倭人混血縄文人」である韓国人男性約50~100万人レベルは、倭国先史から朝鮮半島に先住していた人数となります。

以下は、百済(660年滅亡)、高句麗(642/668年滅亡)の滅亡後の「DNA縄文人」系の三韓からの帰化人の倭国の歴史です。
・668年の唐・新羅連合軍との戦い(白村江の戦など)で高句麗が滅亡した後、王族を含む多数の高句麗人が日本に亡命します。
・669年、近江国蒲生郡に百済人700余人を移します。滋賀県日野町から東近江市にかけて百済人が配され、旧愛東町には名高い「百済(ヒャクサイ)寺」があります。百済人700余人は、主は王族関係者の物部氏系で、これらは残留者の大半とみられます。百済人系の物部氏は、ヤマト近傍に居住地を得ました。
・676年、新羅が朝鮮半島を統一しました。
・684年、百済人23人を武蔵国に移します。この百済人23人は統一新羅に属する尾張氏と推測されます。
・687年、高句麗人56人を常陸国、新羅人14人を下毛野国に置きます。これらは、統一新羅に属する旧高句麗住56人と旧新羅住14人の尾張氏と推測されます。
・689年、新羅人を武蔵国、下毛野国に置きます。新羅人とは、統一新羅に属する新羅住の尾張氏と推測されます。
・703年(大宝3年)、高句麗王族と推測される高麗若光が王(コニキシ)のカバネを与えられます。武蔵国高麗郡(埼玉県日高市)の高麗神社の宮司は若光の子孫を称しており、現在の宮司は若光から数えて60代目とされます。若光系の高麗氏としては、この家系が知られているのみである。高麗神社には若光を祖とする「高麗氏系図」が伝来している。高麗若光は、物部氏系か尾張氏系か不明ですが、関東に居住地が指定されたところから尾張氏系が有力です。そうだとすれば、高句麗王妃の麁(ソ)群(物部氏系)が続いても、王族から細(サイ)群(尾張氏系)が排除されていないことになります。
・716年、高句麗人1779人を、東国の七国に置きます。統一新羅に属する尾張氏系は、旧新羅から旧高句麗に移住させられていたと推測されます。高句麗人とは、旧百済住や、旧新羅住も含めた朝鮮半島から排斥された尾張氏系の総数ではないでしょうか。三韓の尾張氏系の上級層は、家族も含めて1800人レベルでしょうか。
・716年、武蔵国高麗郡が設置されます。埼玉県日高市から飯能市南高麗あたりが「武蔵国高麗郡」でした。日高市には「高麗山聖天院」と「高麗神社」、JR[高麗川駅」、西武線「高麗駅」があります。東京都狛江(コマエ)市には、高句麗系とみられる「亀塚古墳」があります。神奈川県大磯町高麗は花水川の右岸にあり、付近には「高来神社」があります。また、相模一ノ宮のある「高座(コウザ/タカクラ)郡」は高句麗系渡来人によって開拓された地です。山梨県巨摩(コマ)郡や東京都狛江(コマエ)市も高句麗系にゆかりの地名です。狛江市には多摩川左岸に駒井(コマイ)町があり、「こまえ」から派生した地名でしょう。
・750年(天平勝宝2年)、高句麗第19代広開土王の5代孫の背奈福徳後裔の福信ら一族が朝臣の姓(カバネ)を与えられます。当時、渡来人系氏族に朝臣を与えるのは異例でした。なお、後に福信は氏を尾張氏古来に由緒をもつ「高倉」と改めています。同族に高句麗第22代(末王)安臧王の3代孫から発祥した狛(コマ)氏がいます。
・758年、新羅人74人を武蔵国に移し、新羅郡が設置されます。埼玉県新座市・和光市・朝霞市・志木市周辺がこの「新羅郡」とされています。「新羅郡」は後に「新座(シラギ)郡」と表記され、新座の字面からやがて「にいざぐん」と言うようになりました。
・711年、上野国に多胡郡が設置されます。
・715年、新羅人を移し、美濃国席田郡が設置されます。岐阜県本巣市席田(ムシロダ)として、地名に残っています。
・760年、新羅人131人を武蔵国に移します。

 2024年現在、韓国の「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2系」の割合は、4%と見積もられています。表15に示す2001年から2011年まで韓国人による発表データでは、2.2%程度です。

 表15.朝鮮半島、韓国の朝鮮民族の「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2系」

2-27.鮮卑族和邇氏が仕組んだ出雲大社の建造とヤマト朝廷臣下の「DNA縄文人」の出雲臣・千家の出雲移住

(1)千家は「DNA縄文人」

 千家には、天照大神の子供「天穂日命」を初代とする系図が残されています。ヤマト応神王朝の官吏であった出雲国造・出雲臣の系図ですが、皇統と同様に、とりあえず出雲国統治者の始祖を脚色した系譜とみておいた方がよさそうです。出雲国造・出雲臣の系図は、「DNA種族」からみると万世一系ではありませんが、実系譜は「DNA縄文人」の万世一系であるようです。
  出雲臣第11代阿多命[ =出雲振根=八坂入彦命=建御名方神]、第16代意宇足奴命[=意宇宿禰]は、第10代崇神天皇60年に出雲臣之遠祖とありますが、スサノオ・大歳の後裔の「DNA匈奴金氏」であり、造られたものです。第13代襲髄命は、野見宿禰と同一人物とすれば、「DNA源流鮮卑族和邇氏」です。第17代出雲宮向は、「DNA呉系倭人混血縄文人」で、第19代允恭天皇元年に初めて出雲の姓を賜わりました(一説によれば第18代反正天皇4年という)。第17代出雲宮向から「DNA呉越系倭人混血縄文人」である実系譜になったとみてよいです。
 「DNA縄文人」のY-DNA「D1a2a2系」系統は、祖が北ルートの樺太・北海道経由で入島した系です。北海道礼文島の船泊遺跡から出土した約3,800~3,500年前の縄文人骨・船泊5号は、Y-DNA「D1a2a2a (CTS220)」です。出雲臣・出雲国造の後裔である現出雲大社の神主・千家氏は、NETではY-DNA「D1a2a2系」とされていましたが、NETから削除されました。尾張氏や物部氏の祖のY-DNA「D1a2a1系」は、右回りの海洋ルートによる日本列島への入島です。Y-DNA「D1a2a2系」は、樺太⇒北海道からの北方ルートの入島で、まだ根拠が弱いですが、現出雲大社の神主・千家氏の祖が属しているようです。
 4千年前からの歴史が門外不出とされて口承伝承されてきた、出雲大社の社家の出のクナト大神直系の末裔(出雲神族)とする正式出雲名、向(ムカイ)上官出雲臣財富當雄(タカラノトミノマサオ)である元サンケイ新聞編集局次長 富當雄氏(昭和53(1978)年現在67歳、歿)によれば、「出雲神族は、カムチャッカ半島⇒千島列島⇒北海道⇒出雲へと移動した」とする北方ルートからの入島です。参考文献:吉田大洋「謎の出雲帝国」 徳間書店 1980年。

(2)ヤマト朝廷臣下の出雲臣千家と杵築大社の創建の論理的事実

 出雲臣千家は、ヤマト朝廷臣下の後裔であり、南下した後の祖地は山城国愛宕郡[京都府亀岡市の丹波一宮・出雲大神宮]です。出雲風土記を編纂した第25代出雲廣島はヤマト応神王朝官僚です。
 奈良時代の山城国には愛宕山からだいぶ離れている愛宕(ウタギ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人が多数住んでいました。その場所は、現在の京都市内で、北区、中京区を含みます。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにあります。
 「寧楽遺文(ナライブン)」に、神亀三年(726年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳」、同じく「雲下里計帳」が掲載されていて、そこに出てくる人名は、ほとんどが「出雲臣」という姓です。多数の出雲臣は本来山城にいたか、あるいは、出雲臣の本拠地はむしろ山城国であって、その後に山城国出雲そのものが現島根県出雲に移住しました。新撰姓氏録では、山城の出雲臣の祖地を山城国愛宕郡としています。出雲大神宮が伝えるとおり、丹波の出雲こそ本来の出雲だったのです。島根県出雲の杵築大社に出雲大神が本格的に遷されたのは和銅年間のことで、現松江市・出雲郷には、神亀三年(726年)になっても出雲臣が大勢住んでいました。

「出雲氏」と言えば、「出雲臣氏」「出雲国造氏」「武藏氏」「武藏国造氏」「土師氏 」「菅原氏」「秋篠氏」「大枝/大江氏」などを総て含むものとされます。しかし、朝鮮半島から入島した「素戔嗚(スサノオ)尊-大歳」系の通称「出雲神族」と呼ばれる一族が「出雲氏」に含まれないのは、「DNA縄文人系」・Y-DNA「D1a2系」ではなく、「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1a系」であるからです。

「出雲」という地域名や神社名が島根県に広く使われたのは1871年以降のことです。古代は、意宇(オウ)郡とか、杵築(キズキ)大社の名でした。
 第19代允恭天皇元年[=新羅:第19代金氏訥祇(トツギ) 麻立干(マリツカン)(在位:417~458年)=百済第20代毗有(ヒユウ)王(在位:427~455年)]、出雲氏は、ヤマト王朝の臣下の山城国の国造第17代出雲宮向に対して「出雲」の姓を賜ったのが始まりです(一説によれば第19代反正天皇4年という)。第17代出雲宮向は、本貫地は山城国愛宕郡と考えられ、出雲風土記を編纂した第25代出雲廣島はヤマト応神王朝官僚です。
 709年(和銅二年)、第24代国造出雲臣果安の時、「丹波一之宮出雲神社」の主祭神・大己貴神だけを現在の出雲の杵築(キズキ)神社(明治時代に出雲大社と名称変更)に遷しました。「大己貴(オオナムジ)」は「オオ族の貴人の意」で、「スサノオ」とは本来別人です。
 716年、現島根県出雲市・杵築(キズキ)大社が創建されます。716年に出雲大社の建造が完成したとすれば、建造は表面上第43代元正、第44代元明ですが、その計画者及び実行者は藤原不比等と見られます。
 724年(第43代元正)および746年(第45代聖武)、出雲国造第25代出雲臣広島、および、出雲国造26代出雲臣弟山(オトヤマ)が、出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命、杵築宮(出雲大社のこと)に静まり坐しき」と記載があるので、平安時代前期までの祭神は鉄・鍛冶族の「DNA濊」八(ヤ)族の大穴持命でした。
 731年、第24代出雲廣島が「出雲国風土記」を編纂しました。ヤマト応神朝の臣下である「出雲臣」は、出雲国造氏とも言われ、国譲り以後、大和朝廷の出雲管理者の現出雲大社神主・千家です。意宇(オウ)出雲族のヤマト応神朝に協力する者は千家の臣下となり、一祭祀者として生き永らえました。祖をスサノオの子で、意宇郡(現島根県松江市)と大原郡(現島根県大東市)を統治した青旗佐久佐日子命(アオハタサクサヒコノミコト)の後裔の佐草氏や神魂神社の物部氏系の秋上氏は、八重垣神社、出雲大社の上級神主を現在も続けています。
 733年(第45代聖武)、和邇氏応神朝の臣下の第27代出雲国造広島は、出雲風土記を編上します。出雲廣島は、出雲風土記を山城国で編纂したとの説があります。
 798年(延暦17年)、出雲国造が島根県・杵築大社に移住しました。出雲臣は、島根県東部に移動し、杵築大社の宮司となりましたが、祖地は山城国愛宕郡[京都府亀岡市の丹波一宮・出雲大神宮]です。
 970年、源為憲の「口遊(クチズサミ)」に、建築物の規模を「雲太・和二(当時の東大寺大仏殿が高さ15丈(45m)・京三」と表現する俚謡があるように、本殿の高さは十六丈(48メートル)と歌われました。2000年に出雲大社境内において巨大な柱根が発見されました。その柱は、直径1.35mもある杉を3本束ねて1本とした宇豆(ウズ)柱でした。3本束ねた直径は3mです。
 1871年(明治4年)、杵築(キツキ)神社は出雲大社と改称しました。現在「出雲大社」と称されている神社は江戸時代まで杵築(キツキ)神社と称されていました。「出雲」という地域名や神社名が島根県に広く使われたのは1871年以降のことです。古代は、意宇(オウ)郡とか、杵築(キズキ)大社の名でした。
 1915年(大正4年)、 神門通りの宇迦橋のたもとに、出雲大社大鳥居が北九州市小倉の篤志家小林徳一朗により寄進されました。

現存する文献上で島根県・杵築大社の造営に関する記事が見える最初のものは日本書紀です。659年第37代斉明5是歳条に、出雲国造第22代出雲臣叡屋に令して厳神之宮を修造とあります。出雲大社の社伝においては、第11代垂仁天皇23年の時が第1回、659年(第37代斉明天皇5年)の時が第2回の造営とされていますが、第1回は現松江市・神魂神社あるいは現熊野神社の造営であり、第2回は現松江市・熊野大社か現八重垣神社と考えられています。
 古事記によれば、第11代垂仁天皇の皇子・本牟智和気(ホムチワケ)[=前燕第2代景昭帝慕容儁(シュン)(在位:348~360年)=第12代景行]は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになりました。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮(これは、松江市・神魂神社あるいは熊野神社)」を造らせたと、脚色しています。

杵築大社の平安時代前期までの初期[霊亀二年(716年)~724年~平安時代前期]の主祭神は、金属・鍛冶族の「DNA濊」八(ヤ)族である大穴持主命です。杵築大社の現主祭神は「DNA匈奴金氏」である大国主命(九州倭国王)です。

島根県松江市東出雲町「出雲郷」という地名があります。ところが、この「出雲郷」は「イズモゴウ」でなく「アダカエ」と読みます。近くには阿太加夜(アダカヤ)神社があり、これが地名の由来です。匈奴系の呼音「アダカエ」の地を新たな支配者の鮮卑族が「出雲(呼音:イズモ)郷」という新地名に変えたのですが、先住者は、新漢字「出雲(呼音:イズモ)郷」を内輪では旧呼音の「アダカエ」で呼びました。

以上のように、 和邇氏応神朝廷の臣下であり、山城国愛宕(アタゴ)郡[京都府亀岡市の丹波一宮・出雲大神宮]が祖地であった出雲臣千家の現島根県出雲地域への移住と杵築(キズキ)大社(現出雲大社)の創建は、「出雲の国譲り」後も依然先住者(尾張氏、匈奴)の力が強く、新たな政事支配者である「DNA源流鮮卑族」和邇氏である藤原朝の支配体制の強化を図るためです。しかし、「出雲の国譲り」前の先住者の力が非常に強く、鮮卑族和邇氏の直接支配が困難であり、また、「DNA種族」の同系統の物部氏も困難で、北方ルートから日本列島に入島した現出雲臣千家を現地支配者にせざるを得ませんでした。

「出雲の国譲り」の実際の場所と推測される出雲二ノ宮佐太神社の神主が、後世に大伴氏系に変わったことは、興味深いことです。

(3)出雲大社に関する粉飾

出雲大社は、その原初の由緒が隠されたために、多くの虚飾と虚像が罷り通っています。それは、杵築大社の巨大建造物に関することと、統一以前の特別でない一つの慣習を「出雲の国譲り」の怨念と結びつけた出雲大社の特別な慣習とするエンターテーナー知識人の吹聴です。

①出雲大社の高層建築
日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたといいます。非常に高層の神社は、「DNA縄文人」の巨木建築様式で、匈奴・大国主の様式ではありません。実は、ヤマト朝廷が出雲の復権を阻止するために、たびたびの倒壊を復興させ、先住の「DNA縄文人」尾張氏等の財力を使わせる征服者(鮮卑族和邇氏)の政治的な意図によるものです。杵築大社以前の松江市の古神社は、普通の高さのものだけです。この方法は、日本の歴史上、徳川幕府による諸大名による大阪城の造営・修築、江戸城造営・修築、等に見られる政治手法です。古代の出雲大社の巨大建築は、被征服者によって懇願されたものではなく、旧勢力を疲弊させるためです。

②出雲大社の特別でない四柏手の慣習
  出雲大社参拝の時には、四柏手を打ちます。四柏手と二柏手との違いは「怨霊を封じるための神社」と「その他の神社」の違いではなく国家神道絶対主義とそれと相容れなかった古式神社神道主義の違いの現れです。
 現在も四柏手などの古式の柏手を続けている出雲大社や、出雲以外でも、宇佐八幡宮、弥彦神社などでも現在も行われている事、また神道の国家神道で最高位ともいうべき伊勢神宮は八開手(八拍手)で、これらを「長手」と言っている事から推定すれば、四柏手以上の柏手を打つ事こそが古代からの正式な神に対する儀礼かもしれません。「縁結び」「出雲講」などなどそれぞれの神社が社地以外でも布教活動を行い、遠隔地にも熱心な信者を集めていた事が古式作法の保存に大きな力となったと思われます。
 「四」が「死」に通じるとして、出雲大社は「大国主という怨霊を封じ込める為の神社」であるという説がありますが、事実は四柏手以上の柏手を打つ事こそが古代からの正式な神に対する儀礼です。まず、「四」の古代の読み方は「し」ではなく「よ」または「よん」です。古代においての読み方からは「死」はありえないという事です。そもそも「よん」「よ」は古代日本において聖なる数なのです。人や神の魂には四つの種類があると考えられていました。「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」です。この四つの魂それぞれに柏手を打つのが四柏手の原型だと思われます。四が聖なる数だということをしのばせる例としては、遣唐使・遣隋使の船も四艘一組なのです。危険な旅にわざわざ不吉な数字を用いるでしょうか。むしろ四という数字が縁起のよい数字だと考えられていたからこそ「縁起担ぎ」のため四艘で船出したのではないでしょうか。古代神道における「和魂・荒魂・奇魂・幸魂」の四つの概念を、江戸神学は精神をつかさどる陽の気の魂(こん)と肉体をつかさどるという陰の霊気「魄(タマシイ)」の二つの概念に改めたことによると思われます。

明治初年、国学によって理論づけされた明治政府は「神社祭式」を発布します。「神社祭式」はそれぞれ独立した教義やご利益、縁起由緒をもっていた神社神道を国家神道へと変換するのが目的でした。「伊勢神宮を頂点とする国家神道」の概念を、そしてそれに準じた祭式を新たに作り上げたのです。この「神社祭式」によって伊勢神宮以外の神社での参拝の作法として「二柏手」が正式なものとして定められました。金光教や天理教といった幕末に発生した「教派神道」の神前参拝のときの柏手も「四柏手」です。
 この「四柏手」を根拠にして成り立つ大国主・怨霊説は、非常に疑わしい信用できない説です。エンターテーナー知識人には、注意しましょう。

③出雲大社の注連縄の結び方は特別でない「左本右末」
出雲大社の注連縄の結び方は「左本右末」といい、全国の神社のほぼ一割がこの形式を踏襲しています。出雲大社型の左本右末型注連縄を持つ代表的な神社としては、愛知県津島市の津島神社(祭神は牛頭天王つまりスサノオ)、同じくスサノオ(クシミケヌ)を祀る熊野大社、大物主を祀る三輪山の大神神社、愛媛の大三島町にある大山祇神社などが挙げられます。少数の結び方ですが、大国主怨霊説を振りかざす人々のいうような決して出雲大社だけのものではありません。
 注連縄(シメナワ)の原型は蛇の交尾の形でもあります。これは吉野裕子氏の「蛇」(講談社学術文庫)に上げられていた説で、蛇の交尾の写真をみるとまさしく注連縄そのものです。注連縄が蛇の交尾を神格化したものであれば、左右の上位意識が成立する前に右本左末の形式をしていて(つまりは、もともと左右のどちらが上位であるかとか、正式な注連縄の在り方なんてものができる前から、あの形であったということ。)、出雲大社は、その古祇を踏襲したに過ぎないと考えられます。
 吉野裕子氏の「蛇」日本の蛇信仰という本によれば、蛇信仰は世界各地にその存在を残しています。

④大国主の神座は特別でない本殿正面向きでなく西向き
 出雲大社は、神座が参拝者へ向かって正面を向かず横を向いている(つまり西向きである)というのがあります。出雲大社本殿に祭られている大国主命は参拝者側から見ると横を向いた格好になり、参拝者の正面には「客座五神」が正面(参拝者の方)を向いて鎮座しています。
 大国主が横を向いているのと同じで参拝者に対して横を向いた形の神座をもち、しかも出雲國造が直接祭祀する神社は他にもあります。出雲にある「神魂(カモス)神社」は、宍道湖の東西に参拝者に対して横向きで鎮座している神が居ます。ただしこちらの祭神イザナギは出雲大社とは逆で東向きだそうです。鹿島神宮の神座の配置も大社造の神座に似ています。
 出雲大社は大社造りであって、天孫の鎮座する神社とは、根本的に建築思想もその伝統も違うものです。大社造は、アマテラスの神明造やその他の神社建築とは根本的に違います。大社造にしても、鹿島神宮にしても古くから伝えられてきた建築様式を維持しつづけてきたと考えるべきではないかと思われます。
 「客座五神」は、大国主のいるさらに奥の方に五神の神座は正面を向きならんでいます。大国主の正面奥側に大国主に向かって横(つまり参拝者側・南)を向いて並んでいるのです。向かって左から、天之御中主神、高御産巣立日神、 神産巣立日神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の五神です。
この神座の配置から「客座五神」こそが参拝をうける対象であると考え、大国主は、いわば「囚われの神」であるとして、怨霊説に広げていくのですが、これもどうかと思います。
 客座五神とは、古事記において神々の一番初めに登場する「別天神」と同一であり、何もないところから現れ出でる神で、森羅万象全ての元です。大国主や素戔嗚、天照、月読などの人格神ではなく「世界と人間、神の根本」を象徴している神のことです。これらの神名は古事記では天孫の祖先神としてえがかれる一方(タカミムスビ)、出雲の祖先神(カミムスビ)としても現われています。他の三柱の神は天神地祇とそれを結ぶ柱を表しているとも考えられています。これらの五神の神名は世界の要素を象徴する神名であり、出雲族や天孫族の祖神というよりむしろ、古代人の世界観を表すものではないかと思われます。ということは出雲・天孫のどちらもが崇めていた「自然神」であるのではないでしょうか。五神は出雲大社や伊勢神宮といった神社建築物の大柱にも見たてられているのかもしれません。そして、神統譜上の系譜から考えれば、これらの神の神格は、決して天孫族とその被支配民だけが崇めるものでなく、日本列島に住む人々にとって普遍的な自然信仰(精霊信仰)の対象です。
 つまり、「天孫族がまつる五神」によって大国主の怨霊を封じているとはいいきれないということです。むしろ見方を変えれば大国主の正面に居並ぶ五神は大国主によって祭祀されている支配されているという形にもとれるのです。

現在の韓国の会食時のマナーとして、目上の人とお酒を飲む時には正面を向かず、体と顔を横向きにして飲みます。 出雲大社はこの流れでしょうか。

2-28.出雲国と但馬国の古神社の類似性の試論

 原則的には令制国1国あたり1社を建前にしましたが、出雲国と但馬国はそれぞれ三社あり、その祭神は「国譲り」後の新しい支配者(鮮卑族、物部氏)による隠蔽と改ざんをされた複雑な類似様相があります。本来の祭神に多くの神々が加えられたり、改ざんされたりしています。多分、鮮卑族和邇氏系の平安時代藤原朝の時代に行われた隠蔽と改ざんです。

「DNA縄文人」の精霊祭祀の神奈備山と渡来人の祖先霊祭祀の神社を対とする同一祭祀者は「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である『大后・女首長』族です。神社は祖先霊祭祀の場であるので、祭神は祖先霊祭祀をする渡来人のみとなります。これが、倭国為政者は渡来人であるという誤解の元になっています。

出雲国と但馬国の越系「戸売(トメ)」系統の倭国『大后/女王』は、連枝していました。交易に適した表の出雲国と奥まった安全な但馬国の二拠点体制でした。どちらも、重要資源の金属の産出地です。「国譲り」に直接関係すると見られる越系「戸売(トメ)」系統の第一位『女王』は、支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命(ウガノミタマノミコト)=第二代伽耶媛・宇迦御魂命=第二代戸売(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=新羅金氏玉帽夫人ですが、その拠点は出雲二ノ宮佐太神社と但馬国一ノ宮粟鹿(アワガ)神社です。

「出雲国譲り」の主要な点は、①非政事為政者の系統を母系制越系「戸売(トメ)」系統から父系制呉系「トベ」系統への変更、②政事統括者の縄文人氏族を尾張氏から物部氏・大伴氏への変更、③渡来系政事支配者の匈奴系から鮮卑族(和邇氏、前族)系への変更、④国都を島根県出雲地域から畿内・ヤマトへに遷都、⑤非政事為政者(父系制呉系「トベ」系統女王)のヤマト拠点と政事統括者(父系制物部氏)の畿内(摂津国・河内国)拠点とする拠点分離です。
 「出雲国譲り」は、261年の「DNA匈奴金氏」の新羅借用昔氏(&金氏)朝(倭名は九州・大国朝)の滅亡から304年直後の「DNA鮮卑族」系の同盟軍の第三回ヤマト東遷の頃にかけてです。「出雲の国譲り」の直接当事者は、出雲二ノ宮佐太神社の主祭神の支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命=第二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=第二代戸売(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=新羅金氏玉帽夫人です。出雲二ノ宮佐太神社の主祭神の支佐加(キサカ)比売命は、連枝している但馬国一ノ宮粟鹿(アワガ)神社の主祭神からは全く隠蔽されています。
 「出雲国譲り」の③渡来系政事支配者の匈奴系から鮮卑族系への変更は、後の平安時代和邇氏藤原朝の父系制非政事男王為政者(縄文人系)と父系制政事男王統括者(和邇氏系藤原氏)の現在まで続く父系制一本化への変更の布石となります。

出雲国と但馬国は、尾張氏と越系「戸売(トメ)」系統女王と匈奴系の旧支配者から物部氏と呉系「トベ」系統女王と和邇氏(前族含む)に為政体制が変わりますが、これは中核神社の祭神に反映されます。その時、旧勢力が依然強さを持続し、新勢力側は中核神社の祭神の変更が徹底できず、「国譲り」前の祭神を残し、新支配者側の祭神と混合する複雑な形態にします。そのため、出雲国と但馬国の中核神社の祭神は、系譜体系がない多数の祭祀とする類似性ができます。但馬国は新国都の畿内・ヤマトにより近いので、旧体制の末女王の天照大神=支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命(ウガノミタマノミコト)の扱いがより巧妙に隠蔽・改ざんされ複雑化します。

因みに、皇室が旧体制の天照大神を祭祀する三重県・伊勢神宮に参拝するのは、明治時代の国家神道からのことです。明治2年(1869年)、明治天皇が在位中の天皇としては初めて参拝しました。

(1)出雲国

 出雲国には、最初期の出雲への渡来人の出雲国一之宮・熊野大社(松江市八雲町熊野2451番)、「出雲国譲り」の一世紀から二世紀以後に丹波一之宮出雲大神宮から祭神が移された出雲国一之宮・杵築大社(1871年(明治4年)に出雲大社と改称)、新羅の古名を称する「出雲の国譲り」の本来の所であった出雲国二之宮・佐陀神社/佐太(明治に改称)神社(松江市鹿島町佐陀宮内73)があります。垂仁朝時代(304年から375年まで)の「出雲の国譲り」の本拠地と考えられるのは、出雲国二之宮・佐太神社です。平安時代以降と考えられますが、「出雲国譲り」の本拠地を「国譲り」後に築造した出雲国一之宮・杵築大社の所に改ざんしました。

島根県出雲地域には「DNA縄文人」の為政者の精霊信仰をする大きな四つの神奈備山、すなわち、意宇(オウ)郡の「茶臼山」、秋鹿(アイカ)郡の「朝日山」、楯縫(タテヌイ)郡の「大船山」、出雲郡の「仏経山」があります。

①出雲国二之宮・佐太神社

 松江市・出雲国二之宮佐太神社は、秋鹿郡「朝日山」の神奈備山を付帯し、「DNA縄文人」と「母系DNA呉越系倭人」との通婚同盟を基にした部族同盟盟主の最も初期の神社の一つです。島根県出雲地域は、縄文人と弥生人との共存共生が早くから進み、集落の形態が米作農業に適した集落にいち早く移行した地域と考えられます。平安時代でも見られるように、倭国は母系制による通い婚で、松江市の出雲国二之宮佐太神社は、原初は女性伴侶の住居であります。

佐太神社の「佐太/佐陀/猿田(サダ)」は、「新羅」の古名です。「支佐加(キサカ)比売命」の「支佐加(キサカ)」は、新羅の形成漢字の「戸賀/都賀(トガ)]「土岐(ドキ)」より「支(ki)=賀/加(ka)」、「DNAスキタイ混血匈奴」坂(saka)族の「坂(saka)」との合体語とすれば、「支佐加(キサカ)」は、「匈奴系大賀羅国」の意となります。大賀羅国は、本来女王国の春日国でありましたが、新羅王族の呉系「トベ」系統の「妃」系の独立支配権のある分国となり、562年に新羅に併合されました。

つまり、「佐太御子大神」は「新羅大神の女御子」の意です。つまり、「支佐加(キサカ)比売命」は、第二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=第二代戸売(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=新羅金氏玉帽夫人と同一人です。
佐太神社は、江戸時代を通じて出雲国10郡のうち佐陀触下(サダフレシタ)と呼ぶ秋鹿(アイカ)・島根(シマネ)・楯縫(タテヌイ)・意宇(オウ)西半の3郡半の神社を支配下に置きました。

佐太神社の神主職は、当初は徳島県発祥の神宅(カンヤケ/ミヤケ/コヤケ)氏でしたが、中世以降、大伴氏系朝山家が神主職(正神主職)、宮司職を世襲しました。朝山家は、勝部氏を名乗ったこともあります。

佐太神社地域の紀元前からの先住者は、「母系DNA呉系倭人」熊族(注:「熊」は「蛇」と同韻音の形成漢字)で、次は二世紀頃に中国江南地域から南海ルートで九州南部に来島した海神族の「母系DNA呉系倭人」です。北殿の摂社の田中神社に海神族の木花開耶(コノハナサクヤ)姫命と磐長(イワナガ)姫命が祀られています。三世紀から四世紀に朝鮮半島の大賀羅国から渡来して尾張氏と共に佐太神社を本拠としたのが、「母系DNA越系倭人」の女神の佐太御子大神・支佐加(キサカ)比売命です。支佐加(キサカ)比売命と尾張氏が、「出雲の国譲り」の敗北当事者です。初代大国主スサノオ、第三代事代主、第四代の日本列島での本拠地は九州ですが、伴侶の支佐加(キサカ)比売命と尾張氏がいる佐太神社に避難移住します。当時は、支佐加(キサカ)比売命も含めて倭国と新羅の王族は連枝していました。

佐太神社の現主祭神は、正殿、北殿、南殿に12柱が祀られています。これら12柱は、「DNA種族」が混在しており、その中の中心的な佐太御子大神がある正殿の五柱でさえ、「DNA種族」が混在しています。
正殿は、佐太御子大神、伊弉諾(イザナギ)尊、伊弉冉(イザナミ)尊、速玉男(ハヤタマノオ)命、事解男(コトサカノオ)命の五柱です。

正殿の佐太御子大神が佐太神社の中核祭神です。佐太御子大神の実名は隠されていますが、「母系DNA越系倭人」の女神・支佐加(キサカ)比売命=宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)です。支佐加(キサカ)比売命の親は、伊弉冉(イザナミ)尊[注:具体的には、イザナミ=初代戸賣(トメ)・春日建国勝戸賣(カスガノタケクニカツトメ)=新羅述礼夫人=現松江市神魂(カモス)神社・神魂命を指す]です。
 支佐加(キサカ)比売命は、「出雲の国譲り」の当事者であるため、系譜が隠されますが、群婚伴侶の新羅王側は、初代大国主・スサノオの継嗣(長男)の第二代大国主・大歳=ニギハヤヒ=新羅葛文王骨正(注:出雲の国譲りの時には既に歿しています)と、大歳の継嗣の第三代大国主・事代主命=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)=猿田(サダ)彦[新羅彦の一般通称]です。

支佐加(キサカ)比売命の生誕地は、但馬・闇見(クラミ)国です。「母系DNA越系倭人」の「戸売」系統は、安全な奥まった生育をする但馬・闇見(クラミ)国と、「DNA縄文人」尾張氏である倭国統括者の本拠地の海洋交通・経済の地の利がある出雲国と、本貫の伽耶・大賀羅国の三つの拠点体制をしていました。
「母系DNA越系倭人」の「戸売」系統は、第一位女王であった中国江南地域から青島地域、東アジア・扶余国、朝鮮半島・伽耶地域と流浪し、大きなトラウマをもっていました。そのため、日本列島の部族同盟大首長とも通婚同盟し、日本列島の表の海洋拠点の出雲国を通婚の拠点とし、更に、万一に備えて奥まった但馬・闇見(くらみ)国を女王継嗣の生育地としました。記紀に、大歳と共に宇賀御魂命がヤマト東遷した時に、一人外れて摂津国猪名川から一族の地の但馬に寄ったとあるのは、佐太神社の伝承の支佐加(キサカ)比売命の生誕地が闇見(くらみ)国[注:但馬国の前の名]とあるのと一致しています。

197年に、金氏の宗主のニニギ族ウガヤフキアエズが高句麗第10代山上王(在位:197~227年)に即位したので、新羅王スサノオ、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命=支佐加(キサカ)比売命は、報復侵攻を恐れて九州に避難移動します。
251年頃のニニギ族の伽耶への報復侵攻により、大歳[=ニギハヤヒ]と宇賀御魂命は更に安全を求めて、安全な奥まった奈良県・大和に避難移動します。これが、第一期大和東遷とヤマト初王朝と俗に言われていることです。
 261年に、宗主ニニギ族の報復侵攻により新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の新羅第12代借用昔氏(&金氏)沾解尼師今(在位:247~261年)[=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主]は敗北し、九州の分国に避難移動します。
 262年直後に、日本列島に地盤をもつニニギ族同盟軍(源流匈奴、大伴氏)は、回帰侵攻し、第二期大和東遷[出雲の国譲り神話の元となる出来事]をし、尾張氏、ニギハヤヒを畿内から追放します。この第二期大和東遷には、神武Bニニギ族と第3代安寧は、参加していません。しばらくして、ニギハヤヒ[=大歳]は歿し、飛鳥の三輪山の大神神社に祭祀されます。
宇賀御魂命=支佐加(キサカ)比売命は、奈良県・大和から島根県出雲国二之宮・佐陀神社/佐太(明治に改称)神社に居を移し、出雲国尾張氏と九州の第三代大国主・事代主命=猿田(サダ)彦(一般通称)[=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)]と通婚同盟します。
 300年、「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(カイ)(生~歿、大人(タイジン)即位:285年)と慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]の親子は、高句麗王族分国の大賀羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)と同盟して、高句麗第14代休氏烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)[=丹波道主・谿羽道主命(タニハミチヌシノミコト)]を敗北させます。高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=第6代孝安(コウアン)に即位し、高句麗呉系倭人朝を建朝します。大賀羅国王子・天日槍は、母の倭国拠点の但馬で生育(但馬国一ノ宮出石神社)し、朝鮮半島に回帰します。
 304年、慕容廆(カイ)と慕容皝(コウ)の親子は、伽耶に逗留し、力をつけて、鮮卑族慕容部を宗主とする同盟軍(新羅和邇氏、新羅昔氏、前族、物部氏)と共に、「DNA鮮卑族拓跋部」真氏(&解氏)の沸流百済第10代汾西(フンセイ)王(在位:298~304年)を滅ぼしました。慕容皝(コウ)は、304年に百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)[=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]に就きます。この頃、九州の第三代大国主・事代主命=猿田(サダ)彦(一般通称)[=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)]とスサノオは、尾張氏が支配する島根県出雲国に避難移動します。また、支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命は、娘の第五代戸賣・八坂媛命=八坂刀賣(トメ)に佐太神社を譲り、兵庫県・闇見(クラミ)/倉見国の但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社に居を移します。支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命の陵は、但馬一之宮粟鹿神社の境内(推測)です。
 304年の直後、鮮卑族慕容部の倭国に基盤をもつ同盟軍(新羅和邇氏、新羅昔氏、前族、物部氏)は倭国に回帰侵攻し、渡来人系支配者の匈奴系から覇権を奪います。鮮卑族慕容部は、倭国には来島せず、したがって、第三期ヤマト東遷にも参画していません。この時、新羅第12代沾解尼師今(在位:247~261年)[=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主]は、本拠地の九州から更に安全な伴侶の第五代戸賣・八坂媛命=八坂刀賣(トメ)と尾張氏のいる出雲に亡命移動します。

鮮卑族同盟軍(新羅和邇氏、新羅昔氏、前族、物部氏)は、島根県出雲国に侵攻し、征服します。第三代大国主・事代主命=猿田(サダ)彦(一般通称)[=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)]は歿し、第五代戸賣・八坂媛命=八坂刀賣(トメ)と第4代大国主・八坂入彦=建御名方主は、尾張氏と越系「戸売」系統の分国の長野県・諏訪大社に亡命します。諏訪大社の御柱祭は、この時の戦闘敗北に由緒があるのではないでしょうか。

因みに、和泉国の匈奴のトーテム「牛」に見たてた「岸和田だんじり祭」は、鮮卑族(トーテムは馬)との戦闘敗北に由緒があるのではないでしょうか。

こうして、尾張氏と越系「戸売」系統の女王が為政した出雲は、呉系「トベ」系統の女王と和邇氏と大伴氏と物部氏の新しい覇権者に移行します。しかし、旧勢力は依然強く、中核神社の祭神は新勢力の思うようにできず、多くの系譜体系が同じでない祭神の複雑構成となります。
正殿の伊弉冉(イザナミ)尊は、佐太御子大神・支佐加(キサカ)比売命の母で、佐太御子大神の素性を暗示します。

正殿の伊弉諾(イザナギ)尊は、「DNA匈奴金氏」大国主の宗主の「DNA匈奴休氏」ニニギ族の祖で、本殿に祭祀されているにもかかわらず、新勢力側の立場から合祀されます。伊弉諾(イザナギ)尊は「イザ(伊弉=越)のナ(=国)のギ(=人):越の国の人」の意で、本来「DNA越系倭人」の一般通名ですが、倭国では金氏の宗主である「DNA匈奴休氏」ニニギ族が借用しました。

正殿の速玉男(ハヤタマノオ)命、事解男(コトサカノオ)命は、出雲先住の「母系DNA呉系倭人」熊族と通婚同盟した「DNA源流匈奴」野族が合体した熊野族で、出雲国一ノ宮熊野神社が本拠地ですが、新勢力側の名で「国譲り」後に合祀されます。出雲国一ノ宮熊野神社の主祭神は、伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)加夫呂伎(かぶろぎ)熊野大神 櫛御気野命(くしみけぬのみこと)です。「国譲り」後に、佐太御子大神を薄めるために新勢力側の立場から追加されます。

本殿の伊弉諾(イザナギ)尊は、イザナミ(=神魂命)の伴侶の「DNA越系倭人」です。

北殿の天照大神(注:女王ではなく、ニギハヤヒを指す)及び瓊々杵(ニニギ)尊[=初代神武]の二柱は、ヤマト王権が支配者であることを示すために、「出雲国譲り」後に追祀されたものです。

北殿の摂社の田中神社は、西社の木花開耶(コノハナサクヤ)姫命と東社の磐長(イワナガ)姫命を祀っています。田中神社は、4000~2400年前に左回りの南海ルートで九州南部から祖が入島した中国江南地域の海洋・農作系百越人で、北殿の祭神・瓊々杵尊[注:初代神武の父]は、姉の磐長姫命と妹の木花開耶姫命を娶りますが姉は容姿が醜かったので親元へお返しになったというものです。その後、佐太神社の地に、更に、但馬に移住しました。

南殿には、素盞嗚(スサノオ)尊及び秘説四柱の計五柱があります。古事記編纂後に、神話に対応した祖神を祀ったものです。南殿の素盞嗚(スサノオ)尊は、九州を本拠地とする「DNA匈奴金氏」の初代大国主[=新羅第9代伐休尼師今(在位:184~196年)=金官加羅初代金首露王]です。南殿の秘説四柱は、「母系DNA越系倭人」以前の先住の月夜見尊、戎族系蛭子尊、熊野族系熊野大神、ヤ族系大穴持命です。

因みに、鉄・鍛冶族の八(ヤ)(=濊)族・Y-DNA相当「O1b1系」は、西出雲に拠点(須佐神社)をもち、「母系DNA呉系倭人」雲族と通婚同盟し、八雲族となります。その後、西出雲の八(ヤ)(=濊)族の大穴持命(須佐神社)は、佐太神社・支佐加比売命と通婚同盟します。

以上のように、佐太神社の主祭神である佐太御子大神は、「出雲の国譲り」の根幹に関係し、国母の宇賀御魂命=天照大神と同一人です。

島根県出雲地域は、先住の尾張氏と匈奴が依然として強い地盤をもっており、新しい支配者の鮮卑族は、旧勢力の祭神の実体を巧妙に隠すか薄めることでした。この結果、佐太神社は、新勢力の祭神を合祀させて、系譜系統が違う多くの祭神を合祀させることになりました。

国譲りの第一段階は、越系「戸売」系統から呉系「トベ」系統への『大后』の系統変更、尾張氏の覇権剥奪で、年数がかかりました。国譲り第二段階は、尾張氏から大伴氏・物部氏への覇権移譲、国都の出雲国・但馬国から畿内・ヤマトへの遷都と非政事為政者と政事統括者の拠点分離です。 
 そして、旧勢力の出雲国を弱体化させるために、京都府亀岡市・丹波国一ノ宮出雲大神宮の祭神大穴持命を遷し、尾張氏に対抗しうる別系統で入島したヤマト朝の臣下の出雲臣(千家)を山城国から部族皆、島根県出雲地域に移住させました。さらに、出雲国の鉄を基盤とする経済力を疲弊させるために、出雲には例がない巨大な杵築大社を建造させました。

杵築大社の名称を「出雲大社」に改称するのに1871年(明治4年)まで要しました。島根県出雲地域の建国者を「母系DNA越系倭人」の宇賀御魂命=天照大神から「DNA濊」八(ヤ)族の大穴持命に変え、更に、「DNA匈奴金氏」大(オオ)族の素戔嗚(スサノオ)命に変更するのには寛文4年(1664年)頃までの年数を要しました。

*出雲国二之宮・佐陀神社/佐太神社(明治に改称):松江市鹿島町佐陀宮内73
・創建伝承:第11代垂仁天皇54年。
・主祭神:女神・佐太大神/猿田大神=佐太御子大神=支佐加(キサカ)比売命。
      母は、イザナミ(=神魂命、かんむすびのみこと)。
      生誕地は、闇見(くらみ)国。越系闇見(くらみ)族。
      [注:猿田(サダ)は、佐太と同意形成漢字で、新羅の意]
・神名火山/神奈備山は、秋鹿(アイカ)郡の朝日山です。  
・お忌み祭(神在祭):11月20日~25日(元は10月20日~25日)
・蛇トーテム。

②出雲国一之宮・熊野大社

:島根県松江市八雲町熊野2451番 (意宇川水系)
・<旧 称> 熊野坐神社、熊野大神宮、熊野天照太神宮
・<別 称> 日本火出初社、出雲國一宮
・初見は「日本書紀」(720年)の斉明天皇5年(659年)
・主祭神(当初):クナト神
・主祭神(現在):伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)加夫呂伎(かぶろぎ)熊野大神 櫛御気野命(くしみけぬのみこと)
・神名火山/神奈備山は、意宇(オウ)郡の茶臼山です。
・<神 紋> 一重亀甲に「大」の文字
・主要な祭事:亀太夫神事(10月15日)

③出雲国一之宮・杵築大社

(1871年(明治4年)に出雲大社と改称):島根県出雲市大社町杵築東195
・創建伝承:和銅二年(709年)か霊亀二(716)年に出雲に創建された。京都府亀岡市「丹波一之宮・出雲大神宮」の主祭神は大己貴神とその妻である三穂津姫命であり、社伝では和銅二年(709年)に大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷した。
・主祭神(平安時代前期までの、出雲国造神賀詞):大穴持命
・主祭神(中世のある時期から17世紀まで):素戔嗚尊(スサノオノミコト)
・主祭神(寛文4年ないし寛文5年以後):大国主大神
  ・神名火山/神奈備山は、ないかもしれません。近くに、楯縫(タテヌイ)郡に「大船山」があります。
・主要な祭事:神在祭(御忌祭)(旧暦10月11日〜17日)
・御神紋:二重亀甲に剣花菱

④能義(ノギ)神社:島根県安来市能義町366番地(飯梨川水系)
・主祭神(当初):野城(のぎ)大神。
・主祭神(平安時代):天穂日命(アメノホヒ、天照大神の第二子)
  因みに、「野城大神」は、高天原から出雲の国譲りのために派遣された「天穂日(命」が主祭神として祀られ、野城大神は、祀られる神社さえ失っている。

(2)但馬国

 兵庫県・但馬国には、①渡来人の祖神の五座の男祭神の「女王国越系大賀羅国人(=粟鹿)」を称する但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社、②「DNA鮮卑族前(サキ)族」の出石八前(イヅシヤマエ)大神と「DNA縄文人混血呉系倭人」の天日槍(アメノヒボコ)を主祭神とする但馬一之宮出石(イズシ)神社、③「女王国越系大賀羅国人」が出自の倉稲魂(ウガノミタマ)命[=支佐加(キサカ)比売命]と神武朝後裔で和邇氏の臣下となった「DNA匈奴休氏ニニギ族」の丹波道主谿羽道主(タニハミチヌシ)命、金属・鍛冶族の「DNA濊」八(ヤ)族の大己貴命(オオナムジ)、新羅初代王の「DNA呉系倭人」である少彦名命、の五座を主祭神とする但馬三之宮養父神社があります。
 それぞれ「DNA種族」が異なる多くの主祭神が祀られて、整合性がないのが特徴です。ヤマトに近いので、これら但馬国の祭神は、出雲国以上に祭神の実体の隠蔽と改ざんがされています。

但馬国の三社は、出雲国の三社と一見相互関係がなさそうですが、深い関係があります。出雲二ノ宮佐太神社の主祭神の支佐加(キサカ)比売命[=倉稲魂/宇賀御魂(ウガノミタマ)命]は、生育地が但馬・闇見(くらみ)国です。但馬一之宮粟鹿神社は、倉稲魂(ウガノミタマ)命を暗喩する女王国「越系大賀羅国人」を称する名で、現主祭神の五座は皆男神です。但馬三之宮養父神社の主祭神は五座で、四座の男神と倉稲魂(ウガノミタマ)命[=支佐加(キサカ)比売命]です。
 但馬国の三社は、旧勢力の「DNA越系倭人」系、「DNA呉系倭人」系、「DNA匈奴金氏」系、「DNA匈奴休氏ニニギ族」系に、新勢力の「DNA源流鮮卑族和邇氏」、「DNA呉系倭人」系が整合性がなく共存する祭神群です。
そして、政事統括者の「DNA縄文人」系は、出雲国同様に三社の祖先霊を祭祀する神社の祭神には含まれていず、「DNA縄文人」系の精霊信仰の神奈備山を隣接して付帯しています。但馬一之宮粟鹿神社の神奈備山は、東側に隣接する尾張氏系の粟鹿山=見国山(962m、粟鹿神社の南側)です。但馬三之宮養父神社の神奈備山は、南側に隣接する物部氏系の弥高(ヤタカ)山(標高372.2m)です。但馬一之宮出石神社は、現在も伝承されている神奈備山が見出せませんでしたが、北側に隣接する有子山(標高:321m)かもしれません。
 但馬国の政事統括者は、「DNA縄文人」系に変わりがありませんが、「出雲の国譲り」を機に、尾張氏(最大拠点は但馬一之宮粟鹿神社付近)から物部氏に変わります。日本列島の政事統括者は、「DNA縄文人」系であり、「出雲の国譲り」を機にした「DNA匈奴」系と「DNA鮮卑族」系との間の覇権抗争は、朝鮮半島の王朝の易姓革命を反映した渡来人間の抗争であることに留意しておく必要があります。<ヤマト王朝>の集権王朝説は、<ヤマト学者>の偏見で、歴史の真実をいたるところで歪曲矮小化しています。平安時代に和邇氏系藤原朝が日本の政事統括者になったことによる御用学者の台頭です。

①但馬一之宮粟鹿(アワガ)神社

 但馬一之宮粟鹿神社の現主祭神は、ニニギノ命の第二子の「DNA匈奴休氏ニニギ族」の彦火々出見(ヒコホホデミ)命、第9代開化天皇の第三の「DNA源流鮮卑族和邇氏」の日子坐王、大国主の子の「DNA匈奴金氏」の阿米美佐利命(アメミサリノミコト)の三座とされています。「母系DNA越系ヤオ族倭人」の支佐加(キサカ)比売命[=倉稲魂(ウガノミタマ)命]に相当する神は巧妙に隠されていません。

「粟鹿(アワガ)」は、現日本語、古楚語に使われる「被修飾語(例:地方名/分国)+修飾語(例:本貫/母国)」の文法による表記で、「粟(アワ)鹿(ガ)」の「粟(アワ)」は、「越」の倭名である「高志(kosi)=越(kosi/etu)」を古代特産品の粟(アワ)で象徴した通字です。「鹿(ガ)」は、大賀羅国(現韓国高麗)の通字の「賀(ガ)」であり、扶余(プヨ)国のトーテムの「鹿(シカ)」の両意です。越系「戸売(トメ)」系統の支佐加(キサカ)比売命=倉稲魂(ウガノミタマ)命は、扶余族盟主である第一位女王の後裔です。つまり、「粟(アワ)鹿(ガ)」は、「扶余族盟主の後裔の大賀羅国の越系女王」の意で、「母系DNA越系倭人」の第一位祭祀女王後裔の越系戸賣(トメ)系統を暗喩しています。粟鹿神社の勅使門の彫刻の鳳凰(ホウオウ)は、春秋時代越(紀元前600年頃~紀元前306年)の第一位祭祀女王のトーテムと同じです。

因みに、徳島県阿波(アワ)国にも同じようにオオゲツヒメの神話が残っており、「粟=越」を通字にしています。古事記には、徳島県阿波国のオオゲツヒメ(大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)はスサノオに殺されたと記されています。徳島・阿波国の「DNA越系倭人」族は、阿波国一之宮・八倉(ヤクラ)比売神社が示すように鉄・鍛冶族の倉見(クラミ)国のDNA濊族(倭名は「ヤ族」)と通婚同盟しており、「DNA匈奴金氏」族とは当初同盟関係にはなかったことを指しています。

粟鹿神社は、但馬の倉見/闇見(クラミ)国にありました。「倉見/闇見(クラミ)」とは、当初は暗い山谷の風で鉄・鍛冶に用いる火を起こしたことからくる鉄・鍛冶の意です。後には、海砂鉄、山鉄からの採取に移り、平地でフイゴが使われるようになります。越系「戸賣(トメ)」系統は、祖が朝鮮半島で鉄・鍛冶族の濊(ワイ)族と通婚同盟したのが始まりです。松江市の嵩山(ダケサン)にも、初期の「倉見/闇見(クラミ)」がありました。

粟鹿神社は、境内に円墳がある異例の神社の一つです。神社や寺の敷地内には、陵がないのが普通でした。粟鹿神社は、越系戸賣(トメ)系統の女神の住居跡に陵が造られたか、但馬三之宮養父神社が住居で後に築造された神社かです。

粟鹿神社の現主祭神の一人のニニギノ命の第二子の「DNA匈奴休氏ニニギ族」の彦火々出見(ヒコホホデミ)命は、初代神武天皇B憂位[=高句麗第10代高氏始祖山上王(在位:197~227年)]の父で、伴侶は「DNA呉系倭人」である中国江南海人族の豊玉媛です。ニニギは、2世紀中頃に南海ルートの海路を通って奄美経由で南九州日向に入島しました。ニニギは、「DNA呉系倭人」である中国江南海人族のコノハナサクヤ媛との間に彦火々出見(ヒコホホデミ)命を儲けました。彦火々出見(ヒコホホデミ)命は、そこで海神の豊玉媛との間に「DNA匈奴休氏ニニギ族」である初代神武天皇B憂位居の父の鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ)尊[後に高句麗第10代山上王位宮(在位:197~227年)]を儲けました。初代神武天皇B憂位居は、「DNA匈奴金氏」であるスサノオの宗主で、離反したスサノオ一族を許さず、新羅・金官加羅国の大国朝を滅ぼしました。彦火々出見(ヒコホホデミ)命は、国祖として、後に追加された祭神です。豊玉媛は海人族ですので、奥深い粟鹿神社の主とはなりません。

粟鹿神社の現主祭神の一人の「DNA源流鮮卑族和邇氏」の日子坐(ヒコザ)王は、第9代開化天皇[=高句麗第18代故国壌王(在位: 384~391年)]と和邇氏遠祖の姥津命の妹の呉系「トベ」系統の姥津(ハハツ)媛=意祁都(オケツ)比売命との間に生まれた第三皇子です。日子坐(ヒコザ)王は、越系「戸売」系統の支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命=第二代伽耶媛・宇迦御魂命(ウガノミタマノミコト)=第二代戸売(トメ)・沙本之大闇見戸賣(サホノオオクラミトメ)=新羅金氏玉帽夫人より後世の生まれです。日子坐(ヒコザ)王は、母系制で但馬で生まれましたが、生育地は越系「戸売」系統の粟鹿神社とは別な地です。日子坐(ヒコザ)王の母は、呉系「トベ」系統の姥津(ハハツ)媛ですので、越系「戸売」系統の粟鹿神社の主ではありません。成人になって母国の高句麗王族の分国である大賀羅国に回帰し、その後、倭国に回帰することはありません。日子坐(ヒコザ)王の墓は、宮内庁では岐阜市岩田西にあり、墓に隣接して伊波乃西(イワノニシ)神社があります。第9代開化天皇=高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)は、実父が「DNA鮮卑族慕容部」、「体」の継承父が「DNA縄文人混血呉系倭人」の第8代孝元(コウゲン)天皇=高句麗第18代故国壌(ココクジョウ)王(在位: 384~391年)、実母が「母系DNA縄文人混血呉系倭人」の欝色謎命=姥津(ハハツ)媛です。つまり、「DNA鮮卑族和邇氏」の日子坐(ヒコザ)王は、「出雲の国譲り」後の新しい支配者である「DNA鮮卑族慕容部」と「DNA源流鮮卑族和邇氏」を象徴する祭神として後世に付け加えられたもので、粟鹿神社の主ではありません。

粟鹿神社の現主祭神の一人の「DNA匈奴金氏」である阿米美佐利(アメミサリ)命は、大国主の子です。但馬国の「出雲の国譲り」前の旧支配者は、尾張氏と「DNA匈奴」系で、「出雲の国譲り」後に物部氏と和邇氏に変わります。支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命の伴侶は、初代大国主・スサノオの継嗣(長男)の第二代大国主・大歳=ニギハヤヒ=新羅葛文王骨正(注:出雲の国譲りの時には既に歿しています)と、「出雲の国譲り」の当事者の大歳の継嗣の第三代大国主・事代主命=新羅第11代助賁(ジョフン)尼師今(在位:230~247年)です。つまり、阿米美佐利(アメミサリ)命は根拠地は九州で、支佐加(キサカ)比売命=宇賀御魂命の伴侶として粟鹿神社の現主祭神の一人に後世追祀されたもので、粟鹿神社の主ではありません。

以上のように、粟鹿神社の現主祭神の三座は、日子坐王と彦火々出見(ヒコホホデミ)命は「出雲の国譲り」後の新しい畿内王朝の支配者を象徴したものであり、旧支配者の大国主の子の阿米美佐利命(アメミサリノミコト)を倉稲魂(ウガノミタマ)命の代わりに祭祀したものです。本来の粟鹿神社の主の支佐加(キサカ)比売命=倉稲魂(ウガノミタマ)命を巧妙に隠すために倭国の新旧の男祖神の三座が祭祀されています。

②但馬三之宮養父(ヤブ)神社

 現在、但馬三之宮養父(ヤブ)神社に祀られる祭神は、「母系DNA縄文人混血越系倭人」の倉稲魂(ウガノミタマ)命[=天照大神]、鉄・鍛冶業の祖の「DNA濊」ヤ族の大己貴命(オオナムジ)、「DNA縄文人混血呉系倭人」の新羅王祖の少彦名命[=新羅初代朴氏始祖赫居世(カクキョセイ)居西干(コセイカン)(在位:紀元前57~4年)]、和邇氏の臣下になった「DNA匈奴休氏ニニギ族」の丹波道主・谿羽道主命(タニハミチヌシノミコト)、新しい支配者和邇氏の第9代開化天皇の皇子の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である船帆足尼命(フナホソコネノミコト)の五座とされています。

「養父」を「ヤブ」と読むことは、現住民でさえ全く不可解な読み方です。これは、新たな支配者である「DNA鮮卑族」が押し付けた新しい漢字名「養父」とその呼音「ヨウフ」に対し、旧勢力の匈奴は表向き新漢字「養父」を用いましたが、呼音は以前の「ヤブ」を新漢字に適用しました。
 「養父」の名の考えられる由緒です。300年に魏の臣下で遼東支配していた鮮卑族慕容廆(カイ、333年歿)と高句麗王族分国の「DNA縄文人混血呉系倭人」の天日槍(ヒボコ)は同盟して、「DNA匈奴休氏ニニギ族」の高句麗第14代高氏烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300年)を敗北させ、高句麗休氏(=高氏)朝は滅亡しました。烽上(ホウジョウ)王は、母の倭国本拠地の新城(兵庫県養父町)に亡命し、第9代開化天皇の皇子の「DNA源流鮮卑族」和邇氏である船帆足尼命(フナホソコネノミコト)の臣下となり、丹波道主・谿羽道主(タニハミチヌシ)命と改名しました。和邇氏船帆足尼命(フナホソコネノミコト)が、谿羽道主命の「養父(ヨウフ)」となったことが由緒で、新しい支配者の誇示です。二人共、倉稲魂(ウガノミタマ)命の後世の人間で、「出雲の国譲り」後の新しい支配者です。

神社の名からは、但馬三之宮養父(ヤブ)神社は、新しい支配者の「DNA源流鮮卑族」和邇氏を誇示する神社となり、中核祭神は、本来第9代開化天皇の皇子の和邇氏船帆足尼命(フナホソコネノミコト)ですが、判官びいきで丹波道主・谿羽道主(タニハミチヌシ)命に変わっていったと考えられます。

養父(ヤブ)神社には神奈備山が付帯しているので、本来「母系DNA縄文人混血呉系倭人」の『大后・女首長』の住居で、神奈備山は物部氏の精霊信仰の山となります。「国譲り」後、物部氏が但馬国の政治統括者となり、但馬国から日葉酢(ヒバス)媛命=川上日女命(第11代垂仁)、宮主・矢河枝(ヤカワ)/宅(ヤカ)比売=物部氏山無(ヤマナシ)媛連=皇夫人・和邇津野媛(姉)=新羅・伊利夫人/企利夫人、袁那辨郎女(オナベノイラツメ)=和珥津野弟媛(オトヒメ)=新羅金氏阿留夫人、八田媛(ヤタヒメ)、和邇氏系菟道稚(ウジノワキ)郎女=和邇氏系葉山媛命、等の呉系「トベ」系統の『大后』を輩出しますが、呉系「トベ」系統の『大后』の祖のあるべき神社が表にありません。これは、物部氏と呉系「トベ」系統の『大后』は、畿内・ヤマトに遷都したので、表に出したくなかったことによるものです。

養父(ヤブ)神社祭神の五座は、あっちこっちに気を使った寄せ集めで数も多く、祭神の体系が不整合です。つまり、養父(ヤブ)神社は、倉稲魂(ウガノミタマ)命[=天照大神]を但馬一之宮粟鹿神社の代わりに表立って祭祀するために、和邇氏の臣下となった丹波道主・谿羽道主命に合祀する体裁とし、カモフラージュのために大己貴命(オオナムジ)と新羅王祖の少彦名命も合祀しています。養父(ヤブ)神社は、「国譲り」後に為政者に変わった「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である呉系「トベ」系統の『大后』系の住居と考えられますが、祭神からは外されています。

養父(ヤブ)神社の祭神の一人の倉稲魂(ウガノミタマ)命[=天照大神]は、本来粟鹿神社の主祭神の筈ですが、「DNA源流鮮卑族和邇氏系」と「母系DNA縄文人混血呉系倭人」の新しい支配者系の養父(ヤブ)神社に、呉系「トベ」系統の『大后』系に「国譲り」をした証として支配者側神社に祀られています。
金属鍛冶族の祖の「DNA濊」ヤ族の大己貴(オオナムジ)命と「DNA縄文人混血呉系倭人」の新羅王初代の少彦名命は、倉稲魂命の先住者で、同じように支配者側神社に合祀させられています。

③但馬一之宮出石(イズシ)神社

 現在、但馬一之宮出石(イズシ)神社に祀られる祭神は、「大神」がついた最も古いと思われる「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」の出石八前大神(イヅシヤマエノオオカミ)と「DNA縄文人混血呉系倭人」の天日槍(アメノヒボコ)命の二座です。出石(イズシ)神社の祭神二座は、「国譲り」前の但馬に君臨していた「母系DNA縄文人混血呉系倭人」の女首長の祖を、和邇氏藤原朝の父系為政者の一本化の体制変更にしたがって伴侶の男王にしたものです。出雲国二之宮・佐陀神社/佐太神社(明治に改称)同様に、海と川に面した海洋貿易に便利な地に居をかまえました。

「出石(イヅシ)」の語源は、コシ(kosi、越/古志)と同意の「イソ、iso(伊孑、石)」の転訛語の「イヅ、izu(伊都=高志/越)」と地の意の「シ(志)」が合わさった語で、「呉人の意味での越人の地・国」の意です。
出石八前大神(イヅシヤマエノオオカミ)[=高句麗第3代(養子)解(ヘ)氏大武神(タイブシン)王(在位:18~44年)=新羅第4代昔(ソク/ソ)氏脱解(タレ)王 (在位:57~80年)=初代鮮卑族神武天皇A脱解(タレ)]の「八前」は、「八(ヤ)」族と「前(サキ)」族の合体を意味しています。紀元前7年、タバナ国(丹波)で生まれました。出石八前(ヤマエ)大神は、倭国建国前夜を象徴する大神です。

「前(サキ/マエ)」族・Y-DNA「O2a2a系」は、祖が和邇氏・Y-DNA「O2a2b系」と同じ「DNA源流鮮卑族」の遊牧民で、最も初期の渡来部族の一つで、日本列島に広く居ました。「前」系神社は、相模国四之宮前鳥(サキトリ)神社(神奈川県平塚市四之宮4-14-26)、前(サキ)神社(松江市八雲町熊野2451、出雲一之宮熊野大社境内摂社)があります。「前」族は、「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」・Y-DNA「O2a2a系」の脱解(ダヘ)が始祖です。
倭名「八(ヤ)」族とは、扶余諸族の初期の盟主の濊(ワイ)族(Y-DNA「O1b1系」)が祖です。因みに、第二代扶余諸族盟主が高句麗です。濊族は、古志(越)系イザナミ神の子とされていますが、イザナギ、イザナミと違う系統で、伊邪那岐(イザナギ)命以前に日本に渡来した我国の初期弥生人です。迦具土神と越系イザナミとは対婚族の同盟関係であったと思われます。

濊(ワイ)は、日本では「ヤ」と呼ばれ、「八・夜・矢」などの形成漢字で表された鉄・鍛冶族の渡来人です。日本での祖神は記紀神話における火のであり、山の神である迦具土(カグツチ)神あるいは蛭子(ヒルコ)神、戎神です。福井県大野市に「矢(ヤ)」の名前の集落があります。二から三世紀頃、中国・春秋時代呉の流民や、辰国(チングク)に押された朝鮮半島の濊(イェ、わい)族と加羅人が日本に大挙渡来しました。濊族は、統一国家の道をとらず、高度な「火を使う」鉄器文化を持ち、製鉄・造船・航海などのハイテク技術をたずさえて、朝鮮半島南部から出雲一帯や九州北部を経て、本州に広く進出し、原野を拓いて日本の土台作りを行ないました。濊(ワイ)族は、太陽信仰、虎トーテムで、山神のルーツです。濊族の日本での祖神は記紀神話における火の神であり、山の神である迦具土(カグツチ)神あるいは蛭子(ヒルコ)神です。「蛭子(ヒルコ)」神は、「日の子(太陽の御子)」を意味し、濊族系の鉄・鍛冶族の首長です。ヒルコは「えびす(戎)神」として信仰され、ヒルコ(蛭子神)を祭神とする神社は全国的にあり、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られています。
天日槍(アメノヒボコ)命は、「DNA縄文人混血呉系倭人」で、高句麗王族分国の大賀羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)命=高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=九州西倭王・第6代孝安(コウアン)=兵主(ヒョウズ)神です。天日槍(アメノヒボコ)命は、「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である母の倭国根拠地である但馬の出石(イズシ)神社で生育し、朝鮮半島に回帰しました。鮮卑族慕容部の慕容廆(カイ、333年歿)と同盟し、「DNA匈奴休氏ニニギ族」の高句麗第14代高氏烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300年)[=丹波道主・谿羽道主命(タニハミチヌシノミコト)]を敗北させ、高句麗第15代美川王(在位:300~331年)に就きました。天日槍(アメノヒボコ)命=九州西倭王・第6代孝安(コウアン)は、高句麗系呉系倭人朝(第6~9代)の祖です。

因みに、神功皇后は、現韓国蔚山(ウルサン)市と接する機張(キジャン)郡の和邇氏系機張(キジャン)国の媛で、「DNA鮮卑族慕容部」である第11代垂仁(スイニン)天皇と「DNA縄文人混血呉系倭人」の天日槍(=第6代孝安天皇)の孫の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である葛城(カツラギ)高顙/高額(タカヌカ)媛との子です。
高句麗系九州倭国王(第6代孝安(コウアン)以降)と百済系畿内倭国王(第11代垂仁以降)の王朝は並立します。ただし、九州も畿内も政事統括者は、DNA縄文人系大首長『大連』(氏族は物部氏、後裔の石上氏)です。九州は大宰連合府、畿内は難波連合府が政事統括府でした。

<以上>

<次は、第三部 論理的事実に基づく倭国体系の考察と結論>