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2024.8.16追補:2-6.倭国は世界標準の複都制

写真:但馬国一ノ宮粟鹿神社

2-6.倭国は世界標準の複都制

 古代の日本では、中国の周(紀元前1046年頃~紀元前256年)以後の王朝、朝鮮半島の高麗(918年~1392年)、古代ローマ帝国(紀元前27年~1453年)、等と同様に複都制が採られました。
 倭国では、父系制政事統括者と母系制非政事統括者の同位共同為政体制であり、また、母系制非政事統括者の倭国と四韓の連枝という独自の状況に添った複都および陪都が設置されました。つまり、世界の父系制王朝の複都制と違って、先ず父系制政事統括者『大連』と母系制非政事統括者『大后』の通い婚を伴う二都制であり、更に、それぞれが複都あるいは陪都(バイト)を置きました。

出雲王朝の時代、松江市・佐太神社の都と『女王』の但馬・粟鹿神社の陪都がありました。

倭国の時代、母系制非政事統括者『大后』は、安全性を最優先した奥まった奈良県大和・飛鳥の都と吉備の陪都が置きました。父系制政事統括者『大連』は、海運と経済性に便利な大阪湾沿岸の東倭国の摂津国楠葉宮、その後の難波宮と朝鮮半島との倭国入口の西倭国の九州筑紫・大宰府を置きました。
 大和を単一の国都とする主張は、事実を考究しようとしない立場・都合主義の御用学者によるものです。
 第36代孝徳時代に難波宮に移った時、そして第38代天智が近江大津宮に移った時にも、『大后』の飛鳥の都は存続され、それぞれ飛鳥との二都でした。
 第40代天武は、683年(天武天皇12年)に難波を飛鳥とともに都としました。
 793年(延暦12年)に第50代桓武天皇は、難波宮と飛鳥の宮を廃して、京都・平安京を単一の都としました。この時、天上の非政事統括者と地上の父系制政事統括者は、両方が父系制男系に移りました。
 明治維新時に江戸を東京と改名し、奠都(テント)による京都との両京制とし、京都には留守官を置きました。因みに、遷都は前の都を廃止し首都を新設するという意味、奠都(テント)は前の首都を残したまま新たに都を造るという意味です。明治4年(1871年)には、東京がほぼ単一の国都になります。1889年(明治22年) に旧皇室典範で『「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で行う』と規定します。
 1897年(明治30年)、教育学者日下部三之助の発案で、渋沢栄一、大倉喜八郎、清水満之助らが協賛し、奠都三十年祭を開催しており、一般人にも東京は奠都(テント)と認識されています。
 大正天皇、昭和天皇の「即位の礼」と「大嘗祭」は、京都で行なわれました。
 1990年(平成2年)、 第125代天皇明仁の即位の礼が、史上初めて東京の皇居で行われました。
 2019年(平成31年/令和元年)、第126代天皇徳仁の即位の礼、大嘗祭が皇居で行われました。

(注)世界の複都制の例

 古代の中国、朝鮮、古代ローマ帝国などに、国都が二つから七つ程度ある複都制がありました。世界標準は複都制のようです。

中国の複都制は、周(紀元前1046年頃~紀元前256年)に始まります。中国王朝は、王朝の本拠地と征服地の双方の統治、軍事力と統治権力の首都機能と経済力の首都機能の両立、遊牧国家の影響などから複都制が盛んでした。
 周(紀元前1046年頃~紀元前256年)は、後の長安の前身となる関中の鎬京と洛陽の両都制でした。
 前漢(紀元前206年~8年)は、長安を首都とし、洛陽を複都としました。後漢(25年~ 220年)は、洛陽を単都としました。
 南北朝時代の北周(556年~581年)は、政権中枢の軍事力の集結する関中の長安を都とし、東方の華北平原への出口に位置する洛陽を穀倉地帯からの物資を集積する陪都とする複都制をとりました。
 隋(581年~618年)は、北周の二都制を引き継ぎました。
 唐(618年~907年)は、長安の首都、洛陽(東都)の陪都、北都として騎馬軍事力を扼する汾水流域の太原を加えた三京でした。757年には、更に西域を望む鳳翔(西京)、穀倉地帯の成都(蜀郡)が加えられ五京にしました。武則天は、その治世の間は長安にほとんど行かず洛陽に住んでいました。
 渤海(698年~926年)は、上京龍泉府(現在の黒竜江省牡丹江市寧安市渤海鎮)、東京龍原府(吉林省琿春市八連城)、中京顕徳府(吉林省和竜市)、南京南海府(北朝鮮清津市付近)、西京鴨緑府(吉林省臨江市)の五京を置きました。
 征服王朝である遼(916年~1125年)や金(1115年~1234年)は、根拠地である遊牧地域と征服下においた漢民族の地域を統治する五京制などを採用し、多数の統治拠点をおきました。
 金(1115年~1234年)は、遼(916年~1125年)の五京制を継承し、1138年に会寧府を「上京会寧府」とし、遼の「上京臨潢府」を「北京臨潢府」に改称、北宋(960年~1127年)の首都であった開封を「汴京開封府」として、七京としました。 
 モンゴル帝国(1206年~1635年)の皇帝直轄政権として成立した元(1271年~1368年)は、皇帝は夏営地に設けられた夏都の上都と冬営地に設けられた冬都の大都の間を季節巡回しました。
 明(1368年~1644年)は、当初建国地の南京(応天府)が都でしたが、1403年(永楽元年)に旧大都の北平を都に定め、1421年(永楽19年)「北京順天府」と改称して、北京を主都とし、南京応天府を副都として複都制に移行しました。
 清(1644年~1912年)は、建国の地である盛京と共に、征服した中華世界を統治するために明の北京・南京の首都機能を継承しました。
朝鮮・高麗(918年~1392年)は、正都開京(開城)に、東京(慶州)、西京(平壌)を加え三京とし、1010年に南京(漢城、現在のソウル)を加え四京としました。
 ローマ帝国(紀元前27年~1453年)は、2世紀後半に帝国の行政区画が東西に分けられ、2人の正帝と2人の副帝によって四分統治されました。これにより各皇帝が拠点を置いたニコメディア(イズミット)、シルミウム、メディオラヌム(ミラノ)、アウグスタ・トレヴェロールム(トリーア)が各地方の実質的な首都となりましたが、名目的には元老院のあるローマが帝国全体の首都とされました。
<以上>