見出し画像

2024.10.3改訂<新版統合版>第四部(上) 記紀の論理的歴史の概要∶先史時代から倭国前期の雄略朝(4-1~4-5)

写真:妻木(ムキ)晩田(バンダ)遺跡(鳥取県西伯郡大山町妻木1115-4)の四隅(ヨスミ)突出(トッシュツ)型墳丘墓


4.記紀の論理的歴史の概要

4-1.記紀の論理的歴史の構成

  記紀の論理的歴史の概要は、記紀編纂者達が考えたと推察される区分に分けて構成し、論理的事実を歴史の流れから再検証します。つまり、4-2.日本列島原住の縄文人、4-3.先史時代、4-4.倭国前史、4-5.記紀の神武朝から雄略朝までの皇朝前期、4-6.記紀の直祖・第26代継体から第36代末王孝徳までの皇朝本史、4-7.欽明朝に繰りこまれた高句麗物部朝、4-8.645年以降の物部氏同盟と第40代天武同盟の覇権争い、で構成します。

4-2.日本列島原住の縄文人

4-2-1.日本列島原住の「DNA縄文人」

    縄文人は、現在まで存在している現生人です。近年の「GWAS(ゲノムワイド関連解析)」の解析では、少なくとも約3万5,000年間にわたって日本列島に住む人々の父系のY-DNA「D1a2系」には大きな変化がなく、他民族からの征服による遺伝的な影響を受けていない世界唯一の民族であるということが明らかとなっています。

縄文人は、出アフリカした現生人類の現存するもっとも古い人類です。
北京原人(約68万年~78万年前)やネアンデルタール人(31万5000年~80万年以上)は、分子生物学から現生人類の祖先ではなく、絶滅しています。
縄文文明は、世界の四大古代文明(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河・長江)に先立っている古代文明です。世界を驚かせているのが、この縄文社会の世界最長の持続性です。

縄文時代は、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられ、一般的に16,000±100年前から約3,000年前までとされていますが、近年12万年前の遺跡[島根県出雲市砂原遺跡]が発掘されました。
紀元前6千年頃には「DNA縄文人」の一部は、日本列島から移動して5000
年間無人となった朝鮮半島南部から中部にかけても居住しました。韓国最古の土器は、紀元前6千年頃に製作された日本列島に起源があるとされる「隆起線文土器」です。現韓国には、約4%の「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2系」がいます。2018年に篠田謙一等の全ゲノム解析から、朝鮮半島からの渡来弥生人はすでに朝鮮半島で「DNA縄文人」と混血していたことが明らかになっています。
   二世紀頃の初代伽耶媛が「DNA縄文人」と通婚した別名があることは、この時代にはすでに「DNA縄文人」と通婚していたことを示しています。

4-2-2.九州の旧石器人や縄文人を死滅させた巨大カルデラ噴火

 縄文時代の二つの巨大噴火によるその後の縄文人の東北地域への偏在の根拠と縄文人に関する従来の通説を翻す数々の新事実の概要を紹介します。

  地下のマグマが一気に地上に噴出する壊滅的な噴火形式を表す「破局的噴火」は、約1万年に1度は起こると地質学的にみられています。
 氷河期の終わりの約2万9,000 年前に大噴火した「姶良(アイラ)カルデラの噴火」は、桜島を北端とする鹿児島湾の南半分の巨大な噴火口で、通称「姶良(アイラ)カルデラ」と呼ばれています。戦時下の1943年、九州帝大教授地質学者・松本唯一(1892年生~1984年歿)が発見しました。火砕流圏外の南九州でも火山灰が3mの厚さで堆積しており、高知県宿毛市で 2m、鳥取県大山付近で80cm、京都市で40cm、東京で1 cm、東北南部まで飛散しています。
 徳之島ではシラス(火山灰)地層の下に旧石器時代の遺物が発掘されており、九州や中国地方の旧石器時代人は絶滅したと思われています。

次に、約7300年前(紀元前5330年)に、鹿児島市南100kmの薩摩硫黄島で、過去1万年内では世界最大規模の「鬼界(キカイ)カルデラ大噴火」が起こりました。九州帝大教授地質学者・松本唯一は、鬼界ヶ島にちなんで鬼界火山と命名し、1943年に「鬼界カルデラ」として学会に名称を報告しました。
 1976年には「アカホヤ」と呼ばれていた地層がこのカルデラを起源としていることが確認されました。
 2016年から2017年にかけて行われた海底調査の結果、直径約10 km、高さ約600 m、体積約30 km3にもなる巨大な溶岩ドームが確認され、現在も活発な噴火活動が続いていることが判明しました。火山灰は、九州南部において30cm以上の厚さ、琵琶湖では3~5cmの厚さ、東北地方の一部、韓国南部にまで飛んでいます。
 縄文時代早期の日本列島では、他の地域に比べ南九州で成熟した縄文文化が発達していました。本州ではまだ屋外で地面に穴をあけてそこに立てるように置いて使われていた先の尖った尖底土器を使っていたのに対し、南九州では平底型の土器が既に使われていました。平底土器は、住居の中での調理や貯蔵にも使うことができ、縄文人のライフスタイルが「定住型」に変化した証拠だと言われています。 
 「鬼界カルデラ」の大噴火は、特に、種子島、屋久島、薩摩半島南部および大隅半島南部は幸屋火砕流が直撃し、当時居住していた縄文人の生活に壊滅的大打撃を与えました。また、南九州では火山灰の影響により約600年から900年間は照葉樹林が復活しませんでした。「鬼界アカホヤ火山灰」の降灰によって、南九州の縄文人は、イノシシやシカ、エビやカニなどの多くが死滅し、魚も激減し、食料を調達できなくなりました。その後、南九州の最先端文化は壊滅し、1,000年近くは無人の地となったと考えられています。この大噴火は、九州の縄文人を日本列島の北部に移動させ、縄文大遺跡が北海道・東北地方・新潟県を中心に確認されている偏在の根拠となります。
 その後に住み着いた前期縄文時代の縄文人(Y-DNA[D1a2a系」)は、以前とはルーツ(Y-DNA「C1a1系統」)が異なり、土器の様式も以前に戻りました。
 比較的近年、「アカホヤ」の地層の下から縄文時代の大集落が発見され、舟作の工具(世界最古)や燻製(クンセイ)施設と大量の炉、独自の貝殼紋の土器などが見出されました。「鬼界カルデラ」の大噴火は、この高度な海洋民族を思わせる縄文人を全滅させました。その後、1,000 年ほど九州は無人の地だったようです。

近年、縄文人に関する従来の通説を翻す数々の新事実として以下のようなことが注目されています。
・日本列島からも発生した人類(島根県砂原遺跡から11万年前の縄文人)
 島根県砂原遺跡から11万年前の縄文人が発掘されました。これから、約6万年前にアフリカを出たとする学説では説明できず、人類はアフリカの一ケ所から生まれたのではなく、スンダランドや日本列島などの複数から生まれたとも考えらています。
・日本列島から生まれた文字(神代文字、竹内文書)が、中国の漢字の起源。
・稲は日本列島が発祥し、中国に伝搬。
・旧石器時代に縄文人は定住を開始(平底土器)。
・旧石器時代の日本列島は世界の最先端の文明地帯(磨製石器、勾玉)。
・縄文人は海洋民族(外洋航海ができた丸木船。黒曜石・翡翠の交易)。
・朝鮮半島は12000年から7000年前の5000年間は無人。7000年前に日本列島から移動した縄文人が先ず住みつく。

4-2-3.倭国部族同盟統括者の「DNA縄文人」である尾張氏、大伴氏、物部氏の概要

 「DNA呉越系倭人混血縄文人」族は父系制ですが、「母系DNA呉越系倭人」である母系の氏族名とトーテムも使っていました。つまり、父系だけでなく母系からも考えることが肝要です。

 日本列島の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である統括者は、圧倒的な人力、兵力、財力、輸送力、情報伝達力をもっていた「DNA呉越系倭人混血縄文人」で、尾張氏、大伴氏、物部氏の三氏族に限られ、皆軍事も管掌していました。その筆頭統括の氏族は、尾張氏、大伴氏、物部氏と移っていきます。これら三氏族の祖は、皆南海ルートの奄美・北九州から日本列島に入島しました。
 南海ルートの奄美・北九州から日本列島に入島したのは「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a1系」、北方ルートの樺太・北海道から日本列島に入島したのは「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2a2系」と推測されます。

 出雲臣・千家は、奈良時代の大和王朝の臣下であるだけでなく、北方ルートの樺太・北海道から日本列島に入島したと推測されるように、倭国部族同盟統括者の資格氏族に入ることができませんでした。
 北方ルートの樺太・北海道から日本列島に入島した「DNA縄文人」は、巨木高層建造物の文化を持ったようです。

4-3.先史時代

4-3-1.源流縄文人と扶余族系倭人と扶余族の共通原郷

<第一原郷>
・源流の縄文人や扶余族の原郷は、シベリアのバイカル湖・ウブス湖付近
・源流の縄文人や匈奴系の原郷は、アムール川とアムール川の近くの中国の海に流入しない内陸河川である黒河/弱水(ジャクスイ、ジャウス:松江江の古称)。
 「弱水」は、ジャク・ムズ⇒ヂャ・ミズ⇒チャウス(日本名の形成漢字は「茶臼」)と音韻変化しました。
 「弱水」を弥生人の古代朝鮮語で読むと、ヤ・ムル→アムール(黒竜江)→アマル(余)、アマオル(天降)と音韻変化·形成漢字変化しました。
・「DNA匈奴休氏ニニギ族」の原郷は、中央アジアの安息国(=ペルシャ系パルチア王国)領内の亀茲(クチャ)です。
・朝鮮半島の楽浪[漢語音:le lang(ルーラン)]郡の原郷は、現在の中国領新疆ウイグル自治区「楼蘭(ローラン)」です。「楼蘭(ローラン)」に由来する日本地名等は、「楽浪(ラクロウ⇒さざなみ)」⇒「ササ(笹/細)」、「膳所(ジェンジェン⇒ぜぜ)」、「上田(ジョウデン⇒うえだ)」です。
・朝鮮半島の「帯方(turfan)」郡の原郷は、現在の中国新疆ウイグル自治区「吐魯番(トルファン、turfan)」。「帯方(turfan)」に由来する日本地名等は、「取方(トルファンの形声漢字)⇒諏訪[「取方」に「ごんべん(言偏)」を付加]⇒諏訪(スファ→スワ)、周防(sufo)」です。
・春秋時代呉越系倭人や匈奴系の原郷は、中国江南地域(呉人系:蘇州、越人系:紹興⇒青島)です。
・金官加羅国の第二本拠地は、中央アジアのトルコ=テュルク[形成漢字は突厥]です。

<第二原郷:多くの種族・部族が集結した地域>
・匈奴系と鮮卑族系と呉越系倭人が集結した原郷は、現中国東北省通化(トウカ)市付近です。
 転訛語・転訛音は、「通化(トウカ)⇒稲荷(トウカ)⇒いなり(稲荷)」です。

<第三原郷:日本列島に渡来直前の祖郷>
・匈奴系と鮮卑族系と呉越系倭人の日本列島に渡来直前の祖郷である第三原郷は、金官加羅国(韓国南部・釜山近傍、通字:迦、加)や大賀羅国=大賀羅/大加羅、通字:賀、加)や阿羅国などの伽耶諸国です。
・藤原氏の祖地は、大賀羅国(現高霊郡)の三世紀頃の「不斯(フシ)」⇒「火自振(fizzi-bul)」です。

4-4.倭国前史

4-4-1.倭国鮮卑族の倭国始祖神の「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」である初代神武A八前(ヤサキ)氏脱解(タレ)

  「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」と「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」は、弥生時代に日本列島に渡来した二大勢力です。
  1~3世紀(弥生時代後期)の島根県・出雲地域には、南方揚子江と北方黄河との融合漢族(源流鮮卑族)系と北方黄河の漢族(源流匈奴)系の2大勢力がいました。
  1983年に発見された荒神谷遺跡(200~250年頃)から発見された中国産原材料(紀元前200年頃製造)の358本の銅剣、銅鐸、銅矛や、1996年に発見された賀茂岩倉遺跡(3世紀頃)の史上最多の39個の「入れ子」状態を含む銅鐸から、3世紀頃に出雲の地を征服した部族がいたと考えられます。銅鐸の製造時期は、いずれも弥生中期、紀元前1世紀から1世紀前半頃に作られたもので、弥生後期のものは含まれていません。銅剣、青銅器など江南文明の特徴が濃いです。
   
北方系と南方系の融合漢族(鮮卑族)系は、特異な方形の四隅突出型墳丘墓文化をつくり、日本海沿岸一帯に広まっていました。北京市周辺に見られる「DNA鮮卑族拓跋部」解(ヘ)氏・Y-DNA「O2a2b1系」は、四隅突出型古墳です。四隅突出型墳丘墓は、バイカル湖周辺、中国東北部で見られます。高句麗の最初の都があった中国東北部の桓仁県でも見られます。北朝鮮が起源地だという説もあります。韓国では四隅突出型古墳は未発見です。
 韓国では、金海市の王陵級である金海(キメ)大成洞(テソンドン)古墳群から現中国東北地方の鮮卑族系統の銅椀(銅製の器)と銅鈴(青銅鈴)、殉葬人骨などが確認されました。91号木槨墓は、4世紀第2四半期築造と見られ、墓の規模と出土遺物からみて王級墓に該当し、龍文金銅辻金具、金銅鈴など慕容鮮卑系の遺物が出土しました。88号墳は4世紀第3四半期築造とみられ、巴形銅器2点、銅鏃など倭系の遺物が出土しました。
 国内の四隅突出型墳丘墓の初期のものは、1969年(昭和44年)に確認された島根県邑南町瑞穂の順庵原(ジュンナンバラ)一号墳です。北陸地方では、1974年(昭和49年)に富山市杉谷の杉谷4号墳が確認されたのが最初です。鳥取県淀江(ヨドエ)町と大山(ダイセン)町にまたがる四隅突出型墳丘墓のある妻木・晩田(ムキ・バンダ)遺跡は、1世紀始め頃から3世紀末に栄えました。
 3世紀前後の時期では、島根県出雲市の大型墓西谷3号墓(最長辺約50メートル)・2号墓・4号墓・9号墓、小型墓として青木・中野美保・西谷1号・6号墓と安来市の荒島墳墓群(宮山、仲仙寺、大型として塩津山6・10号墓、小型墓としてカワカツ墓)や鳥取県の西桂見墳丘墓が代表的大型墳丘墓です。

金属業の先駆けの濊(ワイ)族[倭名はヤ(八/矢/夜)族]・Y-DNA「O1b1系」は、遊牧狩猟民ではありませんが、金属資源を求めて日本列島の広い地域に居住していました。ヤ(八/矢/夜)族は、国家的集権志向を望まず、「DNA源流呉系倭人」や「DNA縄文人」や「DNA源流匈奴」野(ノ)族や「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と共存しました。ヤ(八/矢/夜)族の祖神は火と山の神であるカグツチで、愛宕神社として全国的にあります。
 「DNA濊」ヤ(八/矢/夜)族は、出雲では「DNA源流呉系倭人」雲(=蛇)族と同盟して八雲(ヤクモ)族、但馬では「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a系」と同盟して八前(ヤサキ)族となったと推測されます。
 扶余族の盟主であった濊族の伴侶の越系「戸売(トメ)」系統は、出雲と但馬の両方を拠点とします。

 記紀には、「DNA匈奴」系の祖神である初代神武B憂位居(ユウイキョ)[=高句麗第11代高氏始祖東川(トウセン)王憂位居(ユウイキョ)(在位:227~248年)]がいます。しかし、「DNA鮮卑族」系の祖神がいないのは不思議なことです。
 小林恵子は、倭国但馬で生まれ育った高句麗第3代(解氏)大武神王脱解(在位:AD18~44年)=辰韓第4代昔(ソク)氏脱解(タレ)尼師今(ニシキン、王の通称)(在位:AD57~80年)=住吉神社祭神・底筒男命がもう一人の「DNA鮮卑族」系の祖神である初代神武天皇Aであることを見出しました。
 本著者は、脱解は倭国・但馬で生まれた但馬一之宮出石神社祭神・出石八前(ヤサキ/ヤマエ)大神と比定しました。
   
「八前(ヤサキ/ヤマエ)」は、ヤ(八、矢、夜)族=濊族の「母系DNA呉系倭人」の女性と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族の男性が通婚同盟したことを示す氏族名です。
  「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」の祖は、朝鮮半島、日本列島の遊牧狩猟族民族です。このY-DNA「O2a2a1a1b(CTS201、M188等)」は、日本で遺伝子変位した日本固有の遺伝子です。「日本固有の遺伝子」とは、「DNA縄文人」との混血を示しているのではないでしょうか。
  「DNA源流鮮卑族」は、南海ルートでの日本列島系(推測:「DNA源流鮮卑族前族」・Y-DNA「O2a2a1a1b」)と北回りの大陸系での龍城国(推測:「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a」)とが山東半島で分岐したと推測されます。
   新羅昔氏は、「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族の一部が日本列島から朝鮮半島に移動したもので、新羅の「昔」と倭国の「前」は同意語です。
 「三国史記」には、新羅王第四代昔脱解(ソコドケ)には、「脱解(ダレ)、本(モト)、多婆那(タバナ)国の所生なり。其の国は倭国の東北、一千里に在り。」という記事があります。多婆那(タバナ)国は、日本では兵庫県但馬地域、韓国では済州島の説があります。
 鮮卑族初代神武A前(サキ)氏脱解(タレ)は、倭国で生まれるも、高句麗王と新羅王になりました。
 紀元前19年頃、「DNA鮮卑族拓抜(タクバツ)部」・Y-DNA「O2a2系」である高句麗王初代解氏朱蒙(シュモウ)/雛(スウ)の派遣軍が来島しました。派遣軍ではなく、朱蒙(シュモウ)/雛(スウ)本人が来島したとの説があります。1世紀始め頃から3世紀末に栄えた鳥取県淀江(ヨドエ)町と大山(ダイセン)町にまたがる四隅突出型墳丘墓のある妻木・晩田(ムキ・バンダ)遺跡等は、「DNA鮮卑族拓抜(タクバツ)部」の出雲・伯耆・但馬への侵略を示すものでしょうか。
 朱蒙が出雲勢力を滅ぼしたので、タバナ国(丹波)も朱蒙に臣属しました。
 紀元前7年、脱解はタバナ国(丹波)で生まれます。高句麗第3代大武神(タイブシン)脱解(在位:AD18~44年)は、脱解の名が示すように鮮卑族拓跋部解(ヘ)氏の養子で、血筋は「DNA鮮卑族拓抜(タクバツ)部」・Y-DNA「O2a2系」の近縁種族の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族・Y-DNA「O2a2b1a(F450/M1667)」です。脱解は、母がタバナ国の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」葛城氏・Y-DNA相当「O1a2b系」です。脱解とは解氏を脱する意であれば、父は朱蒙/雛(スウ)でないかもしれません。
  「DNA縄文人混血呉越系源流倭人」の出雲勢力の多数が、朱蒙/雛(スウ)の派遣将軍脱解の攻略から逃れるために、島根県出雲地方から北上(但馬、北陸)したと推定されます。この時の脱解の軍隊の「DNA源流匈奴」野族[注:「野」は「牛」と同韻同意の形成漢字]は、その後出雲に定住しました(松江市熊野神社)。
 紀元前、脱解は、「DNA縄文人混血呉系倭人」ナガ族が建国した現福岡市・早良(サガラ)国を破り、奴(ヌ)国を建国しました。敗れたナガ族は、新羅(辰韓朴氏王統)、畿内(末裔長髄彦、葛城氏)、等に移動しました。   
 「DNAスキタイ混血匈奴」坂族が辰韓そして北九州筑紫に侵入したので、脱解は北九州の奴国を去り、朝鮮半島に移動しました。脱解は、朱蒙/雛(スウ)に服属し、解氏をもらって、朝鮮半島に移動し、龍城国(または黄龍国、平壌の東側)に住みます。
 紀元前、日本列島から朝鮮半島に移動した脱解は、沸流(フツ)も住んでいた大同江下流の龍城国(または黄龍国、平壌の東側)に住みました。その後、沸流(後に、沸流百済を建国)と共に龍城国を脱出し、南下しながら馬韓に入り、現ソウル近傍の漢江南岸に居住しました。
 8年、脱解は、ソウル近郊漢江南岸で、隣に居住していた新羅第2代朴氏南解(ナンカイ/ナカ)次次雄(チャチャウン/ツツオ、王称)(在位:4~24年)の娘の阿孝(アヒョ)夫人を娶り、大輔(官位の一つ)となります。そして、漢江南岸で辰韓第4代昔(ソク)氏脱解(タレ)尼師今(ニシキン、王の通称)(在位:57~80年)に即位しました。その後南下して、韓国尚州(古地名は「沙伐(サル)」)に遷都しました。
 因みに、新羅は、67年から100年まで現韓国尚州に都し、101年に昔氏集団の先住地である現韓国慶州月城に遷都しました。
 57年、脱解64歳の時、漢から辰韓王に承認されます。国名を斯羅(シラ)に変更しました。高句麗王第4代大武神が倭国の奴国王であるので漢は高句麗王の格式を重んじて「金」印を与えました。
 59年、斯羅(シラ)は、倭国と修好しました。
 「DNA源流鮮卑族前族」である高句麗王の継承者は、高句麗王第4代閔中(ビンチュウ)(在位:44~48年)、高句麗王第5代慕本(ボホン)(在位:48~53年)です。
 三国史記新羅本記では、新羅第3代朴氏儒理(ジュリ)尼師今(ニシキン)(在位:24~57年)には子がいなかったので、貴族に推戴されて「DNA源流鮮卑族前族」・Y-DNA「O2a2a系」である新羅第4代昔氏脱解尼師今(在位:AD57~80年)[=高句麗王第3代(解氏)大武神(タイブシン)(在位:18~44年)]が新羅王朝を継承します。王位簒奪(サンダツ)かもしれません。
 日本列島の但馬から朝鮮半島に移動し、「DNA鮮卑族拓跋部」解氏朱蒙の養子となった解氏脱解は、辰韓王解氏朱蒙の時代の昔(2~3年)には辰韓は自分の国であったと主張し、辰韓では昔氏と称します。脱解の生まれた地の但馬では、辰韓の新羅漢字「昔」を倭の音韻と形成漢字に変化させて「前(サキ)」としました。
 因みに、「昔」の解字が、「廿日(ハツカ)」、「十十日(トトリ)」です。

金聖昊(キム・ソンホ)による新羅昔氏の指標地名は「牟羅(ムラ)」です。
 因みに、新羅和邇氏の新羅・朴英失(ヨンシル)=第21代雄略は、百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)に捏造された時には古い氏族名の「牟氏」を称しています。

4-4-2.200~250年頃、「DNA匈奴系」が出雲八雲朝へ侵攻

 松江市の田和山遺跡は、模擬戦争をして祈願する中国・楚(紀元前11世紀~紀元前223年、越を滅ぼし併合)の投石祭祀の痕跡です。春秋戦国時代の紀元前300年頃に造営された楚人の楚墓(ソボ)群の「模擬戦争をして祈願する祭祀形態:模擬戦争祭祀」の痕跡は、松江市の田和山遺跡で投石節という投石祭祀と同じ儀式習慣であると思われます。
 松江市新庄町に嵩山(ダケサン、標高331m)という山があります。嵩山は、天孫族系の大島国造の領域にある周防大島(山口県)にもあります。嵩山(スウザン、ピンイン:song-shan)は、中国河南省登封市にある山岳群で、五岳の1つの中岳です。嵩山は、羌族の信仰の対象であり、嵩山の近くに夏王朝の始祖というべき禹(ウ)王が築いたと伝えられる陽城があります。「嵩山」は、匈奴の地名指標でもあります。
 島根県仁多郡奥出雲町郡(コオリ)に「亀嵩(カメダケ)」駅があります。この「亀嵩」は、金官加羅国系匈奴のトーテムである「亀」と匈奴の聖山の「嵩山」を合体した名です。

荒神谷遺跡(200~250年頃)の358本の銅剣と賀茂岩倉遺跡の銅剣には、匈奴の「×」印が刻印されていました。
 出雲国、伯耆国における北方文化系(匈奴)の旧跡には、島根県安来市荒島地域[弥生時代末期・3世紀後半頃の仲仙寺(ちゅうせんじ)墓、8・9号墓(国の史跡、十数個の碧玉製管玉が出土)]、宮山4号墓(鉄刀が出土)、米子市安養寺墓、出雲市(3世紀の西谷墓)等があります。出雲国能義(ノギ)神社は、北方文化系(匈奴)の痕跡でしょうか?

4-4-3.後漢時代、「DNA越系倭人」の倭の面土国王・師升

  「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1系」である前漢(紀元前206年~紀元8年)が「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」である新(紀元8~23年)に変わった時、「DNA呉越系倭人」・Y-DNA「O1b1系」は前漢の束縛から逃れて、朝鮮半島、日本列島に移動しました。
  「面土」は、「面(メン)」がミェン族=高志族、「土(ト)」が「地」の意で、「越族の土地の意」です。 
 107年、「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1系」である漢は、倭の面土国王・師升(スイショウ/スイセイ)に奴(ヌ)国金印を贈りました。破格の金印は、高句麗王族出身であり、後漢からの派遣者であることによる漢の配慮です。この金印は、後に九州の西倭王『大王』が高句麗王になる遠因と思われます。         
 因みに、国宝・奴国金印は、江戸時代1784年に捏造されたものとの説が最近強いです。しかし、「金」印の伝承は事実と思います。
 倭の面土国王・遂成(スイセイ/スション)は、「DNA越系倭人」・Y-DNA「O1b1系」である高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:53~146年)の弟で、後に、「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1系」である後漢側として動き、兄の高句麗第6代太祖国祖王宮(在位:53~146年)から王位を奪い、高句麗第7代次大王遂成(スイセイ/スション)(在位:146~165年)に就きました。その後、家臣に殺されます。
 
「DNA越系倭人」である高句麗越朝の高句麗第9代故國川王(在位:179~197年)は、「DNA匈奴休氏」ニニギ族のウガヤフキアエズ[=高句麗第10代高氏始祖山上王(在位:197~227年)]に滅ぼされ、終焉します。

4-4-4.「母系DNA越系ヤオ族倭人」・Y-DNA相当「O1b1系」である伊都国女王許(キョ/コ)氏卑弥呼

   「母系DNA越系倭人」・Y-DNA相当「O1b1系」である伊都国女王許(キョ/コ)氏卑弥呼の祖の許(キョ/コ)氏は、中国江南地方の巫術(フジュツ)者の家系です。因みに、もう一人の金官加羅国始祖の金首露王(在位:42年~199年、42年生)の王妃は、インド阿諛陀(アユダ)国の王女の許(コ)氏黄玉です。
   
卑弥呼の祖は、南方文化系で、左回りの海路移動で奄美、南九州を経て、筑紫に来所しました。祖郷は宇賀御魂命の中国江南地域と同じですが、卑弥呼は「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である後漢と同盟しました。一方、朝鮮半島の伽耶から日本列島に来島した宇賀御魂命は、「DNA匈奴金氏」と同盟しました。これが、「DNA匈奴金氏」が編纂した記紀が卑弥呼を記載しなかった理由です。

140年代頃、「母系DNA越系倭人」である伊都国女王卑弥呼は、後漢から派遣された「DNA越系倭人」である遂成(スイセイ/スション)と北九州で同盟します。
 160年頃、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族・Y-DNA「O2a1系」である堂谿(ドウコク)氏猿大海(サルノオオミ)が北九州に来島し、熊本県近辺に狗奴(クヌ)国を建国しました。180年前後の倭国大乱の誘因となります。
 「DNA鮮卑族系」である後漢は、220年に滅びます。
 210年に邪馬台国連合の盟主女王となった「母系DNA越系倭人」である伊都国女王許(キョ)氏卑弥呼(248年歿)は、「DNA鮮卑族系」・Y-DNA「O2a2b1系」である奴国を滅ぼしました。
 248年、女王卑弥呼の邪馬台国連合は、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族である狗奴(クヌ)国との抗争に敗れます。
 248年、「DNAスキタイ/ペルシア混血匈奴」坂族である狗奴(クヌ)国王猿(サル)大海(オオミ)は、女王卑弥呼の妹の與止日女(ヨドヒメ)を人質として妻に迎え、その子の台与(トヨ)Aが邪馬台国盟主女王に就きます。諸説ありますが、台与(トヨ)Aは宇賀御魂命とは別人です。猿(サル)大海(オオミ)の「猿」は、トウチャ(土屋)族のニックネームの「猿」と関係があるのでしょうか。
 卑弥呼の「DNA越系倭人」族は、敗北後大分県宇佐に逃れ、更に奈良県葛城と三重県伊勢(伊勢神宮の伊勢の地縁)に避難移動します。奈良県葛城は後の畿内の日の本同盟の共同盟主の女王族の拠点となります。

因みに、「宇佐(ウサ、usa)」の語源は、「宇山/羽山(ウサン、usan)」です。現韓国の鬱稜(ウルルン、ウツリョウ)島は、古代名は和邇氏の宇山/羽山国で、新羅に併合されます。宇佐神社は和邇氏と秦氏と関係が深いです。秦氏は、兎をトーテムとする「ウサ(usan⇒usa)族」です。八幡総本宮宇佐神宮は、当初の「DNA越系倭人」族の根拠地を征服した「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b系」の本拠地に変わりました。「DNA源流鮮卑族和邇氏」である第15代応神と、鮮卑族慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)]の庶子の神功皇后と、和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)[=羽山戸神=第17代履中]によって新羅より救出された秦氏が、宇佐八幡宮と縁がある由縁です。八幡総本宮宇佐神宮は卑弥呼と直接の関係がないと思われますが、「DNA秦王・秦氏系」・Y-DNA「O2a1b系」である秦氏とは、深い縁があります。

越人系の「iso、イソ、伊孑」の転訛語は非常に多いです。以下、転訛語の一例です。
①iso、イソ、(伊孑、石):伊孑志神社、伊蘇、磯(大磯)、石上神社。
②ito、イト、(伊都、伊刀、糸):伊都国、伊刀志神社、糸島郡、イトモ(伊豆毛=伊都の地⇒伊豆、出雲)。
③iza、イザ、(伊邪/伊弉):伊邪那美(イザナミ、伊邪の尊な女の意)、伊邪那岐(イザナギ、伊邪の尊な男の意)。
④izu、イヅ、(伊都):伊都志(イヅシ、伊都の地の意)、出石(イヅシ)。
⑤iwa、イワ、(伊和、磐、岩):伊和神社、磐座。

4-4-5.新羅金氏朝の原初と伽耶・新羅の金氏朝の国難、および、ヤマト東遷の論理的事実

①184年、金官加羅初代金首露王は新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)を建朝

  184年に、金氏の宗主である休氏ニニギ族は、金氏金官加羅国に報復侵攻しました。金官加羅国初代金首露王[=初代大国主・スサノオ=新羅第9代借用昔氏(&金氏)伐休尼師今(在位:184~196年)]は、新羅に避難移動して、新羅朴氏から王位を簒奪して新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)を建朝します。新羅は、一時的な避難で終わると思っていたのです。昔氏は、伴侶の父系の氏です。

②197年頃、新羅王スサノオ、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命が九州に避難移動

  197年にニニギ族ウガヤフキアエズが高句麗第10代山上王(在位:197~227年)に即位したので、新羅王スサノオ、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命が安全のために九州に避難移動します。

③251年頃、ニギハヤヒと宇賀御魂命は辺境の大和に避難移動

 251年頃のニニギ族の伽耶への報復再侵攻により、ニギハヤヒと宇賀御魂命は更に安全を求めて、辺境の大和に避難移動します。これが、第一期大和東遷とヤマト初王朝の論理的事実です。
 「DNA匈奴金氏」は、本来、スキタイ/ペルシア人混血のエフタルの騎馬民族の出自で、好戦的ですが、朝鮮半島には報復侵攻する宗主の高句麗匈奴休氏ニニギ族がおり、日本列島には強大な「DNA縄文人」に挟まれ、日本列島で生き残るためには平和的な共存・共生が必要でした。これには、伴侶一族が「DNA縄文人」とも通婚同盟し、重要な役割をしました。「DNA匈奴金氏」である大国主族は、ヤマト東遷にあたって、平和的で戦闘せず、現在までも平和的な渡来人として好意的に受け取られています。
 この時、ヤマト登美には、物部氏の祖の部族首長の長髓彦(ナガスネヒコ)の拠点があり、大歳は同盟しました。長髓彦(ナガスネヒコ)は、「DNA呉系モン族倭人」であるナガ族の村主(スネ)の意ですから、「DNA縄文人」である長髓彦(ナガスネヒコ)の伴侶の「母系DNA呉系倭人」である御炊屋姫が名付けた名です。この後裔が物部氏祖の宇摩志麻治(ウマチマチ)命です。「DNA匈奴金氏」である大歳は、御炊屋姫と同盟通婚をしただけで、長髓彦(ナガスネヒコ)の義父です。  

251年頃の尾張氏、新羅太子・大歳(後のニギハヤヒ)、新羅太子妃・宇賀御魂命の第一期ヤマト東遷を記紀はヤマトで集権化部族同盟を初樹立したと脚色しました。

④261年、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の滅亡、そして、262年頃のニニギ族同盟軍の第二期大和東遷[出雲の国譲り神話の元となる出来事]

   261年のニニギ族の報復侵攻により、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の新羅第12代沾解尼師今(在位:247~261年)=第4代大国主・八坂入彦=建御名方主は滅ぼされます。
 新羅王族分国の金官加羅国出自で高句麗の臣下になっていた高句麗・蜜友(ミツユウ)=新羅葛文王未鄒が、261年のニニギ族による新羅侵攻に同行した時の功により、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)滅亡後の262年に新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)に擁立されます。

262年直後に、ニニギ族の日本列島に地盤をもつ同盟軍(源流匈奴野族、大伴氏)は、第二期ヤマト東遷[出雲の国譲り神話の元となる出来事]をし、尾張氏、ニギハヤヒを畿内から追放します。この第二期ヤマト東遷には、ニニギ族の初代神武Bと第3代安寧は、参加していません。
   日本列島の部族同盟盟主の尾張氏の力は強く、ヤマトになかなか入れませんでした。熊野から入って成功したのは、「DNA源流匈奴」野族(注:「牛」と同音韻の形成漢字)の拠点(熊野大社)があったからです。

新羅王金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=第3代安寧の在位期間は、252年から290年までの金官加羅国王の空位時代に対応しています。新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今は、新羅王統譜で系統の異なる1代限りの不自然な王で、人工的に挿入した王です。 

⑤300年頃の鮮卑族慕容部の伽耶逗留と304年に百済慕容部朝建朝、その後の慕容部同盟軍の第三期ヤマト東遷

 「DNA鮮卑族慕容部」である慕容廆(カイ)(269年生~333年歿、大人(タイジン)即位:285年)と慕容皝(コウ)[=百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]の親子は、高句麗王族分国の大賀羅国王子・天日槍(アメノヒボコ)と同盟して、高句麗第14代休氏烽上(ホウジョウ)王(在位:292~300 年)[=丹波道主・谿羽(タニハ)道主命]を征服します。大賀羅国王子・天日槍は、高句麗第15代美川王(在位:300~331年)=第6代孝安(コウアン)に即位し、高句麗呉系倭人朝を建朝します。
 300年直後に、慕容廆(カイ)と慕容皝(コウ)の親子は、伽耶に逗留し、力をつけて、鮮卑族慕容部を宗主とする同盟軍(新羅和邇氏、新羅昔氏、前族、物部氏)と共に、「DNA鮮卑族拓跋部」真氏(&解氏)の沸流百済第10代汾西(フンセイ)王(在位:298~304年)を滅亡させました。慕容皝(コウ)は、304年に百済第11代比流(ヒリュウ)王(在位:304~344年)[=前燕初代文明帝慕容皝(コウ)(在位:337~348年)=第11代垂仁]に就きます。
 その304年の後、同盟軍(新羅和邇氏、新羅昔氏、前族、物部氏)は倭国に回帰侵攻し、畿内の匈奴系から覇権を奪います。鮮卑族慕容部は、倭国には来島せず、したがって、第三期ヤマト東遷にも参画していません。アジア大陸が祖以来の地盤であり、日本列島の征服・統治は関心がなかったのです。

日本列島を地盤にした「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と朝鮮半島を地盤にしていた「DNA源流鮮卑族」和邇氏は、「DNA鮮卑族慕容部」の第11代垂仁を宗主とし、垂仁朝時代に新文明(漢字、土木、馬、等)を吸収して日本列島で飛躍的に興隆しました。九州、出雲、瀬戸内、畿内で勢力をもっていた「DNA匈奴」系と新興の「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族系が倭国各地で戦闘を展開し、畿内、瀬戸内と朝鮮半島の窓口となる博多(音韻は百済と同じペクチェ)を「DNA源流鮮卑族」系が征しました。「DNA源流匈奴」野族と金官加羅国分国の「DNA匈奴金氏」は、原国の九州と関東以北に支配地域を縮小しました。
 以上が、「出雲の国譲り神話」の元となる出来事です。

4-5.記紀の皇朝初期を集約した前期の神武朝から雄略朝まで(倭国初代~第25代)

4-5-1.宗主の神武B朝ニニギ族と臣下の新羅金氏始祖・第3代安寧(227年~292年)

・宗主・ニニギ族(初代神武B、2綏靖、第4代懿徳)
・新羅金氏7世代・新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)=新羅葛文王未鄒=高句麗・蜜友(ミツユウ)=第3代安寧

新羅金氏7代・新羅金氏始祖・第3代安寧=新羅葛文王未鄒=高句麗・蜜友(ミツユウ)は、宗主・ニニギ族の高句麗の臣下であったので、新羅王の王位正統性を宗主・ニニギ族を継承元とすることによって補います。
   48年、匈奴が分裂し、南の匈奴勢力が南匈奴になります。これに対して北に残った勢力を北匈奴といいます。南匈奴は後漢に服属し、後漢と共に北匈奴や鮮卑族と戦いました。南匈奴は19の種族によって構成されており、種族の下には部族があり、更にその下には氏族という単位がありましたが、それぞれ雑じりあうことがなかったと言われています。少なくても、南匈奴時代、「DNA匈奴休氏ニニギ族」は、「DNA匈奴金氏」の宗主でした。

2世紀中頃、「DNA匈奴休氏」ニニギ族・Y-DNA「O2a1c系」は、「DNA匈奴金氏」族・Y-DNA「O2a1a系」と共に南海ルートの海路を通って奄美経由で南九州日向に入島しました。そこで、ニニギは「DNA呉系倭人」である中国江南海人族のコノハナサクヤ媛との間にヒコホホデミを儲けました。ヒコホホデミはそこで海神の豊玉媛との間に「DNA匈奴休氏ニニギ族」である初代神武天皇B憂位居の父のウガヤフキアエズ[後に高句麗第10代山上王位宮(在位:197~227年)]を儲けました。
  しかし、ニニギ族は、卑弥呼を同盟女王とする北九州には「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a1a1a1a1a(F316)」である王朝の後漢が管轄していて入れず、一旦朝鮮半島に移動します。朝鮮半島南部で休氏ニニギ族と金氏とは反目し、匈奴金氏は離反して金官加羅国を建国します。
 この後、ニニギ族は、更に朝鮮半島を経由して元の山東半島に移動し、体勢を立て直します。後に、宗主ニニギ族は、金氏のこの時の背反を許さず、二度に渡って、伽耶、新羅に侵攻し、滅ぼします。
 この時にニニギ族の伽耶、新羅の侵攻に同行したのが、新羅王族分国の金官加羅国出自で、高句麗休氏朝の臣下となった高句麗・蜜友(ミツユウ)[=新羅葛文王未鄒]です。この時の功労で、新羅第13代金氏始祖味鄒(ミスウ)尼師今(在位:262~284年)[=第3代安寧]に擁立されます。

 金氏始祖の皇位正統化のために、記紀編纂者達の祖の新羅金氏始祖第3代安寧の継承元として、宗主である「DNA匈奴休氏」の神武B朝をおきました。初代神武B、第2代綏靖、第3代安寧、第4代懿徳の誰も、倭国に来島したことはなく、為政したこともありません。
 日本列島に来島したのは、ニニギ族の同盟軍(源流匈奴野族、大伴氏)で、これにより、尾張氏とニギハヤヒは畿内から追放されます。

4-5-2.百済系垂仁朝と並立する高句麗呉系倭人朝系の古志朝(300年~391年)

・第6代孝安、第7代孝霊、第8代孝元、皇朝接続王(血統は垂仁朝、体は倭人朝)・第9代開化。

古志朝は呉系「トベ」系統の倭国『大后』の日本列島での父系祖を集約した皇朝で、尾張氏、大伴氏、物部氏、和邇氏が父系祖です。
 倭国『大后』の始祖の世襲足(ヨソタラシ)媛=赤留(アカル)比売命=余曾多本(ヨソタモト)毘売(ビメ)命=旧事)日置日女(ヒオキヒメ)命は、母が尾張氏葛城国造・剣根(ツルギネ)命の娘の賀奈良知(カナラチ)姫、父が尾張連祖の天忍男(アメヨシオ)=天忍人、伴侶が「DNA源流鮮卑族和邇氏」の彦国葺(ヒコクニフク)命=天足彦国押人(オス)命=春日親君(第6代孝安天皇は異母弟?)と大伴氏・角比古命です。
 古志朝の倭国『大后』の新羅名は、全員未詳です。
 第9代開化は、母が鮮卑族慕容部の人質となった時に生まれ、体は古志朝ですが、父系血統は垂仁朝です。古志朝の継承を垂仁朝とする役割をしています。

4-5-3.高句麗系古志朝と並立する百済鮮卑族慕容部朝系の垂仁朝(304年~375年)

・第11代垂仁、第12代景行、皇朝接続王(父系血統は和邇氏)・第13代成務、第14代仲哀、皇朝接続『大后』・神功皇后。

垂仁朝は、百済鮮卑族慕容部朝(百済王第11~13代)を転写して、「トベ」系統の『大后』の父系祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」が居住していた朝鮮半島南部を軸に皇史を集約しています。垂仁朝では、記紀編纂者達に関係が特に深い和邇氏と新羅の昔氏(倭国の前族が移動した氏族)の宗主鮮卑族慕容部を象徴に使って出来事を記しています。

倭国垂仁朝は、鮮卑族慕容部の為政実体がなく、百済垂仁朝(304年~375年)もほとんど実体がありません。鮮卑族慕容部は早々に百済から引き上げ、前趙(304年~329年)とその後は中国江南地域から東北地域の居住を本拠にします。

畿内を本拠とする東倭国は、大伴氏、物部氏、「DNA源流鮮卑族」和邇氏、「DNA源流鮮卑族」前族が大きな勢力で、宗主の百済系の文化・文明の影響が強いです。 

倭国垂仁朝は、縄文カルチャの分散した部族同盟体の国で、鮮卑族慕容部の先進文明の導入と朝鮮半島の渡来人の侵攻に防御する集権化への変遷期の皇朝です。例えば、大規模古墳や土木事業の施行、越系「戸売」系統から呉系「トベ」系統への変遷期、分散部族同盟から集合化部族同盟への転換、対外的称号(『大連』や倭国名)の導入、先進武具の導入、漢字の導入、朝鮮半島の出先強化、船の高度化、等があります。

鮮卑族慕容部は、元々攻撃的侵攻を行う騎馬民族ですが、同時に、漢族の先進の文化・文明を取り入れました。鮮卑族慕容部の同盟軍に参画し、倭国に回帰侵攻した「DNA源流鮮卑族」の和邇氏と前族、物部氏は、鮮卑族慕容部からこれらを吸収して興隆していきます。

垂仁朝では、越系「戸売」系統から呉系「トベ」系統への倭国『大后』の主系統の変更、そして、出雲からより安全な大和への倭国『大后』の遷都と畿内への政事府の遷都の正統性を記しました。また、朝鮮半島での出来事と「トベ」系統の倭国『大后』の出来事と系譜を日本列島に転写して集約しました。そのため、垂仁朝の倭国『大后』には、新羅名の別名が見出される倭国『大后』がいます。
 「DNA呉系倭人混血縄文人」である倭国政事統括者の遷都本拠地は、交通貿易に便利な楠葉府や難波府などの摂津国、河内国に置きました。当時は、通い婚でした。

四世紀の日本列島の為政体制は、いわゆる欠史八代や空白の四世紀ではなく、中国や朝鮮半島とは異なる形態の集権国家であり、統一国家でありました。倭国は、孤立した多元性原理(分散為政)に基づく国家であり、高度な情報伝達網と輸送力を基盤にしていました。中国や欧米の単元性原理(唯一専権と覇権主義)に基づく統治体制とは別な原理によるもので、欧米の学説は適用できません。

四世紀の「DNA縄文人」は、もはや狩猟遊牧民のはるか以前の原始性を脱し、渡来弥生人と共存共生した文化、定住と遊牧の混合生活に変わっています。分散為政体制は、前近代的なものではなく、孤立した倭国固有な多元性カルチャによるもので、中国・欧米・朝鮮半島の単元性カルチャで評価判断するのは避けるべきです。三から四世紀の新たな匈奴や鮮卑族の侵攻に備えるために、集合化、集権化の為政体制に入ったものです。巨大な前方後円墳が大和だけでなく日本列島各地に造成されたことが説明できる論理が必要です。記紀の倭国『大王」の誰も、倭国には居住も為政もしていなかったので、倭国ヤマトの巨大古墳は、倭国『大后』族と「DNA縄文人」である倭国部族同盟大首長族の陵として見直す視点が必要です。
 日本列島全体と朝鮮半島との情報・輸送の文明があって、分散為政体制は可能になるものです。四世紀の「DNA縄文人」は、既に中央アジアの情報も直接得ていた可能性が強いです。

したがって、父系性の亡命政権が編纂した記紀においては、母系制の天上の倭国非政事為政者の倭国『大后』の記述の背後に父系性の地上の「DNA縄文人」である倭国政事統括者『大連』の隠された姿を見ることが肝要です。<記紀学派>の視点だけから見ることは間違いを起こします。

鮮卑族慕容部・Y-DNA「O2a2b1a1(M117)」の人は、特別に肌が白く、「白部鮮卑」とか「白捕虜(白虜/白賊)」とか中国では呼ばれました。鮮卑族慕容部の燕人は、ペルシャ人風の風貌があったとの話があります。鮮卑族慕容部は、西の中央アジア(エフタル、突厥系)と東アジア(中国東北部、半島、列島)に分岐し、相互に緊密な往来関係があったとみられます。(黄、厚生、李『慕容燕国史話』 吉林人民出版社 2006年) 
 日本人は、アジアの中では色白だそうです。

4-5-4.第3代安寧の傍系庶子系の新羅金氏8世代・第16代仁徳(392年~413年)=倭王讃

 第16代仁徳は、第3代安寧の弟の新羅金氏7世代・新羅角干(1等官)金末仇=(推測)葛城襲津彦の二男であったので、新羅金氏の継嗣者でありませんでしたが、弱小国新羅を大国にし、朝鮮半島を支配した最初の王で、かつ、高句麗の最大版図を築いた偉大な王で、無視できませんでした。
 第16代仁徳は、新羅名がまだ見出されていません。
 第26代継体以降、新羅金氏の金官加羅国出自の高句麗王、百済王、新羅王が続きます。

第16代仁徳の時に倭国『大后』の「戸売(トメ)」系統が終焉しました。第16代仁徳の『大后』は、『先大后』が越系「戸売」系統の同父異母妹の葛城国磐(イワイ)之媛命、『後大后』が呉系「トベ」系統の但馬国八田(ヤタ)媛命です。仁徳の同父異母妹の磐(イワイ)之媛命は、第4代戸売・八坂媛命=新羅・金氏保反夫人と葛城襲津(ソツ)彦[(推測)=新羅・角干(官位1等官)金末仇(バツキュウ)]との間の娘です。八坂媛命の父は、新羅第13代味鄒尼師今=第3代安寧です。
 『後大后』八田媛命は、父が「DNA源流鮮卑族和邇氏」の難波根子建振熊(タテフルクマ)命=新羅阿飡(6等官)登保=[捏造王]百済第16代辰斯(シンシ)王(在位:385~392年)、母が宮主・矢河枝(ヤカワ)/宅(ヤカ)比売=物部氏山無媛連(ヤマナシヒメノムラジ)=皇夫人・和邇津野媛(姉)=新羅・伊利夫人/企利夫人(父は新羅昔氏阿飡(6等官)登保)です。

談徳(ダントク)[=第16代仁徳]は、成人になると活路を求めて鮮卑族の慕容皝が建国した前燕(337年~370年)に行き、後に王族待遇の臣下になりました。このことは、談徳(ダントク)が新羅王の継嗣でなかったことを裏付けています。
 356年(仁徳は31歳±5歳頃)、「DNA鮮卑族慕容部」である前燕の臣下の「DNA匈奴金氏」である高句麗・談徳[=第16代仁徳]は、本家の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である新羅第16代借用昔氏(&和邇氏)訖解(キッカイ)尼師今(在位:310~356年)[=(捏造王)百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)=第13代成務=竹内宿祢 (350年生~384年歿)]を追放し、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)に就きます。この時に、釜山の東側、蔚山(ウルサン)市と接する現機張(キジャン)郡の小さい機張(キジャン)国を滅ぼします。神功皇后は、機張(キジャン)国の媛でした。
 375年(仁徳は50歳±5歳頃)、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳]は、「DNA鮮卑族慕容部」である百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)[=第14代仲哀]を滅ぼし、百済慕容部朝が終焉します。
 記紀は、384年に「DNA氐(テイ)族」符氏・Y-DNA「O2(M122)」の符洛(フラク)が[捏造王]百済第14代近仇首(キンクス)王(在位:375~384年)[=新羅第16代借用昔氏訖解(キッカイ)・尼師今(在位:310年~356年)=第13代成務]を滅ぼしたと記しました。そして、第15代応神と神功皇后が、第14代仲哀天皇[=百済第13代近肖古(キンショウコ)王 (在位:346~375年)]を滅ぼしたと記しました。

百済慕容部朝の滅亡後、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=高句麗第19代安氏広開土王(在位:391~412年)=第16代仁徳]が、百済の覇権を握ったというのが実態です。ただし、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今は、成人後に鮮卑族慕容部の前燕の臣下であったので、鮮卑族慕容部の百済王を滅ぼしたからといって扶余族を国体とする百済王に就くことはできませんでした。
 こうして、百済王は第一期空位期(375年から420年)となります。 
 386年(仁徳は61歳±5歳頃)、慕容垂は、談徳を「DNA鮮卑族慕容部」の高句麗第18代故国壌王の太子に擁立します。易姓革命の慕容垂にしてみれば、扶余族を国体とする高句麗王の資格など気にすることではありませんでした。
 392年(仁徳は67歳±5歳頃)、新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)[=第16代仁徳]は、高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)に就きます。広開土王は、安息国の末裔を称し、安氏を称します。
 因みに、安息国/アルサケス朝/パルティア帝国は、紀元前238年からサーサーン朝に滅ぼされた226年まで、イラン高原を支配したイラン系民族の国家です。
 413年(仁徳は88歳±5歳頃)、高句麗第19代安氏(&金氏)広開土王/好太王(在位:392~413年)(=第16代仁徳)は、80±5歳の高齢で、「DNA鮮卑族拓跋部」・Y-DNA「O2a2b1a2(F444)」である北魏初代皇帝道武帝(本名:拓跋珪, 在位:371~409年)に擁立された「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」・Y-DNA「O2a(M122)」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により高句麗および朝鮮半島から追放されました。これにより、413年から492年まで金氏高句麗朝は、約80年間中断しました。
 高璉(コウレン)が、倭国淡路島まで侵攻し、第16代仁徳を事実上敗死させたとの説がありますが、同じ檐魯(タムロ、注:王族統治の分国・居留地の意)の原語である現済州島ではないかと推測されます。仮に第16代仁徳が倭国に亡命したとしても、80±5歳の高齢で倭国で偉大な王として待遇されても実際の統治はしていず、多くの逸話は後の作り話です。

古事記のなかの「因幡の素菟(いなばのしろうさぎ)神話」の中で6代目・大国主命は、兄弟(新羅王の王妃の子供達、等)からいじめられたと書かれているのは第16代仁徳の史実ではないでしょうか。初代大国主・スサノオを新羅金氏4代・新羅第9代借用昔氏&金氏伐休(バッキュウ)・尼師今(在位:184~196年)とすれば、第3代と第4代の大国主は兄弟の同世代ですから6世代目の子孫は新羅金氏8世代・新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=第16代仁徳となります。スサノオ=初代大国主の6代目の子孫は、スサノオの娘[第5代戸売・磐(イワイ)之媛命]と結婚した大国主命とされており、一致します。

4-5-5.第一期百済王空位期(375年から420年)を埋める象徴祖神の和邇氏応神朝

・(和邇氏象徴祖神&百済和邇氏の象徴祖神)第15代応神、(新羅和邇氏の象徴祖神)第17代履中。

第一期百済王空位期(375年から420年)を利用して、「トベ」系統の『大后』の父系祖で、二つに分岐した百済の熊川(クマナリ)に拠点をもつ和邇氏(以後、百済系和邇氏と言う)と宇山/羽山国王(現鬱陵島)の後裔の伽耶の熊成/熊川(クマナリ)に拠点をもつ新羅王族待遇の和邇氏(以後、新羅系和邇氏と言う)を、実在者を和邇氏の象徴祖神の百済王に捏造しました。
 百済系和邇氏の象徴祖神は、百済第17代阿莘(アシン)王/阿華王(在位:392~405年)=第15代応神としました。新羅系和邇氏の象徴祖神は、百済第18代腆支(テンシ)王(在位:405~420年)=第17代履中=莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)としました。第15代応神は、後の平安時代和邇氏藤原氏と秦氏の同盟を象徴する八幡神宮の主祭神となります。

この応神朝には、時代が重なる「DNA匈奴金氏」である第16代仁徳[=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)」を垂仁朝の継承者を装って入れられます。しかし、記紀は、第16代仁徳の継嗣がいたにもかかわらず、子がなかったとし、一代限りとする不自然な皇朝としました。

4-5-6.新羅金氏正統継承者の反正朝(402年~479年)

・新羅金氏8代・第18代反正=倭王珍、新羅金氏9代・第19代允恭=倭王済、新羅金氏10代・第20代安康=倭王興、新羅金氏11代・百済第25代武寧王(在位:501~523年)=倭王武。

第一期百済空位期の和邇氏応神朝(第15、17代)と第二期の百済空位期の和邇氏雄略朝の間を埋めるために、そして、新羅和邇氏の第17代履中の後継皇朝として、新羅金氏の正統継承皇朝の反正朝(第18~20代)が入ります。
 第3代安寧の弟の新羅金氏7世代・新羅角干(1等官)金末仇=(推測)葛城襲津彦の長男が第18代反正で、二男が第16代仁徳であったので、反正朝(第18~20代)が金氏新羅王の正統継承皇朝です。
 第16代仁徳と第18代反正とが一代空けられたのは、第16代仁徳が百済慕容部朝を滅ぼしたので、父系祖が新羅系和邇氏である『大后』にとっては一線を画したかったのかもしれません。

475年、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)は、百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)[=新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)=第20代安康]を百済から追放しました。記紀は、一族皆殺したと記しましたが、実際には、蓋鹵(ガイロ)王は生きており、新羅王に専位します。
 新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(マリツカン)(在位:458~479年)=第20代安康の継嗣も、倭国で生育し、生存していました。記紀編纂者達の直祖の新羅王族分国の新羅王庶子の第26代継体が、正統継嗣の百済武寧王から王位を簒奪したので、第26代継体の後裔が編纂した記紀は隠蔽・改ざんをしました。

新羅金氏11代・百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)は、新羅金氏10代・新羅第20代金氏慈悲(ジヒ)麻立干(在位:458~479年)=百済第21代蓋鹵(ガイロ)王(在位:455~475年)=第20代安康の継嗣で、朝鮮半島の政情が安定する約39歳頃まで母系の倭国で暮らしていました。
 新羅金氏11代・百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:501~523年)=倭王武[=島君(セマキシ)/斯麻(462年生~523年歿)]は、新羅王子庶子の新羅金氏11世代・第26代継体により、王位継承を長らく阻止されます。高句麗第21代文咨明(ブンシメイ)王(在位:492~519年)=第26代継体と新羅王継嗣の百済第25代武寧(ブネイ)王斯麻(シマ)との王権の継承合意は、高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王の死後9年後の501年まで要します。更に、記紀は、百済第25代武寧(ブネイ)王の倭王称号を記紀から抹消します。
 因みに、百済第25代武寧(ブネイ)王(在位:502~523年)の百済王陵は、未盗掘で墓誌があり、唯一四韓で特定できる王妃との合葬王陵です。特記すべきことですが、百済第25代武寧(ブネイ)王の百済王陵の木棺は、朝鮮半島で自生しない日本(韓国現地でも認められています)から運ばれた高野槙(マキ)が使われていました。国を象徴する国王棺を外国産の材料を使う場合、よほどの事情があった筈です。国王と女王の合葬(例:唐高宗と則天武后、天武天皇と持統天皇)も非伝統様式です。合葬された「百済国 王太妃 壽終」である壽終61歳の武寧皇太夫人は、春日大娘皇女(464年生~526年歿)=和珥糠君郎娘(ワニノヌカキミノイラツメ)(和珥糠君の娘)=新羅・興道/吾道(オド)娘主(生没年不詳)が比定され、身代わり(初期の科学鑑定では遺骨の奥歯から17歳。後に、隠蔽。)に殉死された比定候補者は春日大娘皇女の娘・橘仲皇女の子(唯一男女不明とされた子)と推測されます。三韓の王の継嗣は、母系制に従って倭国で生育されました。武寧王陵から出土した遺物のなかに、王妃の身分が確認できる手がかりとなるブレスレツトが発見され、ブレスレットには"大夫人のために作った"と書かれていました。武寧王妃はいないと推測され、事実上の王妃は倭国での最愛者である「大夫人」春日大娘皇女(464年生~526年歿)であったからです。武寧王陵から発見された誌石には、武寧王の場合は皇帝の死に対する公式表現の「崩」を使って誌の日時を伝えていますが、武寧「王太妃」の場合は、王妃の公式表現である「薨」ではなく「壽終」と記録しているのは、まだ生きていたからか、遠国と国内不安定で武寧「王太妃」の歿年時を確認できなかったからか、殉死者の身代わり者が合葬されたことかを表わしていると思われます。
 「続日本紀」や「日本書紀」に武寧王の息子と書かれている淳陀太子(482年頃生~513年歿)は、武寧王の20代の初婚で産んだ息子(母は18歳の春日大娘皇女と推測される)と考えられます。
 24歳(488年)の春日大娘皇女(464年生~526年歿)が、第24代仁賢天皇[=第21代雄略天皇=新羅・朴英失]が39歳の時に皇后となったのは非常に晩婚で、初婚は別な人物で、かつ高貴な人物であった可能性が強いです。なお、『古事記』において皇族出身の皇后の出自が、天皇である父が明らかでないのは、春日大娘皇女の他は、娘で、第28代宣化天皇[=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)=新羅第24代金氏真興王(在位: 540~576年)]の皇后・橘仲皇女のみです。
 春日大娘皇女の父は新羅・朴英失(ヨンシル)[=第21代雄略天皇]、母は春日和珥童女君(カスガ・ワニ・オミナ・ギミ)=新羅・興道/吾道(オド)娘主[母は忍坂大中姫=新羅・延帝夫人、祖母は葛城国の黒姫=弟日売真若比売命(古事記)=弟(オト)媛]、伴侶は重祚第24代仁賢天皇[=第21代雄略天皇=新羅・朴英失(ヨンシル)]です。

 「倭の五王」の「倭」とは、日本列島の倭国のことではなく、新羅の対外的別称名が原初です。天上の非政事為政者である新羅王妃でもあった濊の後裔者の倭国『大后』が、新羅が対外称号名として濊を原語とする同音韻の「倭」を用いなくなったので、対外的に威信を示す必要が生じて日本列島の国名に用いたのが由緒です。したがって、新羅は対外別名として「倭王」を、少なくとも新羅反正朝(新羅第18~20代、百済第25代武寧王)の402年から523年までは用いていたと推察されます。それは、偉大な第16代仁徳=新羅第17代金氏奈勿(ナコツ)尼師今(在位:356~402年)=倭王讃=高句麗第19代安氏広開土王/好太王(在位:392~413年)が、「DNA氐(テイ)族馮(フウ)氏」である高句麗第20代馮(フウ)氏長寿王高璉(コウレン)(在位:413~492年)により朝鮮半島から追放されて、新羅が馮(フウ)氏高璉(コウレン)の大きな脅威に面し、自国を権威付け誇大化する必要が生じたからです。

4-5-7.第二期百済王空位期(475年から501年)を利用して捏造された和邇氏雄略朝

・和邇氏:第21代雄略、第22代清寧、第23代顕宗、第24代仁賢(=第21雄略)。
・和邇氏雄略朝から第26代金氏継体への継承王で、秘密の事情をもった第25代金氏武烈。

金氏反正朝(402年~479年)の後、「トベ」系統の『大后』の父系の直祖の実在者の新羅王族待遇の新羅和邇氏朴英失(ヨンシル)が、第二期百済王空位期(475年から501年)を利用して、百済第22代牟氏文周王(在位:475~477年)[=第21代雄略]に捏造されます。
 和邇氏応神朝(第15、17代)と和邇氏雄略朝(第21~24代)が分離したのは、利用した第一期百済王空位期(375年から420年)と第二期百済王空位期(475年から501年)が分離していたからです。これは、和邇氏応神朝と和邇氏雄略朝が捏造された傍証の一つです。
 百済和邇氏雄略朝(475年~479年)は、朴英失(ヨンシル)のみでは第二期百済王空位期(475年から501年)を埋めることができないので、子の第22代清寧、双子と推測される第23代顕宗、朴英失(ヨンシル)と同一人である第24代仁賢(新羅の花郎世紀)が埋められました。雄略朝の四代皆が新羅王に就いていないのは、捏造王であるからです。

更に、まだ空位期を埋めることができないので、第26代継体の子の新羅第21代金氏炤知麻立干(在位:479~500年)=第25代武烈を百済第23代牟(ム)氏三斤(サンキン)王(在位:477~479年)の養子・百済太子にし、百済第24代牟(ム)氏東城王牟大(ムダイ)(在位:479~501年)に捏造しました。王が養子となって氏族名を変えることは、正統性を失うことを意味します。新羅第21代金氏炤知麻立干は、尾張目子媛[=新羅摂政只召太后=新羅・息道夫人=金官加羅王妃・金桂花]の出生の秘密と関係があるかもしれません。
 記紀の常套として、大きな隠蔽と改ざんをする『大王』を挿入する時は、非常に不自然な造られた逸話を、しかも多く入れます。例えば、神功皇后、日本国内を制覇軍行したヤマトタケル[=第12代景行=前燕第2代景昭帝慕容儁(シュン)(在位:348~360年)]、胎中天皇の第15代応神、第16代仁徳の善政、第26代継体の倭国内流浪、等、枚挙することができます。
<以上>