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2024.9.30改訂<新版統合版>第三部 論理的事実を体系的に説明できる考察と結論



3-1.倭国為政体制は、地上の父系制倭国政事統括者『大連』と四韓の顔をもつ天上の第一位非政事為政者の母系制倭国『大后』との同位共同統治

 倭国為政体制は、地上の政事統括した父系制の「DNA縄文人」・Y-DNA「D1a2b1系」である倭国『大連』と、倭国と四韓を非政事為政した母系制・群婚制の「母系DNA呉越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である『大后、女王』と、同位で共同為政した世界でも稀有な例です。
 母系制の倭国『大后、女王』は、四韓の父系制『王』と群婚して非政事為政し、倭国の部族同盟統括者(=政事統括者)の資格をもつ尾張氏、大伴氏、物部氏が四韓の『王と王妃族』の親衛軍を管掌しました。
 国間や部族間の同盟は古代では世界的な慣習である通婚によって契約成立するので、当時の倭国と四韓の『大后、王妃』は群婚でした。『大后、王妃、妃』は母系制女系、『大連、王』は父系制男系で、子は母あるいは母の一族が生育し、男系は成人になると父国に永久回帰しました。したがって、高句麗王や百済王の皆が倭国を統治したことはなく、記紀の虚構です。
 記紀の倭国『大王』の二つの顔は、倭国『大后等』の二つの顔を模倣したもので、記紀の倭国『大王』は虚構です。倭国の部族同盟統括者は、記紀では倭国『大后』が名付けたと推測される『大連』が該当します。
 ただし、平安時代には、日本為政体制は、父系制男系の『天皇』と父系制男系の『左・右大臣』の同位共同為政に変更され、『皇后』は第二位の伴侶となっていきます。また、倭国『皇后』と統一新羅の王妃族との家族体連枝は解消されます。

3-2.天上の第一位非政事為政者の「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制の倭国『大后』、そして、四韓との二つの顔

「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制・群婚制の倭国『大后』は、扶余族の王権の人的象徴で、本貫の新羅に所属しますが、高句麗王と百済王の同位為政者の王妃となります。つまり、倭国『大后』は、倭国と四韓の天上の第一位非政事為政者であり、四韓との二つの顔をもっていました。

倭国『大后』は、倭国と四韓の非政事為政者として、祭祀、継嗣出産・生育、非政事為政者の継承者指定権、政事統括者の継承者指定権・承諾権・婚姻者指定権、後宮管理、母系の財産相続権、等の大きな権限をもちます。
 また、倭国『大后』は、安全な倭国と本貫の伽耶・新羅の二拠点体制を保持しました。倭国『大后』は、中国江南以来、排斥・侵略に会い、流浪のトラウマを数多経験し、やっと日本列島の「DNA縄文人」の保護の下に安住を見出しました。倭国『大后』は、日本列島でも安全を最優先した奥まった地、但馬や飛鳥を都としました。倭国の政事の中心地は、海運・交易に便利な九州・筑紫(太宰府)、畿内・摂津(楠葉宮、難波宮)、島根出雲の日本海沿岸(出雲第二之宮・佐太神社)、兵庫但馬の日本海沿岸(但馬第一之宮・出石神社)で、二都制と通い婚が基本です。

母系制に従って、四韓の王の継嗣は倭国の『大后』の一族で生育され、成人になると朝鮮半島に永久回帰します。スサノオ[=初代大国主=新羅第9代借用昔氏伐休尼師今(在位:184~196年)=金官加羅王初代金首露]やアカルヒメ[=押(オシ)媛=忍鹿(オシカ)比売(第6代孝安(コウアン)の『大后』)]が言うように「倭国は(四韓の)母の国」の由縁です。

3-3.地上の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である父系制の倭国政事統括者『大連』とその後裔達

 倭国の地上の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である父系制の政事統括者は、現在確認されているのはす少なくとも12万年前(島根県出雲市の砂原遺跡)から日本列島の原住者であり、圧倒的な人力、財力、軍事力、情報伝達力、海上交易も含めた輸送力をもっている倭国部族同盟盟主『大連』で、尾張氏、大伴氏、物部氏の三氏族のみが資格をもち、現在の『天皇』まで万世一系で続いています。

尾張氏、大伴氏、物部氏は、倭国『大后』の伴侶として、連枝している四韓の王妃とその王の親衛軍を管掌して実権をもちました。四韓は、倭国との二重政事構造です。

3-4.記紀の倭王『大王』とは、扶余族盟主を継承した高句麗王と百済王の倭国との宿命的・永続的な対婚族同盟の証しである倭国称号で、倭国統治者を意味しません

高句麗と百済を建国したのは、扶余族盟主の部族出自で、春秋時代越の第一位女王の後裔である「母系DNA越系倭人」・YーDNA相当「O1b1系」である召西奴(ソソノ)です。最初の盟主は濊(ワイ)族・YーDNA「O1b1系」で、次は「DNA鮮卑族拓跋部」解(ヘ)氏/羽(于)氏・「O2a2b1系」である高句麗初代解(ヘ)氏東明聖王(在位:B.C.58~B.C.19年)です。百済は、女王・召西奴(ソソノ)が召西奴(ソソノ)の先伴侶の子の「DNA鮮卑族拓跋部」真氏/解(ヘ)氏・Y-DNA「O2a2b1系」である沸流(フル)と共に沸流百済を高句麗から避難移動して建国しました。百済こそが正統後継(真氏)であると思っていました。しかし、百済女王召西奴(ソソノ)は、二男温祚(オンソ)(B.C.44年生まれ)によって滅ぼされ、召西奴(ソソノ)の後裔者は未詳です。
 後に、新羅に併合された「DNA源流鮮卑族和邇氏」・DNA「O2a2b系」は、羽山に追放された夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・「禹(ウ)」の父の東夷の盟主である鯀(コン)㝢(ウ)の後裔であり、「DNA鮮卑族拓跋部」解(ヘ)氏/羽(于)氏・「O2a2b1系」である扶余族盟主の後裔である可能性があります。新羅和邇氏は、第17代履中=莵道(ウジ)稚(ワキ)郎子、第21代雄略、第38代天智、藤原不比等の系譜です。

高句麗王と百済王は扶余族盟主を継承し、国体を「DNA鮮卑族」系の「扶余族」にしました。倭国『大后』は春秋時代越の第一位祭祀女王の後裔で、扶余族盟主の高句麗王と百済王にとって王権の人的象徴でしたので、高句麗と百済は倭国と宿命的・永続的な対婚族同盟をしました。記紀の倭王『大王』とは、高句麗王と百済王の倭国との宿命的・永続的な対婚族同盟の証しである称号であって、倭国の統治者であることを意味しませんし、倭国に渡来して統治した王は誰もいません。

新羅は、当初高句麗や伽耶の属国的なこともあり、また、「DNA種族」が違う「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」である扶余族を国体にできず、新羅王は倭王『大王』称号を付帯できませんでした。新羅は、初代を「母系DNA縄文人混血倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」の新羅王妃族の祖部族である「DNA縄文人混血倭人」・Y-DNA「O1b2系」である朴赫居世(在位:B.C. 57~AD 4年)とし、三国史記新羅本記を編纂した「DNA匈奴金氏」・Y-DNA「O2a1系」の「匈奴」を国体としました。

3-5.「出雲の国譲り神話」の論理的事実

「出雲の国譲り神話」の元の出来事は、261年の「DNA匈奴休氏ニニギ族」が加羅・新羅に再侵攻して、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の新羅第12代借用昔氏(&金氏)沾解(テンカイ)尼師今(在位:247~261年)=八坂入彦=建御名方主を滅ぼしたことです。

新羅の政変に連動して倭国の政変が起こり、越系「戸売(トメ)」系統の『大后』と尾張氏の出雲朝から呉系「トベ」系統の『大后』と物部氏と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族の畿内朝への移行が、「出雲の国譲り神話」の論理的事実です。

以下は、その経緯です。

261年、「DNA匈奴休氏ニニギ族」が加羅・新羅に再侵攻し、新羅借用昔氏朝(倭名は大国朝)の新羅第12代借用昔氏(&金氏)沾解尼師今(在位:247~261年)=八坂入彦=建御名方主を滅ぼさせます。これが、記紀が垂仁朝時代に「出雲の国譲り神話」として記載した元となる出来事です。

鮮卑族慕容部の同盟軍の「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」と物部氏の勢力が倭国で力をつけていきます。日本列島を地盤にした「DNA源流鮮卑族前(サキ)氏」は、「DNA鮮卑族慕容部」の第11代垂仁を宗主とし、垂仁朝時代に新文明を吸収して日本列島で飛躍的に興隆しました。九州、出雲、瀬戸内、ヤマトで勢力をもっていた「DNA匈奴金氏」と古くから日本列島に先住していた「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」が各地で戦闘を展開し、畿内、瀬戸内と朝鮮半島の窓口となる博多(音韻は百済と同じ)を制しました。「DNA匈奴金氏」は、原国の九州と東国に支配地域を縮小しました。

記紀は、垂仁朝時代の神話として、三世代大国主・八坂入彦[=新羅第12代借用昔氏(&金氏)沾解(テンカイ)尼師今(在位:247~261年)]と王妃の第五代戸売・八坂媛命[=新羅金氏保反夫人=八坂刀賣(トメ)神(諏訪大社)]をもって、出雲の「戸売」系統の倭国『大后』と尾張氏の出雲王朝の終焉として記載しました。 

新羅第12代沾解(テンカイ)尼師今(在位:247~261年)[=八坂入彦=建御名方主]は、自分の倭国の支配地がある九州ではなく、伴侶と尾張氏のより安全な地の出雲に避難移動しました。その後、建御名方主と八坂刀賣(トメ)神(諏訪大社)の二人は尾張氏系の科野(シナノ)国諏訪大社の地に避難移動しました。これにより、「戸売(トメ)」系統と尾張氏の出雲の拠点は終焉します。源流出雲は、縄文人と弥生人の女王国と言えるようです。「戸売(トメ)」系統の第二本拠国の但馬の拠点はヤマトに移り、但馬全域は物部氏の領国になります。

一方、「DNA匈奴金氏」である大国朝の倭国での支配地は九州にあり、出雲ではありません。出雲朝時代においても、スサノオ等の大国朝首長の支配拠点は九州で、百済鮮卑族系ヤマト王朝の東倭国とは並立して、いわゆる加羅および高句麗の匈奴金氏系九州王朝の西倭国として続きます。九州は「DNA匈奴金氏」の拠点であり、例外は「DNA鮮卑族」の熊本と博多(音韻は百済と同じ)です。

3-6.「DNA源流鮮卑族」和邇氏は4100年前頃の中国古代の東夷が原初と推測

「羽山(ウサン)」の由緒は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(ウ)の父である鯀(コン)が、東夷として追放された地の羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)にあります。東夷の後裔は、烏桓(ウガキ)、鮮卑(センピ)、契丹(キッタン)といった民族であるといわれています。垂仁朝の鮮卑族慕容部が、日本列島の為政者にならないで、前燕やその後の江南地域から満州に居住拠点を置いた由縁です。つまり、「羽山」は、鮮卑族の原郷です。

「DNA源流鮮卑族」である新羅和邇氏は、東夷として羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)の地に追放された鯀(コン)の後裔であるかもしれません。新羅和邇氏は、羽山(ウザン)から東アジアの扶余に移り、更に、南下して京畿辰韓(ソウル江南区)に本拠をおきました。紀元前0世紀、沸流百済が南下して侵攻したので、和邇氏は、後の百済の国都となる熊津(クマナリ)に南遷した和邇氏(以後、百済系和邇氏と呼ぶ)と現韓国江原道の濊国の対岸にあった現鬱陵島に建国した于山国/羽山国(ウザンコク)(以後、新羅系和邇氏と呼ぶ)の二つに分岐しました。新羅和邇氏の象徴神の第17代履中の別名の和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の「莵(ウ)」は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・「禹(ウ)」が原初かもしれません。

因みに、「DNA鮮卑族」は、朝鮮半島および中国の多くの王朝を占めています。
 高句麗初代解(ヘ)氏東明聖王(在位:B.C.58~B.C.19年)は「DNA鮮卑族拓跋部」解氏/羽(于)氏、沸流(フツ)百済初代沸流(フル)王(在位:未詳)は「DNA鮮卑族拓跋部」真氏、沸流(フル)王の実弟の温祚(オンソ)百済初代温祚(オンソ)王(在位: B.C.18~AD28年、B.C.44年生まれ)は「DNA鮮卑族拓跋部」解氏です。高句麗と百済の国体は、「DNA鮮卑族」である扶余族です。
 百済・王建[「DNA源流鮮卑族前(サキ)族、新羅昔氏」・Y-DNA「O2a2a1a1(M188, subclade-CTS201)」]が建国した高麗王朝(918年~1392年)、高麗の武将の李成桂[「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a2b(F743)」]が建国した李氏朝鮮王朝(1392年~1897年)、大韓帝国初代光武帝(1852-1919)[「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2b1a2b(F743)」]と、「DNA鮮卑族」の国体が続きます。
 新羅は高句麗の属国的であったことが原初であったため、「扶余族」を国体にできず、新羅金氏朝の「DNA匈奴」である「漢族」を国体にします。
 戦前までの朝鮮半島は、専権制・覇権主義を源流文化とする「DNA鮮卑族」と新羅の「DNA匈奴」を一貫として「国体」にしていたのです。

 日本と朝鮮半島は、国体は違いますが、世界で千年以上一つの国体を継続した稀有な国です。違う国体を連枝させていたのが、「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」・Y-DNA相当「O1b2系」である第一位非政事為政者の『大后、王妃」でした。

 「DNA鮮卑族」系の近国王朝は、箕子朝鮮(古朝鮮)、漢(紀元前206年~紀元後8年、25年~220年)、新羅王昔氏、北魏(386年~535年)、前燕(337年~370年)、隋(581年~618年)、唐(618年~907年)です。
 中国の漢族は、「DNA匈奴」・Y-DNA「O2a1系」と「DNA鮮卑族」・Y-DNA「O2a2系」と「DNA江南人」・Y-DNA「O1a系」が三大勢力で、父系制男王の専権制・覇権主義です。中国は、国体を継続しない易姓革命を根源文化とする国です。現在の中国は、共産主義を国体とするも、唯一専権制・覇権主義の根源文化に変わりがありません。

 このように、「DNA鮮卑族」と「DNA匈奴」は、いずれも父系制男王の専権制・覇権主義の源流文化です。
 第38代天智、藤原氏は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」・Y-DNA「O2a2b1a系」で、新羅和邇氏、あるいは、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(う)の父である鯀(コン)を源流とするかもしれない後裔です。

(注)黄河文明の華夏族の黄帝と長江文明の苗(ビョウ)族
 4100年頃前に黄河文明の華夏族の黄帝と長江文明の苗(ビョウ)族が雌雄を決する丹水浦の戦がありました。敗れた苗(ビョウ)族の夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の夏王朝始祖・禹(ウ)の父である鯀(コン)は、東夷として羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)に追放されました。
 夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の前に、三皇五帝の時代があったと伝えられています。
 三皇は、伏犧/庖犧(ホウギ)、女媧(ジョカ)、神農(シンノウ)です。伏犧と女媧についての伝承は、苗族(現在は主に貴州省・雲南省に住む)に多く、彼らの祖先ではないかという説が有力です。神農は南方の苗族を代表しているようです。
 五帝は、黄帝(コウテイ)、帝顓頊(センギョク)、帝嚳(コク)、堯(ギョウ)、舜(シュン)です。
 紀元前3000年~紀元前2000年、中原の覇権を争った3つの勢力である東夷の三苗族(百濮人)の伝説の蚩尤(シユウ)とチベット族・炎帝神農氏族とチベット族・黄帝族がいました。
 4100年頃前に黄河文明の華夏族の黄帝と長江文明の苗(ビョウ)族が雌雄を決する丹水浦の戦があり、敗れた苗(ビョウ)族の鯀(コン)は東夷として羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)に追放されました。史記によれば、中国の五帝時代、堯が帝で、舜(東夷の人)が摂政の時、反主流の四夷を中原から辺境へ追放しました。
 共工を北の幽陵に流し、讙兜を南の嵩山(スウザン)に追放しました。叛乱を起こした三苗を西の三危に逐い、治水に失敗した夏王朝の始祖・禹(ウ)の父・鯀(コン)を東の羽山(ウザン、現山東省郯城県)に追いやり、東夷(注:東胡とは異なる概念)という処分を行ったといいます。治水は、帝の資格業務でした。
 最終的には、黄帝族が神農氏族を駆逐し、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)を建てます。
 「史記」に「伝説の禹(ウ)」と夏本紀があります。鯀(コン)は、五帝のうちの一人である堯(ギョウ)の時に治水工事を命ぜられましたが、9年たってもうまくいかないため、羽山(ウザン)に流されて、そこで殺されてしまいます。鯀(コン)は、舜(シュン)によって羽山で誅殺された時、黄色い熊に姿を変えて、羽山の麓の泉の中に没したという伝説があります。
 夏(カ)(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)は、中国最古と伝承される王朝で、夏后(カコウ)ともいいます。夏王朝のトーテムは、「牛」です。夏族は黄河中流域を支配する部族で、五嶽[中国の聖山:東嶽が泰山(山東省)・西嶽が華山(陝西省)・南嶽が霍山(安徽省)・北嶽が恒山(山西省)・中嶽が嵩山(河南省)]の一つの嵩山のほとりに住んでいた。
 1950年代終り、考古学者の徐旭生が河南省偃師県で二里頭遺跡を発見し、殷王朝に匹敵する規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかりました。さらに、1981年~87年、北京大学歴史系考古教研室が豫北の新郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平皋・淇県宋爻遺址を発掘、1984年からは京大学歴史系考古教研室が魯西南渮澤地方・豫東商丘地方を調査し、渮澤安邱土固堆・夏邑清涼山遺址を発掘しました。その後の調査と考証の結果、豫北地方が河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であり、二里頭文化期には、河型先商文化・岳石文化・二里頭文化が黄河中・下流域で鼎立(テイリツ)していたことが解明されました。また、二里崗下層期には河型先商文化が南下し、西の二里頭文化に取って代わり、二里崗上層期には東の岳石文化に取って代わったことが判りました。
 近年、炭素14年代測定法により、河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡や河南省新密市の新砦遺跡などに痕跡を持つ二里頭文化が夏の時代に相当する年代のものとほぼ確定するなど、文献史料のいう「夏」は二里頭文化に比定されました。これらの状況は、文献上で商(殷)が夏を滅ぼした記述と符合し、二里頭文化が夏王朝の存在を証明することが明らかになりました。
 二里頭遺跡では、青銅器の本格的使用が認められ、斧・鑿・ナイフ・千枚通し・鏃・釣針・戈・酒宴に使う容器類が出土しました。卜骨も出土し、24種の刻画符号が確認され、その形状は甲骨文字と良く似ています。宮殿址の土台は人工的に固められた方形で、周囲に塀、内・外側に回廊が見つかっています。また、宮殿の側に大墓があり、この宮殿が死者に対する祭祀を行うためのものであったと考えられています。
 夏王朝の始祖となる禹(ウ)は、五帝の一人顓頊(センギョク、黄帝の孫)の孫です。堯(ギョウ)帝の時代に、禹は治水事業に失敗した父・鯀(コン)の後を継ぎ、舜(シュン)帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績を大いに認められました。
 『史記』匈奴列伝、『後漢書』南匈奴伝では、匈奴の始祖は夏の一族である夏后氏の淳維であることが記されています。この記述を信頼すれば、匈奴は夏王朝の末裔であり、その意味では匈奴は夏人(中国人)です。
鯀の後を継いだのが禹で、禹は“居外十三年、過家門不敢入(注:13年もの間家の前を通っても入ることはなかった)”という13年間も家に帰らずに努力し、ついに治水工事を成功させました。
 禹は、王に即位し、陽城(現在の河南省登封)に建国したとされています。中原の聖なる嵩山(スウザン)は、禹の住居でもありました。なお、黄河は、これまで淮(ワイ)河に流れていました。

因みに、松江市に嵩山(ダケサン)の山名は、古代越人の地であったことに由縁があります。

3-7.記紀の倭王『大王』の本史は、新羅王族分国の庶子系金官加羅国の「DNA匈奴金氏」を出自とする新羅金氏の第26代継体以降です。

3-8.漢族系渡来人である匈奴系と鮮卑族系との覇権争い

 大国朝・神武朝・仁徳・反正朝・継体朝・欽明朝・舒明朝の「DNA匈奴」系と垂仁朝・応神朝・雄略朝の「DNA鮮卑族」系は、日本列島と朝鮮半島の各地で、倭国政事統括者の「DNA縄文人」の三氏族を巻き込んだ覇権争いをしました。この覇権争いは、「DNA縄文人」の倭国政事統括の覇権を得るためではありません。特に、倭国では倭国『大后』を軸とした「DNA匈奴」系と「DNA鮮卑族」系との覇権抗争が激しいものでした。朝鮮半島の三韓では、「DNA匈奴」系の王統の王妃の外戚の座をかけた「DNA縄文人」の三氏族の間の覇権争いが激しいものでした。三韓間の戦争は、日本で言う「お家騒動」です。この三韓間の戦争で注目することは、「DNA匈奴」系の源流行動様式の敵殲滅(センメツ)や生死剥奪は抑えられ、勝敗が決した時に終焉する「DNA縄文人」のカルチャで行われたことです。三国史記や記紀は、勝敗が決した時に敗者を国外追放したほとんどの場合に源流行動様式に因んで「死亡」と記した由縁です。

3-9.朝鮮半島の王妃の外戚争いが、特に高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=第29代欽明]の頃に激化し、高句麗と百済は物部氏と大伴氏、新羅は尾張氏に棲み分け

 545年、金官加羅出自の金武力[=第29代欽明(キンメイ)=蘇我稲目(506年生~576年歿)]が、大伴氏・物部氏と同盟し、尾張氏外戚系の高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)[=第28代宣下]から高句麗王位を簒奪しました。
 576年に尾張氏外戚系の新羅第24代真興王(在位:540~576年)[=第28代宣下=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)]が第29代欽明(キンメイ)の子の金官加羅出自の達頭(=聖徳太子)に滅ぼされ、金氏新羅王の新骨正統の継承が以後混迷します。

3-10.高句麗滅亡(642年or 668年)、百済滅亡(660年)により記紀の倭国金氏朝は終焉

 百済金氏朝は、百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=高句麗・大陽王=第36代孝徳(コウトク)]で終焉します。これは、記紀の虚構の倭国金氏朝の終焉を意味します。新羅王統は、新羅第24代真興王(在位:540~576年)[=第28代宣下=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)]で真骨正統が事実上終焉[次代の新羅第25代真智王(在位:576~579年)は廃位]します。
 百済第31代(末王)義慈王は、「DNA縄文人」物部氏から離反した報復で見離され、宗主・高句麗は642年に実質滅んで、力となる援軍がいなくなり、660年に百済は滅ぶべくして滅びました。
 百済第31代(末王)義慈王は、660年に唐の捕虜となり、同年歿したとされています。

3-11.高句麗・淵蓋蘇文と新羅は、統一新羅化の密約同盟をした疑いが濃厚

 618年、百済第30代武王(在位:600~641年)[=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第35代舒明]はいつになっても高句麗王を退位しようとしないので高句麗第27代栄留(エイル)王[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷]により高句麗王を追放されました。
 642年、19歳の高句麗・淵蓋蘇文(623年生~686年歿)は、高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷]を暗殺しました。これは、淵蓋蘇文の単独ではなく、誰かそそのかした者がいても不思議ではありません。
 これらにより、高句麗と百済の「DNA匈奴金氏」と物部氏との関係は完全に破局しました。大きな軍事力のバックを失った百済は容易に滅亡することになります。
 高句麗宰相・淵蓋蘇文は、物部氏との同盟が完全に破局したので、高句麗と百済を見捨て、新羅との同盟に自己の復権を賭けるしかありませんでした。
 淵蓋蘇文の親新羅の倭国亡命政権の樹立は、新羅・尾張氏の物部氏の倭国覇権の簒奪と利害が一致しました。
 660年、新羅第29代武烈王(在位:602~661年)は、唐と同盟して、百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)[=第36代孝徳(コウトク)]を滅ぼします。武烈王の王妃は、百済・義慈王の母でもあり、高句麗・淵蓋蘇文(エン・ガイソブン/イリ・カスミ)(623年生~686年歿)の母でもある新羅文明王后金文姫/金宝姫[=宝皇女(593年生~661年歿)=第35代皇極(コウギョク)天皇B宝皇女=重祚第37代斉明(サイメイ)天皇B宝皇女]です。
 661年、新羅第29代武烈王(在位:602~661年)は、唐の高句麗出兵に参加し、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死したとされています。しかし、これは、事実かどうか検討が必要です。武烈王の後継は、実父が淵蓋蘇文の庶子の新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)[=第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)]で、王統が変わっています。
 665年頃、淵蓋蘇文は、倭国亡命政権の第37代斉明A淵蓋蘇文に就き、倭国『大后』を新羅・尾張氏外戚系の新羅最重要者の新羅新骨正統第4代首主・額田王とします。
 668年、新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)は、朝鮮半島を統一します。朝鮮半島の実際の統一者は、第37代斉明A淵蓋蘇文と新羅・尾張氏であることが後にわかります。
 671年の淵蓋蘇文の唐の捕虜からの解放、672年の第38代天智の暗殺、672年の壬申(ジンシン)の乱と称されている大海人皇子の覇権奪取は、尾張氏の支援によるものです。
 681年、新羅貴族達は、第40代天武・淵蓋蘇文(在位:672~686年)と新羅・尾張氏が新羅乗っ取りを企ていることに気付き、新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)[=第42代文武(モンム)天皇(在位:697~707年)と新羅・尾張氏を国外追放します。
 682年、63歳の第40代天武(在位:673~686年)は、第38代天智の娘の大田皇女(667年歿)との子の大津皇子(663年生~686年歿)に暗殺されました。この暗殺の首謀者は、新羅貴族達が考えられます。

以上のように、淵蓋蘇文の642年以降の動きは、淵蓋蘇文と新羅・尾張氏との統一新羅化の密約同盟があったことを示唆します。

3-12.古事記編纂の第一目的は第40代天武の継承元示唆による皇位正統性の偽造

 記紀が扱ったそれぞれの最終『大王』がそれぞれの承継元です。
 古事記編纂の第一目的は、「DNA呉越系倭人混血縄文人」である倭国政事統括者に対抗するために第40代天武の皇位正統性を示す皇統譜の捏造でした。
 皇統譜の捏造は、歴代高句麗王と歴代百済王を単純合成したものであるため、皇統期間が実際の2倍になっていることが示しています。これが、記紀の暦年のミステリーの原初です。したがって、記紀の和暦を西暦に換算することは原理的に不可能です。
 古事記は、第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)=重祚第40代天武(在位:673~686年)が、倭国統治者である「DNA縄文人」に対抗するために、皇位の継承正統性を示す継承元とする第33代推古(スイコ)B額田部皇女(554年生~628年歿)までを編纂したものです。
 712年、古事記(最古写本1371年)が第43代元明(在位:707~715年)[=新羅王妃・慈儀王后]に献上されました。この賞味期限の切れた古事記は、国史から外され、本居宣長が探し出すまでは陽を見ることはありませんでした。
 第37代斉明A淵蓋蘇文(推定在位:655~666年)に即位した直後に編纂の構想を始めたと推測されます。第40代天武の存命中に古事記の編纂が終わっている筈で、第40代天武の686年没後の30年後に編纂を開始するのは不自然なことです。また、古事記編纂から30年ないし50年後に第43代元明(ゲンメイ)(在位:707~715年)に献上されたとすることも不自然です。
 この古事記献上の出来事は、第40代天武後裔系勢力の政治的な巻き返しの意図があってのことです。

3-13.日本書記編纂の第一目的は第44代元正の継承元示唆による皇位の格の虚飾と和邇氏の皇統祖の示威

 (女帝)第44代元正(日本書記)は、皇位継承元を(女帝)第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良(ウノノサララ)とする日本書記を必要としました。また、藤原不比等は、第38代天智および藤原氏の和邇氏の皇統祖を日本書記に示しました。

 715年、712年の古事記献上の政治的意図に対処して、第43代元明(ゲンメイ)天皇(721年歿)[=新羅王妃・慈儀王后]は、娘の(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]に譲位します。この譲位は、第44代元正の父は草壁皇子(第40代天武と大后・鸕野讚良との子)で、第40代天武後裔系勢力への政治的譲歩の取引です。715年頃は、和邇氏系藤原不比等が政事実権者ですが、まだ第40代天武後裔系の匈奴金氏系勢力は相当力を持っていました。

日本書記は、(女帝)第44代元正(ゲンショウ)(在位:715~724年)]と藤原不比等が編纂責任者です。
 日本書記は、第44代元正が、皇位の血統性の格を示す継承元とする第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)までを編纂したものです。第44代元正(ゲンショウ)の母・第43代元明(ゲンメイ)(女帝)(在位:707~715年)は庶子の妹娘である蘇我姪娘(メイノイラツメ)の娘であるので、第44代元正(ゲンショウ)は、皇位血統性の格を示すために、『皇后』継嗣系の蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の第41代持統(ジトウ)B鸕野讚良(ウノノサララ)を自らの継承元とします。鸕野讚良(ウノノサララ)は、姉が早逝したので継嗣となりますが、本来庶子の妹である庶子系の娘で、第44代元正と鸕野讚良は境遇が似ていました。

第38代天智と藤原不比等の「DNA源流鮮卑族和邇氏」の象徴祖神は、百済系和邇氏の第15代応神と新羅系和邇氏の第17代履中=莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)です。日本書記は、更に、神代上の最後の第八段に古事記にはない藤原氏の源流として「大年神-羽山戸神」の系譜を挿入しています。
 因みに、大年は「DNA匈奴金氏」、羽山戸神=莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)は「DNA源流鮮卑族和邇氏」と氏族系譜は違いますが、共に、扶余族盟主の後裔です。莵道稚郎子の「稚(ワケ)=別(ワケ)」は、中国語では「王」と同韻同義語です。藤原不比等は、倭国では扶余族盟主の後裔で公知の大年神を羽山戸神の祖神に脚色したのか、そう信じていたのか、どちらかです。

3-14.記紀の人工皇統譜の構造分析

 記紀は、新羅王族分国の庶子系金官加羅国を出自とする「DNA匈奴金氏」である高句麗王と百済王を基軸とし、新羅王族分国の大賀羅国の呉系「トベ」系統の新羅妃の父系祖および藤原氏祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」を副基軸として造られた人工皇統譜です。 
①新羅王族分国の金官加羅国を出自とする「DNA匈奴金氏」を基軸
新羅金氏7代・第3代安寧、新羅金氏8世代・第16代仁徳、新羅金氏11世代・第26代継体以降。
②第3代安寧の継承正統皇朝の反正朝
新羅金氏8代・第18代反正=倭王珍、新羅金氏9代・第19代允恭=倭王済、新羅金氏10代・第20代安康=倭王興、[新羅金氏11代・百済第25代武寧王(在位:501~523年)=倭王武]。
③呉系「トベ」系統の『大后』の父系祖および藤原氏祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」に関係する皇朝:
 呉系倭人朝(第6~9代)、鮮卑族慕容部系垂仁朝(第11~14代)、和邇氏応神朝(第15、17代)、和邇氏雄略朝(第21~25代)、伴侶の高句麗物部朝(第31、35代)。
④百済王の第一期空位期(375年から420年)を利用して和邇氏象徴祖神として造られた百済系和邇氏の第15代応神と新羅和邇氏の第17代履中
⑤百済王の第二期空位期(475年から501年)を利用して呉系「トベ」系統の『大后』の父系直祖を和邇氏雄略朝に捏造
⑥皇位正統性を補うために付加した皇朝の継承元:
  神武B朝ニニギ族[匈奴金氏]、第5代孝昭[呉系倭人]、第10代崇神[鮮卑族]。
⑦皇朝の継承正統性を示すために前皇朝と次皇朝を繋ぐ役割の『大王』を挿入:
  第9代開花[呉系倭人朝⇨垂仁朝]、第13代成務[垂仁朝⇨応神朝]、神功皇后[垂仁朝⇨応神朝]、第25代武烈[雄略朝⇨継体朝]。
⑧不都合な出来事があった「DNA縄文人」である高句麗物部朝(第31、35代)を「DNA匈奴金氏」である母方祖父の欽明朝に改ざんして繰り込む
⑨不都合な出来事のある『大王』を隠すための捏造『大王』:
 第32代崇峻[第31代用明]、第33代推古A額田部皇女[第33代推古A達頭]、第35代皇極B宝皇女[第35代皇極(コウギョク)天皇A物部(蘇我)蝦夷]、第37代斉明(サイメイ)B宝皇女[第37代斉明(サイメイ)天皇A淵蓋蘇文]。
 天上の第一位祭祀女王(女帝)が、地上の政事統治者の『大王』に天下ることはありえません。
⑩第40代天武(古事記)の継承正統性を示すために継承元とした第33代推古B額田部皇女と、第44代元正(日本書記)の継承元とした第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良。
  古事記と日本書記のそれぞれの最終『大王』が、それぞれの継承元『大王』です。

3-15.645年以降の物部宗本家の継承と藤原不比等との同盟

  第38代天智が暗殺された後の後裔の皇位継承と倭国『皇后』の物部氏外戚から尾張氏、大伴氏系、新羅和邇氏系藤原氏への変遷を扱います。

倭国政事統括者である物部宗本家『大連』側は、642年に物部宗本家第16代・蘇我蝦夷(586年頃生~642年歿)が暗殺され、左大臣(645~649年)阿倍内麻呂と物部宗本家第16代・蘇我蝦夷の弟の蘇我倉麻呂の子の物部宗本家分家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が継承しました。
 649年に右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が謀反を起こそうとしていると讒言(ザンゲン)され、妻子八人と共に山田寺で自害したとされています。日本書記は、右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂は、645年に中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して蘇我入鹿を暗殺した際(乙巳の変)、共に計画に賛同したとしています。
 649年に右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂が死亡した後、左大臣(649~658年)巨勢(コセ)徳多(トコタ/トクタ)、右大臣(649~651年)大伴長徳、蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)、蘇我倉山田石川麻呂の弟の左大臣(671~672年)蘇我赤兄が継承します。
 678年頃(不比等は19歳頃)、藤原不比等は、物部宗本家第17代・右大臣(645~649年)蘇我倉山田石川麻呂の弟(五男)の物部宗本家分家第17代・右大臣(662~664年)蘇我連子(ムラジコ)の娘・蘇我娼子(ショウシ/マサコ)/媼子(オンシ/オウナコ)(生没年未詳)を嫡妻として迎え、通婚同盟します。
 その後、645年直後に物部宗本家を継承した物部宗本家第18代・右大臣(704年~708年)左大臣(708年~717年)石上氏麻呂(640年生~717年歿)と右腕の和邇氏系右大臣(708年~720年)藤原不比等(659年生~720年歿)は、姻戚関係となり、二人三脚の政権運営をします。石上氏麻呂が704年に右大臣(704年~708年)となった時は、64歳の高齢で、実権は45歳の藤原不比等にあります。

石上氏麻呂の子孫は、物部宗本家第19代・中納言・石上乙麻呂(750年歿)、物部宗本家第20代・正三位大納言(贈正二位)石上宅嗣(729生~781年歿)、物部宗本家第21代・従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)と継承され、いずれも母は未詳とされています。そして、第21代従五位下主税頭・石上継足(生没年は未詳)が父が未詳とされる第50代桓武(在位:781~806年)(739年生~806年歿)に比定され、その後裔は現在の『天皇』まで続いています。

藤原不比等(659年生~720年歿)は、実父が新羅波珍飡(4等官)和邇氏系金善品(627年生~672年歿)=百済・翹岐(ギョウキ)王子=第38代天智(推定在位:668~672年)、母が宝皇女=新羅第29代武烈王(在位:654~661年)の新羅王妃・文明王后です。
 藤原不比等蘇我娼子との子は、長男の南家祖・藤原武智麻呂 (680年生~737年歿) 、次男の北家祖・藤原房前(681年生~737年歿)、三男の式家祖・藤原宇合(694年生~737年歿)。異母の四男の京家祖・藤原麻呂(695年生~737年歿)です。

以上のように、645年以降も蘇我宗本家は、蘇我宗本家分家に継承させ、蘇我宗本家第18代石上氏麻呂へと倭国政事統括を続けていきます。

倭国政事統括者である物部宗本家『大連』側の『皇后』の女系継嗣者は、額田部皇女(554年生~628年歿)、その娘の宝皇女(593年生~661年歿)、その娘の間人(ハシヒト)皇女(仮推測生年・608年~665年歿)=中宮皇后です。間人(ハシヒト)皇女と比定される(姉)蘇我遠智娘(オチノイラツメ)の娘の第40代天武の先大后の(姉)大田皇女、第40代天武の後大后の(妹)鸕野讚良(ウノサララ)皇女(645年生~702年歿)=第41代持統B鸕野讚良(ウノノサララ)です。

3-16.「倭」国名の原初は新羅の対外通称名

 「倭の五王」の時代の「倭」とは新羅王の対外通称名で、後に新羅王妃と同体の倭国『大后』が倭国名に使用しました。
 「宋書 」と「南史」によると、421年から502年までの5人の倭王の官職号を授けましたが、官職号が示した領土は「百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」の六国が基本で、新羅分国の加羅を加えた七国の場合があります。ここで、領土には日本列島の倭国は含まれていません。
 南宋の頃には、安東・安西・安南・安北の四将軍号が成立し、「安東将軍倭国王」の称号があります。「安東将軍倭国王」は、弱小で属国的な新羅を権威付けるために領土とは別な意味の朝鮮半島の中北部地域を示す「安東」に、権威付けの「濊(=倭)国」を結合させた対外通称名です。
 つまり、倭の五王の讃・珍・済・興は、新羅王ないし新羅王の継嗣の顔があり、また、倭王武は新羅王継嗣の百済王として実在しています。

「濊(ワイ、wei)」と「倭」は、同音韻「wei、ウエイ」の形成漢字です。  
 421年から502年頃の弱小で属国的な時代の新羅は、隣接していた格式のある濊国を併合して権威付けで「濊」の同音異漢字の「倭」に変えて対外通称名に使いました。しかし、新羅が高句麗王、百済王を輩出するようになると、もはや「濊=倭国」という対外的な粉飾を必要としなくなりました。そして、国体は、扶余族にできないので、後の自部族の「漢族匈奴」としました。

一方、扶余族盟主であった濊(=倭)の女首長の母系後裔の倭国『大后』は、新羅が扶余族「濊」を国体に選択せず、対外通称名の「倭国」名を不要にしたので、外交上の権威付けから日本列島の国名に新羅が一時的に用いた「倭国」を使用したと考えられます。これが日本列島の「倭国」の始まりと推測されます。このことを第40代天武は知っていたので、国号を変えます。

新羅が原本を作成した三国史記に記述されている「倭国」「倭人」は、由来に基づいた実情とその後の実情とが混在して故意にあいまいに使われています。

3-17.奈良時代は統治体制の遷移期で、平安時代藤原朝からは父系制のみの共同統治体制に変更

 倭国の天上の非政事為政者の「母系DNA縄文人混血呉系倭人」である母系制『大后』と地上の倭国政事統括者の父系制「DNA呉系倭人混血縄文人」『大連』との同位共同為政体制から、平安時代藤原朝には非政事為政者の父系制男系の「DNA呉系倭人混血縄文人」である『天皇』と政事統括者の父系制男系の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原氏との共同統治体制に変更します。
 飛鳥時代の第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良(ウノノサララ)は称制した繋ぎです。奈良時代の第43代元明(ゲンメイ)天皇(女帝)(在位:707~715年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王の新羅王妃・慈儀王后]、第44代元正(ゲンショウ)天皇(女帝)(在位:715~724年)は、物部(蘇我)宗本家出自ではありますが倭国『大后』の継嗣系統ではない庶子系統であり、統一新羅王朝の人質的藤原不比等の傀儡です。第46代孝謙(在位:749~758年)、重祚第48代称徳(在位:764~770年)は、大伴氏系県犬養三千代/橘三千代の孫娘であり、藤原氏の傀儡です。これら『女帝』は皆、第一位非政事為政者でもなく、第一位政事統括者でもなく、実体は第二位です。
 また、奈良時代の新羅王を追放された「「DNA匈奴金氏」である第42代文武(モンム)(在位:697~707年)[=新羅第30代金氏文武(ブンブ)王(在位:661~681年)]、第45代聖武(ショウム)(在位:724~749年)、廃帝:第47代淳仁天皇(在位:758年~764年)は、第40代天武の血統ですが、第40代天武の後裔勢力と藤原氏の傀儡です。第49代光仁(在位:770~781年)は、第38代天智の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の子です。
 奈良時代は、統治体制の不安定な遷移期です。

3-18.十七条の憲法の第一条「和を以て貴しとなす」の実意は「DNA縄文人には逆らうな」

 平安時代に作られた聖徳太子の十七条の憲法は、後世に作られたものですが、第一条「和を以て貴しとなす」は、「和(=倭)」で倭国政事統括者の「DNA縄文人」を暗喩し、「倭国政事統括者の「DNA縄文人」には逆らうな」という後裔への聖徳太子と第40代天武の遺訓と解釈するのが自然です。
 「DNA匈奴」である聖徳太子と第40代天武の波乱万丈の人生には、共存共生や現在の平和希求の観念はなく、現在の進歩的知識人の自己都合による粉飾の解釈です。
 倭国政事統括者の「DNA縄文人」は、軍事力を重視しており、しかし、勝敗が決した時は無用な生命の削除はほとんどの場合していません。
 平和には強力な軍事力の保有が必須とするもので、現在の進歩的知識人の平和主義と基本を異にしています。どちらが本気の生き方をしているかの視点でみる必要があります。
 物部(蘇我)馬子や西郷隆盛や勝海州の平和主義や乃木希典の敵大将への処遇は<縄文>主義と類似しています。

3-19.統一新羅(三国史記)と倭国(記紀)は協調して為政者の連枝を隠蔽・改ざん

 統一新羅は、倭国と協調して、倭国、高句麗、百済、新羅を通婚同盟の連枝国からそれぞれ独立した国体の国に隠蔽・改ざんしました。三国史記(原本)と記紀は、同様な手法で協力して隠蔽と改ざんをしました。
 日本書記は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原氏系により、大幅に修正され、完成されたのは平安時代であると推測されます。
 これが、日本と朝鮮の「根源ルーツの漠然とした不安の保有」と「近くて遠い国」の原初かもしれません。

三国史記の高句麗本紀と百済本紀には、皇史時代以前の倭王『大王』の顔がない王の場合には、王妃の名が記載されている場合があります。
 ところが、三国史記の高句麗本記と百済本記には、倭国と対婚族同盟をした以降、王妃の名は通称・別名を含めて一切記載されていません。
 記紀学者は勿論のこと、我が国だけでなく三韓の古代史研究者は、何故この不自然さに全く触れないのでしょうか。
 その他、三国史記(原本)と記紀が特に隠蔽したことに、加羅諸国の歴史と新羅との関係、金官加羅国と中央アジアの突厥との連枝、大賀羅/大加羅と倭国大和との関係、中央アジアやペルシャ等の連枝、等があります。
<以上>