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2024.7.30<新版統合版>第三部 論理的事実を体系的に説明できる考察と結論


3-1.倭国為政体制は、天上の四韓の第一位非政事為政者の母系制倭国『大后』と地上の父系制倭国政事統括者『大連』との同位共同統治

 倭国と四韓を非政事為政した『大后、女王』は母系制を、政事統括した倭国『大連』と四韓の『大王』は父系制をそれぞれ独立に維持し、同位で共同為政した世界でも稀有な例です。
 ただし、平安時代に、日本為政体制は、父系制のみの同位共同為政に変更されます。

3-2.天上の第一位非政事為政者の「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制の倭国『大后』、そして、四韓との二つの顔

  「母系DNA縄文人混血呉越系倭人」である母系制・群婚制の倭国『大后』は、扶余族の王権の人的象徴で、倭国と四韓の天上の第一位非政事為政者であり、四韓との二つの顔をもっていました。記紀の倭国『大王』の二つの顔は、倭国『大后等』の二つの顔を模倣したものです。

倭国『大后』は、非政事為政者として、祭祀、継嗣出産・生育、非政事為政者の継承者指定権、政事統括者の継承者指定権・承諾権・婚姻者指定権、後宮管理、母系の財産相続権、等の大きな権限をもちます。
  また、倭国『大后』は、安全な倭国と本貫の伽耶・新羅の二拠点体制を保持しました。

母系制に従って、四韓の王の継嗣は倭国の『大后』の一族で生育され、成人すると朝鮮半島に回帰します。スサノオ[=初代大国主=新羅第9代借用昔氏伐休尼師今(在位:184~196年)=金官加羅王初代金首露]やアカルヒメ[=押(オシ)媛=忍鹿(オシカ)比売(第6代孝安(コウアン)の『大后』)]が言うように「倭国は(四韓の)母の国」の由縁です。

3-3.地上の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である父系制の倭国政事統括者『大連』とその後裔達

   倭国の地上の「DNA呉越系倭人混血縄文人」である父系制の政事統括者は、現在確認されているのは12万年前からの日本列島の原住者であり、圧倒的な人力、財力、軍事力、情報伝達力、海上交易も含めた輸送力をもっている倭国部族同盟盟主『大連』で、尾張氏、大伴氏、物部氏の三氏族のみが資格をもち、現在まで万世一系で続いています。

尾張氏、大伴氏、物部氏は、倭国『大后』の伴侶として、連枝している四韓の王妃とその王の親衛軍を管掌して実権をもちました。四韓は、倭国との二重政事構造です。

3-4.記紀の倭王『大王』とは、扶余族盟主を継承した高句麗王と百済王の倭国との宿命的・永続的な対婚族同盟の証しである倭国称号で、倭国統治者を意味しない

  高句麗と百済を建国したのは、扶余族盟主の部族出自で、春秋時代越の第一位女王の後裔である召西奴(ソソノ)です。最初の盟主濊族の次は高句麗です。百済は、女王召西奴(ソソノ)が召西奴(ソソノ)の先伴侶の子の沸流(フル)と共に沸流百済を、高句麗から分離して建国しました。百済こそが正統後継であると思っていました。しかし、百済女王召西奴(ソソノ)は、二男温祚(オンソ)(B.C.44年生まれ)によって滅ぼされ、召西奴(ソソノ)の後裔の系譜者は未詳とされています。

高句麗王と百済王は扶余族盟主を継承し、国体を扶余族にしました。倭国『大后』は春秋時代越の第一位祭祀女王の後裔で、扶余族盟主の高句麗王と百済王にとって王権の人的象徴でしたので、高句麗と百済は倭国と宿命的・永続的な対婚族同盟をしました。記紀の倭王『大王』とは、高句麗王と百済王の倭国との宿命的・永続的な対婚族同盟の証しである称号であって、倭国の統治者であることを意味しませんし、倭国に渡来して統治した王は誰もいません。。

新羅は、当初高句麗や伽耶の属国的でしたので扶余族を国体にできず、新羅王は倭王『大王』称号を付帯できませんでした。

3-5.「出雲の国譲り神話」の論理的事実

 「出雲の国譲り神話」の元の出来事は、261年の「DNA匈奴休氏ニニギ族」が加羅・新羅を再侵攻して、新羅借用昔氏朝(倭名は、大国朝)の新羅第12代借用昔氏沾解尼師今(在位:247~261年)=八坂入彦=建御名方主を滅ぼしたことをです。

新羅の政変に連動して倭国の政変が起こり、越系「戸売(トメ)」系統の『大后』と尾張氏の出雲朝から呉系「トベ」系統の『大后』と「DNA源流鮮卑族」前(サキ)族と物部氏の畿内朝への移行が、「出雲の国譲り神話」の論理的事実です。

261年、「DNA匈奴休氏ニニギ族」の加羅・新羅の再侵攻により新羅借用昔氏朝(倭名は、大国朝)は、新羅第12代借用昔氏沾解尼師今(在位:247~261年)=八坂入彦=建御名方主の時に滅びます。これが、記紀が垂仁朝時代に「出雲の国譲り神話」として記載した元となる出来事です。

鮮卑族慕容部の同盟軍の「DNA源流鮮卑族前(サキ)族」と物部氏の勢力が倭国で力をつけていきます。日本列島を地盤にした「DNA源流鮮卑族前(サキ)氏」は、「DNA鮮卑族慕容部」の第11代垂仁を宗主とし、垂仁朝時代に新文明を吸収して日本列島で飛躍的に興隆しました。九州、出雲、瀬戸内、ヤマトで勢力をもっていた「DNA匈奴金氏」と新興の「DNA源流鮮卑族前(サキ)氏」が各地で戦闘を展開し、畿内、瀬戸内と朝鮮半島の窓口となる博多(音韻は百済と同じ)を「DNA源流鮮卑族前(サキ)氏」が制しました。「DNA匈奴金氏」は、原国の九州に支配地域を縮小しました。

記紀は、垂仁朝時代の神話として、三世代大国主・八坂入彦[=新羅第12代借用昔氏(&金氏)沾解(テンカイ)・尼師今(在位:247~261年)]と王妃の第五代戸売・八坂媛命[=新羅金氏保反夫人=八坂刀賣(トメ)神(諏訪大社)]をもって、倭国領国の出雲の「戸売」系統の倭国『大后』の終焉として記載しました。 

新羅第12代沾解尼師今(在位:247~261年)[=八坂入彦=建御名方主]は、自分の倭国領国の九州ではなく、より安全な伴侶の地の出雲に亡命しました。二人は尾張氏系の科野(シナノ)国(諏訪大社)に亡命しました。これにより、「戸売(トメ)」系統と尾張氏の出雲の拠点は終焉します。出雲は、縄文人と弥生人の女王国と言って良いようです。「戸売(トメ)」系統の但馬の拠点はヤマトに移り、但馬全域は物部氏の領国になります。

一方、「DNA匈奴金氏」である大国朝の倭国での領国は九州で、出雲ではありません。出雲朝時代においても、スサノオ等の大国朝首長の統治拠点は九州で、百済鮮卑族系ヤマト王朝の東倭国とは並立して、いわゆる加羅および高句麗匈奴金氏系九州王朝の西倭国として続きます。九州は「DNA匈奴金氏」の拠点であり、例外は「DNA鮮卑族」の熊本と博多(音韻は百済と同じ)です。

3-6.「DNA源流鮮卑族」和邇氏は4100年前頃の中国古代の東夷が原初と推測

 「羽山(ウサン)」の由緒は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(う)の父である鯀(コン)が、東夷として追放された地の羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)にあります。東夷の後裔は、烏桓、鮮卑、契丹といった民族であるといわれています。垂仁朝の鮮卑族慕容部が、日本列島で為政しないで、前燕やその後の江南地域から満州に居住拠点を置いた由縁です。つまり、「羽山」は、東夷(鮮卑族)の原郷です。

「DNA源流鮮卑族」である新羅和邇氏は、東夷として羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)の地に追放された鯀(コン)の後裔であるかもしれません。新羅和邇氏の象徴神の第17代履中の別名の和邇氏莵道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の「莵(ウ)」は、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・「禹(ウ)」が原初かもしれません。
鮮卑族と匈奴は、大陸の二代勢力です。扶余国は、鮮卑族系と匈奴系の二つがあったとの説の由縁です。日本は、古代アジア大陸の種族を引継いでいます。

(注)黄河文明の華夏族の黄帝と長江文明の苗(ビョウ)族
   4100年頃前に黄河文明の華夏族の黄帝と長江文明の苗(ビョウ)族が雌雄を決する丹水浦の戦がありました。敗れた苗(ビョウ)族の夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の始祖・禹(ウ)の父である鯀(コン、子は夏王朝始祖)は、東夷として羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)に追放されました。
  夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)の前に、三皇五帝の時代があったと伝えられています。
   三皇は、伏犧/庖犧(ホウギ)、女媧(ジョカ)、神農(シンノウ)です。伏犧と女媧についての伝承は、苗族(現在は主に貴州省・雲南省に住む)に多く、彼らの祖先ではないかという説が有力です。神農は南方の苗族を代表しているようです。
  五帝は、黄帝(コウテイ)、帝顓頊(センギョク)、帝嚳(コク)、堯(ギョウ)、舜(シュン)です。
   紀元前3000年~紀元前2000年、中原の覇権を争った3つの勢力である東夷の三苗族(百濮人)の伝説の蚩尤(しゆう)とチベット族・炎帝神農氏族とチベット族・黄帝族がいました。
   4100年頃前に黄河文明の華夏族の黄帝と長江文明の苗(ビョウ)族が雌雄を決する丹水浦の戦があり、敗れた苗(ビョウ)族の鯀(コン)は東夷として羽山(ウザン、江蘇東海県と山東臨沭県の交差する一帯、中国・青島の近く)に追放されました。史記によれば、中国の五帝時代、堯が帝で、舜(東夷の人)が摂政のとき、反主流の四夷を中原から辺境へ追放しました。
   共工を北の幽陵に流し、讙兜を南の嵩山(スウザン)に追放しました。叛乱を起こした三苗を西の三危に逐い、治水に失敗した夏王朝の始祖・禹(ウ)の父・鯀(コン)を、東の羽山(ウザン、現山東省郯城県)に追いやり、東夷(注:東胡とは異なる概念)という処分を行ったといいます。治水は、帝の資格業務でした。
   最終的には、黄帝族が神農氏族を駆逐し、夏王朝(紀元前2070年~紀元前1600年)を建てます。
 「史記」に「伝説の禹」と夏本紀があります。鯀は、五帝のうちの一人である堯(ギョウ)のときに治水工事を命ぜられたが、9年たってもうまくいかないため、羽山(ウザン)に流されて、そこで殺されてしまいます。鯀は、舜によって羽山で誅殺された時、黄色い熊に姿を変えて、羽山の麓の泉の中に没したという伝説があります。
   夏(カ)(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)は、中国最古と伝承される王朝で、夏后(カコウ)ともいいます。夏王朝のトーテムは、「牛」です。夏族は黄河中流域を支配する部族で、五嶽[中国の聖山:東嶽が泰山(山東省)・西嶽が華山(陝西省)・南嶽が霍山(安徽省)・北嶽が恒山(山西省)・中嶽が嵩山(河南省)]の一つの嵩山のほとりに住んでいた。
  1950年代終り、考古学者の徐旭生が河南省偃師県で二里頭遺跡を発見し、殷王朝に匹敵する規模の大建築群の宮殿・住居・墓が見つかりました。さらに、1981年~87年、北京大学歴史系考古教研室が豫北の新郷と安陽地方を調査し、修武李固・温県北平皋・淇県宋爻遺址を発掘、1984年からは京大学歴史系考古教研室が魯西南渮澤地方・豫東商丘地方を調査し、渮澤安邱土固堆・夏邑清涼山遺址を発掘しました。その後の調査と考証の結果、豫北地方が河型先商文化と二里頭文化の隣接地帯であり、二里頭文化期には、河型先商文化・岳石文化・二里頭文化が黄河中・下流域で鼎立していたことが解明されました。また、二里崗下層期には河型先商文化が南下し、西の二里頭文化に取って代わり、二里崗上層期には東の岳石文化に取って代わったことが判りました。
  近年、炭素14年代測定法により、河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡や河南省新密市の新砦遺跡などに痕跡を持つ二里頭文化が夏の時代に相当する年代のものとほぼ確定するなど、文献史料のいう「夏」は二里頭文化に比定されます。これらの状況は、文献上で商(殷)が夏を滅ぼした記述と符合し、二里頭文化が夏王朝の存在を証明することが明らかになりました。
 二里頭遺跡では、青銅器の本格的使用が認められ、斧・鑿・ナイフ・千枚通し・鏃・釣針・戈・酒宴に使う容器類が出土しました。卜骨も出土し、24種の刻画符号が確認され、その形状は甲骨文字と良く似ています。宮殿址の土台は人工的に固められた方形で、周囲に塀、内・外側に回廊が見つかっています。また、宮殿の側に大墓があり、この宮殿が死者に対する祭祀を行うためのものであったと考えられています。
  夏王朝の始祖となる禹(ウ)は、五帝の一人顓頊(センギョク、黄帝の孫)の孫です。堯帝の時代に、禹は治水事業に失敗した父・鯀(こん)の後を継ぎ、舜帝に推挙される形で、黄河の治水事業に当たり、功績を大いに認められました。
 『史記』匈奴列伝、『後漢書』南匈奴伝では、匈奴の始祖は夏の一族である夏后氏の淳維であることが記されています。この記述を信頼すれば、匈奴は夏王朝の末裔であり、その意味では匈奴は夏人(中国人)です。
鯀の後を継いだのが禹で、禹は“居外十三年、過家門不敢入(注:13年もの間家の前を通っても入ることはなかった)”という13年間も家に帰らずに努力し、ついに治水工事を成功させました。
 禹は、王に即位し、陽城(現在の河南省登封)に建国したとされています。中原の聖なる嵩山(スウザン)は、禹の住居でもありました。なお、黄河は、これまで淮(ワイ)河に流れていました。

因みに、松江市に嵩山(ダケサン)の山名は、古代越人の地であったことに由縁があります。

3-7.記紀の倭王『大王』の本史は新羅王族分国の庶子系金官加羅国の「DNA匈奴金氏」を出自とする新羅金氏直祖の第26代継体以降

3-8.漢族系渡来人である匈奴系と鮮卑族系との覇権争い

 匈奴系の大国朝、神武朝と鮮卑族系の垂仁朝は、日本列島と朝鮮半島の各地で、倭国政事統括者の「DNA縄文人」の三氏族を巻き込んだ覇権争いをしました。この覇権争いは、「DNA縄文人」の倭国政事統括の覇権を得るためではありません。この四韓間の戦争で注目することは、アジア大陸での原行動様式の敵殲滅や生死剥奪は抑えられ、勝敗が決した時に終焉する「DNA縄文人」のカルチャで行われたことです。三国史記や記紀は、勝敗が決した時に敗者は原行動様式に因んで「死亡」と記した由縁です。四韓間の戦争は、日本で言う「お家騒動」です。

3-9.朝鮮半島の王妃の外戚争いが、特に高句麗第24代陽原王(在位:545~559年)[=第29代欽明]の頃に激化し、高句麗と百済は物部氏と大伴氏、新羅は尾張氏に棲み分け

 金官加羅出自の金武力が、大伴氏と物部氏と同盟し、尾張氏外戚系の高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)[=第28代宣下]から高句麗王位を簒奪しました。
 576年に尾張氏外戚系の新羅第24代真興王(在位: 540~576年)[=第28代宣下=高句麗第23代安原(アンゲン)王(在位:531~545年)]が金官加羅出自の達頭(=聖徳太子)に滅ぼされ、金氏新羅王の新骨正統の継承が以後混迷します。

3-10.高句麗滅亡(642年or 668年)、百済滅亡(660年)により記紀の倭国金氏朝は終焉

   倭国金氏朝は、第36代孝徳(コウトク)=百済第31代(末王)義慈王(在位:641~660年)=高句麗・大陽王で終焉します。
   百済第31代(末王)義慈王は、「DNA縄文人」物部氏から離反した報復で見離され、宗主・高句麗は642年に実質滅んで、力となる援軍がいなくなり、660年に百済は滅ぶべくして滅びました。
  百済第31代(末王)義慈王は、660年に唐の捕虜となり、同年歿したとされています。

3-11.高句麗・淵蓋蘇文と新羅は、統一新羅化の密約同盟をした疑いが濃厚

  百済第30代武王(在位:600~641年)[=高句麗第26代嬰陽(エイヨウ)王(在位:590~618年)=第35代舒明]はいつになっても高句麗王を退位しようとしないので高句麗第27代栄留(エイル)王[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷]により618年に高句麗王を追放されました。
  また、高句麗宰相・淵蓋蘇文は、高句麗第27代栄留(エイル)王(在位:618~642年)[=第35代皇極A物部(蘇我)蝦夷]を642年に暗殺しました。
 これらにより、高句麗と百済の「DNA匈奴金氏」と物部氏との関係は完全に破局しました。大きな軍事力のバックを失った百済は容易に滅亡することになります。
  高句麗宰相・淵蓋蘇文は、物部氏との同盟が完全に破局したので、高句麗と百済を見捨て、新羅との同盟に自己の復権を賭けるしかありませんでした。
 淵蓋蘇文の親新羅の倭国亡命政権の樹立は、新羅・尾張氏の倭国・物部氏の覇権簒奪と利害が一致しました。
 665年頃、淵蓋蘇文は、倭国亡命政権の第37代斉明A淵蓋蘇文に就き、倭国『大后』を新羅・尾張氏外戚系の新羅最重要者の新羅新骨正統第4代首主・額田王とします。以後、倭国『大后』の外戚は、物部氏から新羅・尾張氏に移ります。
 671年の淵蓋蘇文の唐の捕虜からの解放、672年の第38代天智の暗殺、672年の壬申(ジンシン)の乱と称されている大海人皇子の覇権奪取は、尾張氏の支援によるものです。

淵蓋蘇文の665年頃の倭国亡命政権の樹立等のこれらの動きは、淵蓋蘇文と新羅との統一新羅化の密約同盟がなければできないことです。

因みに、蘇我馬子の子の蘇我倉麻呂の子に蘇我倉山田石川麻呂、蘇我赤兄、蘇我連子、蘇我日向、蘇我果安がいます。蘇我蝦夷と入鹿が滅んでから、蘇我倉麻呂は蘇我氏の本流になりました。672年の壬申(ジンシン)の乱に関連して、大友皇子の近江朝の総帥の山部王は蘇我果安等に殺害(理由は日本書紀に記されない)され、その後、果安は自殺したとされています。

3-12.古事記の編纂目的は皇位継承性の正統性偽造

   古事記の編纂目的は、「DNA呉越系倭人混血縄文人」である倭国政事統括者に対抗するために第40代天武の皇位正統性を示す皇統譜の捏造でした。

3-13.二つの国史が必要とされた由縁は第40代天武(古事記)と(女帝)第44代元正(日本書記)のそれぞれの皇位継承元の示威

 記紀が扱ったそれぞれの最終『大王』がそれぞれの承継元です。
 第40代天武は、継承元を第33代推古(スイコ)天皇B額田部皇女(554年生~628年歿)とする古事記を必要としました。
 (女帝)第44代元正(日本書記)は、継承元を(女帝)第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良(ウノノサララ)とする日本書記を必要としました。

3-14.記紀の人工皇統譜の構造分析

   記紀は、新羅王族分国の庶子系金官加羅国の「DNA匈奴金氏」を出自とする高句麗王と百済王を基軸とし、新羅王族分国の大加羅国の呉系「トベ」系統の新羅妃の父系祖および藤原氏祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」を副基軸として造られた人工皇統譜です。 
①新羅王族分国の金官加羅国を出自とする「DNA匈奴金氏」を基軸
  新羅金氏7代・第3代安寧、新羅金氏8世代・第16代仁徳、新羅金氏11世代・第26代継体以降。
②第3代安寧の継承正統皇朝の反正朝
  新羅金氏8代・第18代反正=倭王珍、新羅金氏9代・第19代允恭=倭王済、新羅金氏10代・第20代安康=倭王興、新羅金氏11代・百済第25代武寧王(在位:501~523年)=倭王武。
③呉系「トベ」系統の『大后』の父系祖および藤原氏祖の「DNA源流鮮卑族和邇氏」に関係する皇朝を副基軸
   呉系倭人朝(第6~9代)、鮮卑族慕容部系垂仁朝(第11~14代)、和邇氏応神朝(第15、17代)、和邇氏雄略朝(第21~25代)、伴侶の高句麗物部朝(第31、35代)。
④百済王の第一期空位期(375年から420年)を利用して和邇氏象徴祖神として造られた百済系和邇氏の第15代応神と新羅和邇氏の第17代履中
⑤百済王の第二期空位期(475年から501年)を利用して呉系「トベ」系統の『大后』の父系直祖を和邇氏雄略朝に捏造
⑥皇位正統性を補うために付加した皇朝の継承元:
  神武B朝ニニギ族、第5代孝昭、第10代崇神。
⑦皇朝の継承正統性を示すために前皇朝と次皇朝を繋ぐ役割の『大王』を挿入:
  第9代開花、第13代成務、第25代武烈、神功皇后。
⑧不都合な出来事があった「DNA縄文人」である高句麗物部朝(第31、35代)を「DNA匈奴金氏」である母方祖父の欽明朝に改ざんして繰り込む
⑨捏造『大王』を隠すための捏造『大王』:
 第31代崇峻、第33代推古A達頭と、女帝の第33代推古B額田部皇女、第35代皇極B宝皇女、第37代斉明(サイメイ)B宝皇女。
 天上の第一位祭祀女王(女帝)が、地上の政事統治者の『大王』に天下ることはありえません。
⑩第40代天武(古事記)の継承正統性を示すために継承元とした第33代推古B額田部皇女と、第44代元正(日本書記)の継承元とした第41代持統(ジトウ)天皇B鸕野讚良。
  古事記と日本書記のそれぞれの最終『大王』が、それぞれの継承元『大王』です。

3-15.第38代天智が暗殺された後の後裔の皇位継承と倭国『皇后』の物部氏外戚から尾張氏、大伴氏系、新羅和邇氏系藤原氏への変遷

 鮮卑族や匈奴の常習では、第38代天智と共に一族皆殺し・追放のところ、新羅系和邇氏の藤原不比等は新羅・尾張氏、新羅・大伴氏系と同盟し、第40代天武に対抗して第38代天智の継承系統を第49代光仁(在位:770~781年)まで残します。

3-16.「倭」国名の原初は新羅の対外通称名

 「倭の五王」の時代の「倭」とは新羅王の対外通称名で、後に新羅王妃と同体の倭国『大后』が倭国名に使用しました。
「宋書 」と「南史」では421年から502年までの5人の倭王の官職号を授けましたが、官職号が示した領土は「百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」の六国が基本で、加羅を加えた七国の場合があります。ここで、領土には日本列島の倭国は含まれていません。
 南宋の頃には、安東・安西・安南・安北の四将軍号が成立し、「安東将軍倭国王」の称号があります。「安東将軍倭国王」は、弱小で属国的な新羅を権威付けるために領土とは別な意味の朝鮮半島の中北部地域を示す「安東」に、権威付けの「濊(=倭)国」を結合させた象徴的な対外通称名です。
 つまり、倭の五王の讃・珍・済・興は、新羅王ないし新羅王の継嗣の顔があり、倭王武は新羅王継嗣の百済王として実在しています。

「濊(ワイ、wei)」と「倭」は、同音韻「wei、ウエイ」の形成漢字です。  
 421年から502年頃の弱小で属国的な時代の新羅は、隣接していた格式のある濊国を併合して権威付けで「濊」の同音異漢字の「倭」に変えて対外通称名に使いました。しかし、新羅が高句麗王、百済王を輩出するようになると、もはや「濊=倭国」という対外的な粉飾を必要としなくなりました。そして、国体は、扶余族にできないので、後の自部族の「漢族匈奴」としました。

一方、扶余族盟主であった濊(=倭)の女首長の母系後裔の倭国『大后』は、新羅が扶余族「濊」を国体に選択せず、対外通称名の「倭国」名を不要にしたので、外交上の権威付けから日本列島の国名に新羅が一時的に用いた「倭国」を使用したと考えられます。これが日本列島の「倭国」の始まりと推測されます。

新羅が原本を作成した三国史記に記述されている「倭国」「倭人」は、由来に基づいた実情とその後の実情とが混在して故意にあいまいに使われています。

3-17.奈良時代は統治体制の遷移期で、平安時代藤原朝からは父系制のみの共同統治体制に変更

 倭国の天上の非政事為政者の「母系DNA呉系倭人」である母系制『大后』と地上の倭国政事統括者の父系制「DNA呉系倭人混血縄文人」『大連』との同位共同為政体制から、平安時代藤原朝は天上の非政事為政者の「DNA呉系倭人混血縄文人」である父系制『天皇』と地上の政事統括者の「DNA源流鮮卑族和邇氏」である父系制藤原氏との共同統治体制に変更しました。
 奈良時代は、統治体制の遷移期です。

3-18.十七条の憲法の第一条「和を以て貴しとなす」の実意は「DNA縄文人には逆らうな」

 平安時代に作られた聖徳太子の十七条の憲法の第一条「和を以て貴しとなす」は、「和(=倭)」で倭国政事統括者の「DNA縄文人」を暗喩し、「倭国政事統括者の「DNA縄文人」には逆らうな」という後裔への聖徳太子と第40代天武の遺訓と解釈するのが自然です。
 「DNA匈奴」の根源カルチャの聖徳太子と第40代天武の波乱万丈の人生には、共存共生や現在の平和希求の観念はなく、現在の進歩的知識人の自己都合による曲解です。
 倭国政事統括者の「DNA縄文人」は、軍事力を重視しており、しかし、勝敗が決した時は無用な生命の削除はほとんどの場合していません。
 平和には強力な軍事力の保有が必須とするもので、現在の進歩的知識人の平和主義と基本を異にしています。どちらが本気の生き方をしているかの視点でみる必要があります。
 物部(蘇我)馬子や西郷隆盛や勝海州の平和主義や乃木希典の敵大将への処遇は<縄文>主義と類似しています。

3-19.統一新羅(三国史記)と倭国(記紀)は共同して為政者の連枝を隠蔽・改ざん

 統一新羅は、倭国と協調して、倭国、高句麗、百済、新羅を通婚同盟の連枝国からそれぞれ独立した国体の国に隠蔽・改ざんしました。三国史記(原本)と記紀は、同様な手法で共同協力して隠蔽と改ざんをしました。
 日本書記は、「DNA源流鮮卑族和邇氏」である藤原氏系により、大幅に修正され、完成されたのは平安時代であると推測されます。
 これが、日本と朝鮮の「根源ルーツの漠然とした不安の保有」と「近くて遠い国」の原初かもしれません。

三国史記の高句麗本紀と百済本紀には、皇史時代以前の倭王『大王』の顔がない王の場合には、王妃の名が記載されている場合があります。
 ところが、三国史記の高句麗本記と百済本記には、倭国と対婚族同盟をした以降、王妃の名は通称・別名を含めて一切記載されていません。
 記紀学者は勿論のこと、我が国だけでなく三韓の古代史研究者は、何故この不自然さに全く触れないのでしょうか。
 その他、三国史記(原本)と記紀が特に隠蔽したことに、加羅諸国の歴史と新羅との関係、金官加羅国と中央アジアの突厥との連枝、大賀羅/大加羅と倭国大和との関係、中央アジアやペルシャ等の連枝、等があります。
<以上>

<次は、第四部 記紀の論理的歴史の概要、第五部 記紀に関する今後の課題、おわりに>