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囲碁と将棋の「決定的な差」について(藤井聡太以外の理由はあるのか)

 囲碁の本因坊戦の規模縮小がちょっとした話題になっている。
 ついにここまで来たかという印象である。
 もともと将棋も囲碁も「日本の人口減少による衰退」という同じ状況に直面しており、競技人口も減少している。
 にもかかわらず、将棋のタイトル戦がここまで縮小するという気配は今のところない。
 なぜここまで差がついたのだろうか。
 囲碁ファンから見ればやはり今回の件はショックらしく、その差を「将棋は藤井聡太ブームがあるから」という声に求めるところは多い。
 確かに藤井聡太ブーム直前の将棋界は「カンニング疑惑事件」で将棋界の評判は地に落ちており、それなりに閉塞感は漂っていた。
 そこにさっそうと現れたのが「藤井聡太」となれば、その影響は短期的には大きかったといえる。
 しかしながら、囲碁においても最年少プロが出るなど、それなりに話題があったはずである。(無理やりではあるが)
 現在において、囲碁と将棋では棋戦のスポンサー数に大きな隔たりがある。
 この記事によると「ここ一年」に絞って「囲碁の新規スポンサーはゼロ」とのことであるが、それ以前から囲碁のスポンサーはあまり変わっていないように思われる。
 日本棋院のホームページを簡単に確認したが、日本棋院と新聞社以外ほぼ主な主催者に名前が見当たらない状況にある。(例外は女流のドコモ杯ぐらいか)一方、日本将棋連盟の棋戦のページを確認すると、新聞社以外の名前がそれなりにちらほらある。特にキーとなるのは、タイトル戦のネーミングライツを売り渡していることである。(お~いお茶杯王位戦・など)
 そもそもここ10年という意味では、棋戦すら増やしている。
 さすがに女流棋戦の隆盛は藤井聡太登場と大いに関係しているが、実はタイトル戦も一つ増えていたりする。(叡王戦は2015年からである)
 そう考えると、囲碁界は縮小の話しか聞かないのに対し、将棋界は縮小もあるが拡大している面もあるという状況である。
 なぜこれだけの差が生じたのであろうか。
① そもそもスポンサーが変わることが想定されていたかどうか
 囲碁界においては、「本因坊戦は毎日」「名人戦は朝日」という構造が長年にわたって維持されていた。
 しかしながら、将棋界では大看板たる名人戦の主催からして朝日と毎日が取り合っていた。
 挙句の果てに将棋の名人戦は「毎日と朝日の共催」というややこしい形で決着しているが。
 そういう意味では、将棋のほうが「タイトル戦のスポンサーが変わる」ということに抵抗がなかったと思われる。

② AIへの対処
 2010年代は囲碁界においても将棋界においても「AI」が話題になっていた。
 いよいよ人間のプロを超えるかという状況になったからである。
 その中で、囲碁では「AlphaGo」がいつの間にか人間を追い越してしまった。
 まったく話題にならなかったといっていい。
 将棋界は違った。
 数年前から「話題にしまくった」のである。
 まだ将棋AIと人間のプロが戦えるうちから「電王戦」と銘打って将棋AIとプロと5対5の対決を仕込み、AIが人間を超える瞬間をまざまざと見せつけたのである。
 将棋のプロとしてはものすごくつらい光景だったと思うが、それでもやってのけたことは大きな話題になり、現在の叡王戦はもともと「電王戦」からきている。
 こういう「文化の変質を恐れない積極性」が、ニコ生が始まったころの棋士たちの姿勢にも表れており、藤井聡太ブームを受けた後のAbemaトーナメントや女流棋戦の棋戦増、さらには「麻雀界とのつながり」(囲碁や将棋とは比較にならない「自由でアグレッシブな麻雀界」からの影響はYoutube進出や日本将棋連盟の各種施策に小さくない影響を与えている。)や「Youtubeに永世名人進出」などにもつながっているのだろう。

③ 棋士の権威と女性の扱い
 囲碁でも将棋でも「棋士」というものはアマチュアより強い人として認識されている。
 これは「プロ棋士」というものの存在価値だといっていい。
 しかしながら、「プロ棋士」の権威そのものが将棋のほうが高い。
 なぜそうかといえば、「女性」というものの扱いが異なるからである。
 囲碁も将棋も棋士になるためには男女問わず一定の基準を突破しなければならないというのは一緒である。
 しかしながら、「女性向けに普及したい」と考えた時に、ある程度「囲碁や将棋を生業にする女性」を作らないと厳しいと考えた。
 ここまでは一緒なのだが、そのあとが違った。
 囲碁の棋士は女性枠を設け、一般の棋士に混ぜてしまった。
 その結果、もともと将棋に比べて低かった敷居(単純に人数比で囲碁棋士は将棋棋士の倍以上だ)が女性にとってさらに低くなってしまい、しかも「棋士」として扱われてしまった。
 これが良くなかった。
 AIによってアマチュアがぐんぐんと力をつけてしまい、「棋士より俺のほうが強い!」と言い張るアマチュアがそれなりに出てきてしまったのである。
 一方、将棋においては、女性参入のためにあらたに「女流棋士」というものを設けたのは一緒だが、あくまでも「棋士」とは違う存在にした。
 少なくともトーナメントプレイヤーとしては「下」の位置づけといっていい。
 そのうえで、「アマチュアのうち強い人を残らず棋士にしてしまう」ように参入制度を設けた。(むちゃくちゃきびしい条件ではあるが)
 頑として「プロ棋士はすべてのアマチュアより強くなければならない」という条件を変えなかったといっていい。
 このことは、将棋棋士の権威を間違いなく維持した。
 AIが出てこようが「人類最強」であることには変わらないようにし、アマチュアが「俺のほうが強い」と言い出せる環境を消滅させてしまったといっていい。
 じゃあ将棋界で女性が活躍していないのかという意図、皮肉なことに、「女流棋士」は自分たちの存在意義を「普及」に求めた。
 各種イベントでの活躍は棋士・女流棋士問わず行っているが、特に生放送などにおいては「聞き手」を務め、コミュ障がちな棋士のキャラを引き立て、長時間の配信に耐えられるようにした。おそらく棋士だけだったら不可能な所業である。
 ここまでの思い切った振り方ができたのは、「棋士というものはとんでもなくえらい存在である」という認識が共有され、維持されたからであろう。

④ 団体の「議決権」
 日本棋院という囲碁の「団体」と日本将棋連盟という将棋の「団体」。その運営に当たってはどちらも重要事項を決める際には「総会」で決めなければならない。
 その総会において議決権を持つのは「社員」といわれる「メンバー」である。
 基本的に「社員」であれば、少なくともその総会の場では「一人一票」として処遇される。当然一票があるので発言権もそれなりにあるということになる。
 この「社員」からして、日本棋院の社員は「代表社員制」である。今の法律では「評議員」というのだが、とにかく「棋士のうちごく一部のメンバーの決定」ですべてを決めることができる。
 かたや将棋はどうかというと、大変面倒くさいことに「棋士」≒「正会員」≒「社員」である。
(=ではなく≒なのは、正会員の中に一部の女流棋士がいるからである。)
 つまり、将棋連盟は「タイトル戦などではぱっとしないが町道場を経営していたりする棋士」や「Youtubeで普及している若手棋士」などの声を完全に無視することはできない。
 この差は団体の意思決定における「危機感の共有速度」に大きな影響を与えているであろう。

 このように考えると、藤井聡太ブーム以前に、「日本棋院と日本将棋連盟の新規市場開拓能力の差」があったと思われる。そして、そのことは囲碁界からすれば、「改善すれば大いにチャンスはある」ということを示唆するものであるといえる。