脳出血(*_*)、骨折(TOT)でも、歩こう⑩
私は、リハビリで使う専門用語を覚えるのが好きだ。最初は、療法士さんが歩き方の説明をする時に言った言葉を拾って真似して、ウケるのが楽しかった。そのうち、それらの専門用語は、リハビリの復習をするのに役立つようになっていった。
足が地面に着いている間は「立脚」という動作だ。それらは、「立脚初期」「立脚中期」「立脚後期」に分かれている。そして足が地面から離れると「遊脚」になる。右足と左足は交互に「立脚」と「遊脚」を繰り返すことで、「歩く」ことができる。
私は去年の脳出血の後遺症で、左足に麻痺がある。特に目が届きにくい足先や足の裏はほとんど感覚がないので、地面と接触している時にどんな状態なのか分からない。そのため左足の「立脚」の動作を作ることが難しい。だから、左右の足の「立脚」と「遊脚」のバランスが崩れて、左足を引きずるような歩き方になってしまうのだ。
去年の脳出血での退院後に、視床痛が強くなるにつれ麻痺もひどくなり、歩き方が崩れていることは分かっていた。でも、右足が強くなっていたことと、歩くことで痛みがあるわけではなかったので、それほど気にせず歩くのを楽しんでいた。
大腿部頸部骨折をしてしまったことで、今年もまた長期間リハビリ入院することになった。しかしこれほど歩くことに苦労するとは思っていなかった。
とにかく痛いのだ。「歩くことは痛いこと」そんな生活を送っている。
この生活を「歩くことは楽しい」に戻したい。
今回の骨折手術後にリハビリ病院に転院した時には、最初は古巣に戻ったような気分だった。
去年とは病棟が違っていたが、偶然去年担当してもらった療法士さんが数人いたので安心だった。
去年担当してもらった療法士さんに、左足の立脚後期の蹴りから遊脚にかけての形が難しいと私が言うと、「思い出しました、そうでしたね。」と療法士さんも笑いながら応えてくれて、歩き方を見てくれた。今回は麻痺のうえにさらに痛みもあるので、体重が乗ったとたんに左足は痛みに耐えられず、右足が早く前に出てしまう。左足は後期どころか中期で立脚をやめて、体重を右足に乗せる時間が長くなる。左右のリズムが崩れてくると身体はねじれてくる。身体のねじれを直そうとすると上半身が緊張してしまって肩が痛くなる。
今回は、まず「痛い」から始まる「歩き」だった。前回の脳出血の時のように「立脚」とか「遊脚」を意識することはかえって緊張を誘発することに気づいた私は、その言葉を療法士さんと交わすことを止めた。
去年の入院の時にはっきりと覚えていたのは、しっかりと歩くためには「大腿四頭筋」を鍛えることが大事ということだ。脚のどの辺りと聞くと、膝よりも上の前側にある筋肉だ。お尻から続くぷよぷよした後ろ側は「ハムストリングス」だ。それは聞いたことがあった。食べるハムとよく似た響きだから耳に残っていた。
「大腿四頭筋」を鍛えるのに一番効果的な筋トレはスクワットだ。去年の脳出血で退院した後も、朝晩続けていた。今回の手術後に歩き出した時に、歩行器から杖歩行、そして杖なし歩行へと進歩するのに1ヶ月もかからなかったのは、「大腿四頭筋」を鍛えていた成果だと思っている。痛みもあるし、変な歩き方であるものの、脚の動き自体は力強い。
今回の入院では、筋肉の名前をさらにたくさん覚えた。まず、去年の復習だ。一番覚えにくくて、私が歌を歌うように節をつけた筋肉は何だっけという話をすると、療法士さんが次々と名前を言ってくれて、やっとその筋肉を思い出した。それは、「大腿筋膜張筋」だ。「♪ダイタイ♪キンマクウー♪チョウーキンー♪」と歌っていると、去年担当してくれていた療法士さんも思い出してくれて、いっしょに口ずさんでくれた。
ところが、私の受けた手術は、まさにそこにメスを入れ自分の骨頭を取り出し人工の骨頭に置換する手術だった。そのため「大腿筋膜張筋」は傷んで硬くなり、脚を少し動かすだけで、左半身全体に広がる視床痛の震源地になっていた。去年イチビって歌にしたバチが当たったのかもと思った。
おまけに、もう一つ妖怪人間の歌の節で歌っていた「腸脛靱帯」「♪チョーケイ、ジーンタイ♪」も「大腿筋膜張筋」につながっているので硬くなりやすくて痛みが強かった。
復習はまるで筋肉からのイチビリに対する復讐のようだ。
ここまで書いているうちに、退院の日になってしまった。
療法士さんたちに毎日会って、笑い合って、隙間時間にエアロバイクを漕いだり、廊下を歩いたり、毎日お風呂に入ってさっぱりしたり、夜勤の看護師さんと言葉を交わす日々は、突然消えた。
私は、前日に自分で洗濯をして、身の回りにある荷物を片付けて帰る準備を整えた。
なんだ、旅が終わるみたいだと思った。
退院の1ヶ月ほど前から、涙が止まらなくなっていた。
物理的に目が故障しているのか、精神的に心から液体が絞り出されているのか、どちらなのか分からなかった。今でも分からない。
退院して1ヶ月経った今でも、目にティッシュを当てると濡れている。夜寝る前には、大粒になって枕が濡れてしまうこともある。
同じ時期から残念なことが起こっている。
人の気持ちを受け入れる力がねじれて曲がっていることだ。
なぜかな。自由が欲しい。自由が欲しい。心の中で叫んでしまう。
人が私を心配する言葉が、転けてしまった私を責めたり、私の自由を制限する言葉に聞こえてしまう。こんな私をみんなが嫌って、離れていくような気がする。でも反対に、一人になって周りに誰もいなくなったら私は自由に飛び回れるような気もするのだ。
私は、一人でいることが好きだ。
手術した医師に「一生走るな。一生禁忌の姿勢に注意しろ。」と言われた。
私よ、贅沢を言うな。下手だけれど、私は歩ける。
走れなくても、歩けるんだよ。
人と比べたりはしない。みんな一生懸命、それぞれの花を咲かせている。
でも、過去の自分と比べてしまう。脳出血のリハビリで、最後には走ったり、畑に行くときの階段にぴょんと飛び乗る練習をしていた1年前の自分を思い出すと悲しくなる。あの時の自分と比べてはいけない、いけないと思っているのに。
骨折は痛かった。手術も痛かった。自分は死んだほうがましと思うほどの痛みを今回は何回も経験した。
こうなったら、ええい。
怪我の功名とか、災い転じて福となすという言葉がある。これだこれだ。
去年の脳出血で、左側の機能を失い、リハビリで脳の別の部位で代償して歩けるように、そして、動けるようになったものの、骨折をするまで、そして今回のリハビリが始まるまで、左の足の裏の感覚は全く戻ることがなく、感覚ゼロのままだった。しかし今回の骨折後のリハビリが進むに連れて、足裏は少し感覚が分かるようになり、そのおかげで、左足の歩き方が改善した。「少し」でも、私にとってはとても大きい。左足の足裏の感覚については、医師も理学療法士も、一生戻らないと断言して、私も諦めていた感覚だ。足の裏が、地面に着いている感覚があるってすごい。地面に足が着いたと分かるから、地面を踏んで、蹴って、足を前に出すことができる。立脚後期ができるようになった。
心はまだ前向きになれないけれど、足は「前に進む」。
もう一つ、ええい。
怪我の功名としてこの先私が期待していることがある。
「痛み」が何であるかを分からなくなってしまっている脳に、最強の「痛み」を経験させた。
この経験が、24時間続く疼痛治療に役立って、完治は難しいと言われている視床痛を和らげてくれることにならないだろうか。
リハビリ病院の整形外科医師は、他の人よりも時間はかかるかもしれないけれど、骨折の痛みは時とともに必ず無くなると言ってくれた。
今も、去年の脳出血から始まった24時間の痛みはあるけれど、視床痛という脳の感覚の暴走と言える痛みの震源地は、ほとんどが骨折関連のものだ。これらが消えるときに、視床痛もいっしょに持っていってくれるかもしれない。持っていってくれたらそれは奇跡だ。
骨折で苦しんだ軌跡の先には奇跡があることを信じたい。
脳出血しても、骨折しても、でも、だいじょうぶ。
歩こう、歩こう、歩くと必ず前に進む。
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